第5曲 天才は何を憂う
第10話 どうしてもやらなきゃいけない事
幻の炎が薄らぎ、町がゆっくりと、夜の暗さを取り戻してゆく。
「私は、あなたに会う為にここまで来た」
「あたしと会う為にって」
「ごめんなさい、槙理……私、あの時あんなひどい事言って……」
フェンス越しに懸命に語り掛ける杏華。その謝罪に、槙理は表情を強張らせる。
「あの時から、ずっと言えなかったこと。私、どうしてもあなたに――」
「今更……」
槙理の震える声で、杏華の言葉が切られる。
「今更なによ! 勝手に諦めて、勝手にいなくなって、今更言うに事欠いてそれ!?」
ついに限界を迎えた槙理がむき出しの感情を露わにする。目の当たりにした杏華の顔からは悲しみの相すら消えていき、絶望という空白だけが残る。それでも、まだ言い足りない。槙理は檻に体当たりする猛獣のように音を立ててフェンスを掴み、握りしめる。
「謝るくらいならなんで逃げたりしたのよ!! なんであたしの知らない魔術使ってんのよ!!」
槙理の視界が滲み、頬を流れる感触。杏華もまた膝を突き、がらんどうの面持ちでぼろぼろと涙を流している。
目の前で泣き崩れるかつての友を目にして、槙理の感情はめちゃくちゃに混ざり合う。そしてそれは際限なく膨れ上がり、はけ口を求めて体の中を跳ね回り、こらえきれずに口から溢れ出る。
「なんで今更、会いになんかきたのよ……!」
静寂、深夜の住宅街。フェンスはどこまでも遠く、2人の距離を隔たせる。
遠くでサイレンの音が鳴り響いているのが聞こえる。
――……
目覚めた槙理の目はまるで怯える猫のように丸い。
まだ辺りは暗い。時計を見れば4時手前、酷い寝汗と早鐘のように叩き打たれる心臓のせいで二度寝は叶いそうにない。
なぜこんなことになっているのだろう? あの夜の出来事が脳裏にこびりついて離れない。毎晩、何度も夢に見るのだ。
頭を掻きむしりながら槙理はふらふらと起き上がり、勉強机に対座してルーズリーフに封印術式と
どうしようもなく気持ちが乱れた時にやりだす術式の写経。彼女は後ろから迫りくる悪夢を追い払う為、あるいは逃げ切るため、一心不乱に術式を書き続ける。
***
5月某日。
ようやく肌寒さが無くなった朝の葉槌市内は数日前に魔術災害に見舞われたとは思えない程に落ち着きを取り戻していた。
寝坊しかけた樒が学校へ行く支度をする横で、朝のテレビのニュース番組が政治問題と芸能人のスキャンダルを報じている。
「教科書、OK。体操着、OK。お弁当……は買えばいいや」持ち物リストでカバンの中身を2度確認してジッパーを閉じ、テレビを消す。
アパートの階段を急ぎ足で下りた樒の顔を日光が明るく照らす。いつもより遅い出発。そこにあったのはいつもと何ら変わりない1日の始まりだった。
魔術災害18号、日本名“2007年の志筑の大武者”による負傷者は軽度な
暖かい日差しを全身に浴びながらいつもの通学路を行く樒が、交差点で道行く車を一人眺めている学生の背中を見つける。樒と同じブレザーと無造作にまとめたのが見て取れる二つ結び。それが樒があまり出会いたくなかった槙理の背中であると気付くのに、そう時間はかからなかった。
「あ……おは、よう……槙理ちゃん」
樒は声を掛けるのを躊躇い、言葉を詰まらせる。
「ん、おはよ」
対する槙理は気だるそうに目を向け、素っ気なく返事。手にはゼリータイプの栄養ドリンク。
少し元気がなさそうだが、槙理の変わらぬ調子に少し安堵して、樒は語を続ける。
「いつもこのくらいの時間に出てるの?」
「そうだけど?」
「よ……よく遅刻しないね」と、樒は引き気味に言う。
――私より早く登校してるのを見たことないとは思ってたけど……
ともすれば遅刻しかねない時刻を表示している時計を確認しながら、樒は感心と困惑が混ぜこぜの面持ちを浮かべた。信号が青に変わる。
「話変わるけどさ」横断歩道の中ほどで樒が口を開いた。「それ、美味しいの? たまに飲んでるけど」
樒の視線の先で、槙理の手に握られた銀色のパックが内容物を吸い上げられてしぼんでいく。
