第6曲 四重奏、そして

第12話 私にはもう、分からない

 大通りを左折して、待ち合わせ場所の駅前へと向かってくるその車を、樒は目を丸くして見つめていた。

 パステルカラーで塗られたレトロチックで可愛らしい外見とは対照的な、巨獣のうなり声を思わせる重厚な排気音。その腹の底にまで響いてくる音で、あの自動車には尋常ではない改造が施されているということが素人でも容易く察せられた。

 通勤通学が主な用途になる田舎駅の御多分に漏れず、土曜日の閑散としたロータリーを見回してもバス待ちが2人と樒だけで、ほかに待ち合わせらしい人影は無し。おそらくあの車は自分の目の前で停まるだろう、と樒は予想する。見回しついでに駅の柱時計を見上げると時間は10時ちょうど。待ち合わせに決めていた時間どおりだというのも予想を裏打ちしている。

 いや、まさか。などと考えているうちに、件の車が樒の目の前にピタリと停まった。

「おはよう樒ちゃん、お待たせ」

 開け放たれた窓から見える運転席には、やはり杏華が座っていた。少女趣味な服装でひらひらと優雅に手を振る彼女は、いつもと変わらぬ可憐さと高貴さを感じさせた。

「え、ええと……おはよう、ございます」

 形容しきれぬ凄まじいギャップにどう反応すればいいのか分からず、樒は硬い表情で挨拶する。

 どうぞ、と促されるままに助手席に腰を落として、樒がまず感じたのは窮屈さだった。小柄な杏華が乗っていると広く見えたが、助手席の足元には何に使うのかも分からない機材が取り付けられていて、あまり余裕がない。見かねた杏華に座席の位置を何段か下げてもらい、ようやく落ち着いた。

「準備は良いわね? 行くわよ」

 初めて乗り込んだ車内でそわそわと辺りを見回す樒に構わず、発進。エンジンの揺れがシートに響く



 開け放たれた窓とサンルーフから初夏らしい爽やかな風が吹き抜けてゆく。

 アクセルを吹かす度に雄々しく吠える車は、滑らかな杏華の運転で――少々加速とハンドリングが激しいが――樒の魔術の練習のために静岡市の方へと向かっていた。

 法律上、魔術は免許を持っていなければ使用を許されないが、さりとて魔術を習得するには自らの手で魔術を使わなければ意味がない。そういうこともあって、適切な設備を揃え、専門の資格を有した指導員を配置している施設内でなら、事前の申し込みで限定的な魔術の行使が許可される仕組みになっている。

 そのような施設は静岡県下にも数か所存在し、その中には葉槌学院大学も含まれているはずなのだが、なぜか杏華はわざわざ離れた場所にある静岡市の体育館を選んでいた。

 当初は予約の問題でそうせざるを得なかったのだろうと樒は勝手に納得していたが、この狭いシートに座らされてからというもの、杏華はこの車を自慢するためわざと遠くを選んだのでは、などとあてつけがましい邪推も湧き上がってくる。

 そもそもこんな車を杏華は一体どこから手に入れたのか。考えれば考えるほど良くない方向へ思考が向かい、結論は遠のいてゆく。

「驚かせちゃってごめんなさいね。こんな車で、びっくりしたでしょう?」

「えっ……あ、そんな、驚いたなんて」

 考え中に突然話を振られ、しかも早々に図星を突かれた樒は頬を赤らめて反射的に手と頭を横に振った。が、杏華の余裕たっぷりな横顔を見ていると何もかもを見透かされているような気がして、両手を下ろす。

「そうですね、水月先輩がこういう車に乗ってるのはだいぶ意外でした」

「正直でよろしい」くすくすと笑いながら頷き、続ける。「旦那の趣味が感染うつっちゃってね。今じゃすっかり」

 なるほど、旦那さんの趣味。単純明快だ。

 疑問が氷解して「ああー、そうだったんですね」と笑って返した樒だったが、杏華の言を脳内で反復して、固まる。

「えっ先輩結婚してたんですか!?」

「あら……言ってなかったかしら? 私ったら、ずっと前に話したとばかり」

 インパクトのある事実を立て続けに突きつけられ、樒は思わずこめかみを押さえる。

 杏華の顔立ちは人種の違う樒でも分かる程に整っているし、若干強引な所もあるが基本的に淑女という言葉がふさわしい誠実な人物。あれほどに出来た人物なら男も選び放題だろうが、まさか既に縁付きだったとは想像もしていなかった。それにしても学生結婚とは、家族からも色々言われたろうに、などと下世話な事を考えていた樒だったが、そこでふと、槙理の話を思い出して、点と点が繋がる感覚を覚える。