「そんなに」樒の顔も見ずに槙理は曖昧に答える。「朝ご飯作るの面倒だからってだけ。元々朝はあんま入んないし」
言葉を切って一気に飲み切った槙理は、道中に捨て場所がない事を思い出して仕方なくキャップを閉め、カバンのポケットに捻じ込む。
樒と槙理が知り合って1週間が過ぎた。部室棟の一件以来、樒は何となく気まずい気がして自然と槙理とは距離を置くようにしていた。槙理は槙理で樒に話しかけるどころか近づく素振りすら見せない。理由はどうであれ、お互いにアプローチを仕掛けなかった結果、2人の関係がふりだしに戻ってしまったのが現実である。
もしかしたら槙理も自分と同じ気持ちなのかもしれない、とも樒は考えていたが、今話しかけてみた印象では特に何かを気にしているようには感じられなかった。それどころか、今のお前には興味はないと言わんばかりの淡泊さがありありと伝わってくる。どこか遠くを眺めるような目つきと一緒に。
「なんかもう、何事もなくって感じだね」と、もう少し探りを入れようと樒が会話を切り出す。
「何が――この前の霊震?」
「うん。もう誰も気にしてないっていうか」
「あんなくらいじゃ、反応なんていつもこんなもんでしょ」
全国ニュースでは相手にされないような中規模の魔術災害も、地元民にとってはセンセーショナルな話題だ。高校生ならなおさらに。ただ、話の大多数は他愛のない冗談交じりの笑い話か自慢話。霊震が起きた直後か翌朝の教室を賑わせればそれでおしまい。自分に被害が及ばなかった災害を長々と深刻に考えるような心配性は往々にして笑われるものだ。
「槙理ちゃん、ずっと考え事してるみたい」
校舎に足を踏み入れた所で樒が口を切る。
「え?」と聞き返す槙理の表情は、どことなく気が抜けているようだった。
「なんていうか、初めて会った時のキレがない感じ? まさに心ここにあらずって――」
「んー、いつも通りのつもりだけど?」樒が慎重に言葉を選んでいる隙に槙理は会話を断ってしまった。
何気なく投げかけたつもりの質問をにべなく返してさっさと先を行く背中を眺めながら樒は怪訝そうに眉を寄せる。
――何かあったんだろうけど……
事情を勘繰るまでもなく、樒は先日の部室棟での言い争いを思い出していた。あの時の槙理の怒りようからして、2人の間に相当の確執があるのは明らかだ。が、今下手に事情に深入りしようとしても突っぱねられるのが目に見えている。
「何してんの? ホームルーム始まるわよ」
肩越しに投げかけられる呼び声に慌てて返事をして追いかける。
放課後、いつもの角部屋に集まった対プロのメンバーは、皆揃って神妙な面持ちをしていた。
「まぁ……やはり来ませんか」
詮方なしと言わんばかりの表情を浮かべた要一郎が2つの空席を見つめて独りごちる。
「アレからまだ日が浅いっすからねぇ」と言葉を返した歩が、今日は空席のままの杏華の定位置に目をやる「連絡入ってると思いますけど杏華はマジの病欠っすわ。昼の学食で確認済みっす」
自分抜きで進んでゆく話を聞き流しながら、樒は今日の槙理の事について考えていた。とは言っても、彼女のふるまいはいつもと何も変わらない。静かに授業を受けて、取り巻きに愛想笑いを振りまいて、ホームルームが終わるといつの間にかに帰っている。話す時間もなければ向き合う余地もない。
「ううむ、今日はこの前の霊震について色々しようと思ってたんですが、鎮圧に参加していた2人ともが来てないのは痛いですね」
――2人?
要一郎の話に、思わず胸が締め付けられる。
彼の言葉は、槙理と杏華が同じ場所に立った可能性を示唆していた。樒の脳裏に、あの時の2人の表情がフラッシュバックする。
「今日はしーちゃんの勉強を3人で見るのでいいんじゃないっすか? ウチら3人なら杏華の代役も十分でしょうし」
――やっぱりあんたは逃げたのね
「大丈夫か、導君? 顔色が優れないようだが」と、隣に座る凌が心配して声を掛ける。
――自分の役目を投げ出して、約束も放り投げて! あんたは!