 心の端でためらいを覚えつつも、自分の気持ちに嘘はつけない。一呼吸間を置いて、思い切って口火を切る。

「あの、不躾な質問だとは思うんですけど、もしかして槙理ちゃんとの喧嘩別れって、そのことが何か関係が……?」

 槙理の名を聞いた瞬間、横目で見る杏華の眉がぴくりと動いた。表情自体は何も変わっていないのに、赤信号で停まった車内に険悪な雰囲気が広がったような気がする。

「そう。槙理から聞いたのね」

 彼女の警戒がうかがい知れるその声色に身を強張らせながらも、樒はこくりと頷く。

「槙理ちゃんから相談受けて。かなり悩んでたみたいで……」

 正直に、樒は自分の思っている事を一つひとつ言葉にしていく。

 槙理が言っていた通り、樒はもう2人の間に関わってしまった。もう見て見ぬふりなどできない。ならば、自分がやるべきと思ったことをやらなければいけない。

「私、槙理ちゃんの助けになりたいし、先輩ともまた昔みたいな仲になってもらいたくて。だから――」

 それに、ここでやめてしまったら、自分はもう二度と憧れに届かない。樒はそんな予感を覚えていた。

「教えてください。先輩と槙理ちゃんの間に何があったのか」

 ラジオのざらざらとした音が風に混ざる。

 青信号。杏華がため息をついて、長考から動き出す。

「元々樒ちゃんとお話するつもりだったけど、まさかこんなことを話させられるなんてねぇ」

「元々、私と……?」

「私が理由もなく車を使って遠出すると思って?」

 言葉の意味が分かっていない樒を見て、杏華はまたくすくすと笑う。

「車は最高のプライベートスペース。ここなら最近苦しそうなあなたの秘め事を聞き出すのに最適だと思ってね」

 確かに、樒はあの話を聞いた日からずっと、杏華から話を聞くタイミングを窺っていたが、まさかその目論見が最初からバレていたとは。

――隠してたつもりだったんだけど……

 樒は再び頬が熱くなるのを感じる。



 車はインターチェンジの上り坂を越えて自動車専用道路に合流、同時に急加速。山間の景色が猛スピードで流れる。前方に見える魔術災害注意報と表示している電光掲示板もあっという間に過ぎてゆく。

「そう、私は元々狩明の娘。養女だったの」

 樒の知っている事を聞いたうえで、杏華は静かに語る。

 ラジオは切られ、窓を閉じて完全な密室になった車内にエンジン音と杏華の声だけが満ちる。

「赤ん坊の頃に捨てられて、施設でいじめられてた私に魔術の才を見出して拾ってくれたのが狩明の前当主さま。もう10年以上も昔の話よ。

 作法に、勉強に、武芸に、魔術……全部あそこで教わった。狩明に拾われたから、今の私がいるの」

 自らの過去を臆面もなく、淡々と話す杏華。

 故も分からぬ孤児から、名家の仲間入り。絵に描いたような成功を引き寄せた杏華の素質と幸運、そして口ぶりから察せられる苦難の数々。静かに話を聞いてはいるが、心の内で樒は彼女の規格外さを思い知らされる。

「そんな環境で旦那さん所へ行くために出ていくなんて、すごい覚悟ですね」

「それは違うわ。あの人との出会いはまた別のお話。私はたんに誰かの人生の駒にされたり、思惑のために生かされるのが嫌になっただけよ。がんじがらめの跡継ぎも、出来レースな縁談もまっぴら」

「なるほど。先輩は自由を取った、ってことですね」

 杏華がこくりと頷く。

 樒もここは理解が早い。自由と家柄のどちらを取るか、小説か何かでよく見るような話だが、本当にあるのだなと頭の端で思う。しかし、問題はその先の事だ。

「でも、出ていく理由は何にせよ、いくらなんでも槙理ちゃんがそれだけの理由で、心配ならまだしもあんなに怒るなんて……私は思えないんです」

 樒も、槙理との会話を通して彼女の性格や考え方を少しは把握しているつもりだ。

 確かに槙理は魔術にしか興味がなく、自分の家柄に誇りを持っているのは間違いない。だが、同時に彼女がむやみに感情を昂らせたり、声を荒げたりするのを良しとしないことも知っている。故に樒は、今しがた杏華が話した理由だけで槙理があれほどの怒りをあらわにするとは、どうしても考えられなかった。

 トンネルに差し掛かり、車内が一気に暗くなる。

「由緒ある家柄の生まれって、そんなに簡単じゃないのよ」

 槙理は特に。と続ける杏華の表情に、陰りが現れる。

「小さい頃から天才と呼ばれて、家督を継ぐことを運命づけられて生きてきた……家と魔術が、あの子の全て。あの子には、私の選択は役目からの逃避でしかなかった」

 杏華が急に話を切る。何となく自責の念が感じられる表情。

 トンネルの内壁にエンジンの音が反響する。杏華の横顔を見ていると、まるで車が彼女の代わりに泣いているかのように、その音がどこか悲しげに聞こえた。

「そうね……言い訳がましいわよね」

 杏華は胸の内で何か決心したように頷き、続ける。

「あの時は私も、あの子と生き方を認め合うには幼すぎた。

 でも、あれから2年。あの子がずっと何を思っていたのか。今のあの子が何を感じたのか……私にはもう、分からないの」

 居た堪れなさそうな面持ちで、本心を打ち明ける杏華。樒は何を言っていいのか答えを見いだせず、黙って俯くしかなかった。

――なら何故あの夜、槙理は泣いていたのだろう?