「ごっ、ごめんなさい!」気が付くと、樒は自分の荷物を引っ掴み、椅子を鳴らして勢いよく立ち上がっていた。「私……どうしてもやらなきゃいけない事思い出して!!」樒の口から流れ出る言葉。裏返る声色。
「おッ……そ、そう?」要一郎が気迫に気圧され後ろに退く。彼は樒が出口へ一目散に駆けるのを見守るばかりだった。
ドアが勢いよく閉まり、部屋に再び静けさが訪れる。あまりに突然の出来事に、凌はぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「アプローチ大失敗っすな、凌さんよ」
「滅多な事言わんでくれ」歩の冷やかしで我に返った凌が不服そうに言い返す。
建物を飛び出し、脇目も振らずキャンパスを疾走する樒。無理に駆動させている体だけでなく、心までもが過熱する。
なぜ、こんなにも槙理を気にかけているのだろう? 信号待ちで膝に手を突きながら、自問する。
「友達だから……?」
樒は乾いた口で推測を言葉にする。実感はない。今までに持ったことのある友達と呼べる存在に、同質の感情を抱いたことは未だかつてなかった。ただ、槙理をこのまま放っておけない。何とかしてやりたい。そんな思いが樒の内で渦巻き、燃え盛る。
信号が青になる。と、同時に跳ねるように走り出す。
呼び鈴と樒の声を聞いて薄くドアを開けた槙理は、目の前で足をガクガクと振るわせて何とか立っている樒の姿にぎょっとした。
「ちょっ、あ……あんたどうしたのよ!?」ぐらりと揺れて倒れそうになった樒の上体を慌てて支える。
「学校から走ってきた、から」肩で大きく息をしながら何とか理由を絞り出す。
「いやいやいや、それもそうだけど」少しかがんで目線の高さを合わせる。「そんなに急いで一体何の用よ」
樒はしばし俯いて、息を整える。そのまま余分に深呼吸を二度、三度繰り返して、再び顔を上げる。
「一緒に夕ご飯とか、どうかなって」
「た、溜めに溜めておいて言う事がそれ……?」
「最近、槙理ちゃんとあんまり話せてなかったし、今朝もなんか元気なさそうだったから」
樒が火照りの消えない顔でけなげに笑い、心中を口にする。その表情に、槙理は思わずたじろいだ。
「なんだってあたしの為に」
「友達だから……じゃ、ダメかな?」
樒は少し面映ゆそうに問いかける。槙理はしばらく沈黙、ばつが悪そうに目線を逸らした。
「ふん……そんなに意地になって」呆れたように眉を寄せて、「そういうの、なんていうか知ってる?」
「あ……やっぱお節介だった?」
先程までの勢いから一転、気が咎めたように上目がちになる樒と、対して強気にぐいと顔を近づける槙理。蛇に睨まれた蛙の如く固まる樒だったが、間もなく彼女の額にコツンとデコピンが命中して、軽くのけぞる。
「だーから、あんたはもっと自分を信じてやったらどうよ?」険しい顔つきがやや解け、なだめる調子で言葉を続ける。「友達なんだからそのくらい、“当たり前”でしょ?」
「よ、よかった」指を強かに打ち付けられた額をさすりながら、ほっと息を吐いた。
「それで、私はどこに行けばいいの?」
「一応徒歩圏内。ちょっと遠いけど」
樒はそう言って廊下の出口へ行こうとするが、槙理が肩を掴んで引き戻す。
「そこでいいからあんたはちょっと休んでなさい! 道中で倒れられても困るし、夕飯にはまだ早いし!」
家の中に引っ張りこまれた樒は言われるがままに玄関先に座り、脚を伸ばす。かなり無理をして立っていたこともあり、一向に両脚に力が戻らない。
樒が受け取った水を飲み干し一息ついてからしばらくして、槙理は口を開く。
「ずっと聞いてなかったけどさ、あんたってなんで退魔士になろうとしてるの?」
「どうしたの急に?」
樒は出し抜けな質問に思わず振り向いた。槙理は壁にもたれかかってどこを見るでもなく、そっぽを向いている。
「急に気になったのよ」本意を隠しているのが明らかな声遣い。「あたしと話したいって言ったのはあんたの方でしょ。早く答えなさいよ」
槙理が何を言いたいのか樒には分からなかったが、何も聞き返さずに、答える。
「憧れだから」一片の曇りのない明るい声。「昔、大きな霊震に巻き込まれて、その時に危ない所を退魔士の人に助けられたから。その時から夢なんだ……退魔士になって、みんなを護れる人になるのが」
長い沈黙が訪れる。
「え、無反応!?」
流石にショックを受けた様子の樒。いきなり大声を出されて槙理もびくりと軽く肩を跳ねさせる。
「いやごめん……ありきたりすぎて」
「ひっどぉい!! 自覚あったけどそれ言っちゃう!?」まだ思うように足が動かせず、その場で怒るしかない。
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