 その疑問を尋ねることもできないままに。


「さあ、暗いお話はここまで」嫌な空気を断ち切るように、努めて明るい声色。「話し過ぎて喉も乾いちゃったし、きりの良い所で一休みしましょ」

 しばらく走ってトンネルを抜けた先に休憩所を発見した杏華は車を左に寄せて減速、駐車場に入る。

 ざっと見ただけでは手洗い場と自販機に周辺の案内看板があるばかりの殺風景なそこは、中央分離帯の生垣の向こうに見える道の駅とは比べるべくもない程に人少な。というよりも、そこをうろついているのは樒と杏華しかいなかった。

 自販機で缶ジュースを買い、手持ち無沙汰な樒は暇つぶしに案内看板を見上げる。杏華は用足しに行ってからしばらく経つ。

――観光スポットって意外とこういう所にもあるんだな

 古くから東海道屈指の難所として知られていたらしいこの峠には、休所の跡やら山越えで命を落とした者たちの供養塔やら各時代ごとに掘られたトンネルやらといった史跡が点在し、複雑に曲がりくねった山道は手強いハイキングコースとして今でも整備されている……という旨が看板に記されている。

 樒は歴史に特別造詣が深いわけではないが、それでも歴史的な背景を持つ観光地というものは物珍しさ本意で訪れてみたくなる。当時の人々が何を思い、何を成したのか思いを馳せるのも面白い事だし、何より新しい事を知るということは楽しい事だ。

 ちょうどこの看板の後ろに伸びている小径はこの地の伝承にまつわる寺院に繋がっているらしい。地図の縮尺は分からないが、そこまで遠くはない、と樒は直感する。

――すぐ戻ってこられそうだし、ちょっとだけ……

 一度気になったらどうにも我慢できない。杏華はまだ戻るまで時間がかかるようだし、と心が囁くままに樒は看板の裏へと回る。

「樒ちゃん」

 それより何より、樒はその向こうで何かが呼んでいるような気がした。“何か”の正体が分からないのが、余計に関心を引き立てる。行ってみたい、という興味は次第に行かなければならないという強迫観念に変わり、一歩、また一歩と足を突き動かし、

「……樒ちゃん?」

 ちりちりと脳裏に焼けつくような予感に誘われて、鬱蒼と木々が生い茂るほの暗い山道へ――

「だめ! 樒ちゃん!」

 足を踏み入れる直前で樒は後ろ手に物凄い力で引き倒され、風船が割れるように現実に目覚める。霧の晴れた視界の向こうには、鬼気迫る表情の杏華。

「私、今何を……?」

「あなた、魔術災害に取り込まれかけてたのよ。あと少しで境界を越えてたわ」

 放心状態の樒は、少し間を開けて言葉の意味を理解し、背筋を凍り付かせる。

「わ、わたし……あの看板を読んで……あ、ああ……!」

「落ち着いて、樒ちゃん。もう大丈夫よ」

 樒を抱きかかえる杏華から香るアプリコットの甘い匂いと、暖かく柔らかい毛皮の感触。実際には直前にかけられた認識汚染対策のまじないのお陰なのだが、こちらを見下ろす深紅の双眸を見つめ返していると、先程まで彼女を支配していた混乱と恐慌は次第に鳴りを潜め、気持ちが鎮静してゆくのを感じる。

 落ち着きを取り戻した樒を立たせた杏華は、次は異界への入り口と化した山道に目線を移す。

「い、行くんですか?」すぐに意図を察して、杏華の腕に縋り付こうと手を伸ばす「私も一緒に――」

「だめよ」ぴしゃりと撥ね付け、厳しい眼差しで樒を睨んだ。

「あなたを守り切れる自信はないわ。向こうに行けば集落があるし、すぐに警察に連絡して、人がいるところに逃げていなさい」

 遠回しに邪魔になるからあっちにいけと言われ、樒はしゅんとうなだれて杏華の背中を見送る。彼女の判断は正しい。が、それが余計に自分の無力さを痛感させた。

 杏華の姿が暗闇に消えて自分ひとり。心細さを感じながらも、樒は彼女に言われたことを思い出して携帯電話を手に取り、見つめる。

――今の私に何が出来るだろう

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る