第8話 私たちには守りたい現実がある
帰宅困難者と慌てて逃げてきた避難民でごった返す駅構内、運ばれてきた怪我人が応急手当を受けているバスターミナル、無人になった大通り。
そこにあるのは1時間前のサイレンを合図に日常と逆転した、非日常の光景だった。
現在は退魔士の尽力もあって結界への封じ込めに成功し、直接被害は半径500メートル以内で収まっている。が、封じ込め地点が一大霊地である
路地を駆ける槙理は結界内の有様に眉をひそめる。右も左も、全てが赤々と炎上していた。
熱気は常に全身に感じているし、煙の臭いも絶えることがなかったが、一向に息は詰まらない。
事前の情報通り、この家々を取り巻く業火は極限までリアルに再現された幻覚なのだ。この魔術災害を成立させている何かがばら撒く異常な
認識汚染という非物質な現象相手に、物質操作を主体とする渡衛流魔術は些か相性が悪い。
むろん、槙理は退魔士として平均以上に対霊魔術の技を磨いているものの、それでも純粋な幽霊の相手という物への苦手意識を拭えないでいる。
「この程度で弱音吐いてたら天才の名が泣くわよ、槙理」
燃える塀に空間固定術式を刻み込んだ護符を設置しながら自分を勇気づける。と、不意に無線機が拾ったメッセージがインカムを通して耳に届いた。
「事代D3より各員」魔術災害の最中であるからか、酷い雑音だ。「神津4-22付近にて実体化した中心霊を発見、打ち合わせ通り事代小学校方面へ誘導した。護衛の従属霊は30体程度。移動が予想される地域の誘導・間引き担当の退魔士は注意されたし」
私物の
「葉槌C10了解」
他の退魔士たちの応答に続いて、槙理も言葉を返す。他の地域の空間拡張の進み具合がどの程度かは分からないが、どのみちあと数分もすれば自分の受け持ちエリアにやってくるに違いない。
「未練タラタラの亡霊風情が。現代科学の力、とくと味わいなさい」
最後の路地に札を貼り付けた槙理は、その場を離れる。
中規模の魔術災害ともなれば、複数人の退魔士による協同作業が必要となる。
今日の槙理の仕事は鎮圧の補助。すなわち収容担当の退魔士が円滑に活動できるよう、中心霊を広い土地に誘導し、それ以外の従属霊を追い払うことだった。
自分が地味な役回りをしている間に、名も知らない誰かに手柄を独り占めされることに不満を感じなくもないが、誰かと協力するというのも満更ではない。第一、中規模魔術災害の鎮圧で召集をかけられるだけの技量を持つ退魔士を信頼しないのは失礼というものだ。
何度かの誘導成功報告を聞いていると、北西方面から大群の行進する足音と金属の擦れあう音が混じり合って聞こえてきた。
「事代D3より葉槌C10。間もなく最終順路。展開せよ。どうぞ」
「葉槌C10了解」無線の相手に短く応答。
予定通りなら奴らはまっすぐこちらへやってくる。ふん、と鼻を鳴らした槙理はおもむろにカバンから紙束を取り出して詠唱を始める。
「
徐々に標的の影が見え、近づいてくる。それは、鎧武者の大群だ。
「
頃合いを見て槙理が紙札をばら撒くと、それらは複雑な軌道を描いてあちこちに散らばる。そして今しがたまで彼女が設置して回っていた護符を起点として縦に、横にと等間隔に並んでゆく。こうして町の一角には槙理が編み出した対霊バリケードの回廊が出来上がったのだった。
壁に行く手を遮られた幽霊どもは背後から迫りくる追手の攻撃を受けて逆戻りも叶わず、順路通り右折を余儀なくされる。それが相手方の術中と知りながら。
「葉槌C10より事代D3。ルート形成まで済ませておきましたわ。あとはよしなに、どうぞ」大規模な魔術の維持による負荷を感じさせない軽い口調で通信する。コースの設置は彼女の独断だ。
「葉槌C10。ご丁寧にどうも。ここまでやるとはさすが天才ですね」
追跡をしている女性退魔士が立ち止まり障壁越しに無線で言葉を返してきた。皮肉と称賛のどちらなのかは知らないが、後者と思って受け止める。
事代D3が標的の後を追うのを見届けて、槙理は次の配置場所へ向かう準備を始めた。
「事代D3より葉槌C10。時折壁から何かが飛び出してきて危なっかしいにもほどがあるのだが、これもあなたの仕掛けか?どうぞ」
先程の名無し退魔士からの通信。罠が滞りなく作動しているようで一安心だ。
「葉槌C10より事代D3。間引き用の自立攻撃魔術です。対霊魔術なので人体には影響ありません。どうぞ」
「葉槌C10、害は無くとも、こういうことをするなら事前の報告を願いたい。以上」
一方、結界の外。
住民が避難して静まり返った住宅街の、とある路地。結界前のバリケードを警備している若い警察官の男が、遠くの方から人影が歩いてくるのを見つけた。
フリルとレースで豪華に飾られた少女趣味なワンピースを身に纏った
明らかに普通ではない。出動前に同僚と話していた怪談を思い出して背筋が寒くなるのを感じながらも、彼は職務を思い出す。
「お嬢ちゃん、こんなとこで何してるんだい? 今この辺は避難指示出てるんだから、戻りなさい」少女の進路の前に立ち、注意する。
「失礼しちゃうわ。私は大人だし、退魔士よ。ちゃんと市からの要請も受けてるんだから」
退魔士を名乗るその子は、むくれ顔で文句を口にする。彼女が警官に見せた退魔士登録証と魔術取扱者免許証に記載された年齢は19歳。両方とも本物だった。
「こ、これは失敬」そうは言うが、納得がいかず食い下がる。「しかし組合が置いてる本部はこことは正反対の場所ですよ。そちらでちゃんと指示を聞いてもらわないと」
「大丈夫、それも分かってるから。それじゃあ、失礼いたしますわ」
「あっ、こら! 待ちなさい!」
退魔士が男の脇をすり抜け、結界まで一目散に駆けていく。警察官も必死に追いかけるが、驚くことにどんどんと引き離されていく。
そうして警察官を振り切った少女、もとい杏華は、
警官は、そのワイヤーアクションめいた動きが魔術のなせる業と分かっていながらも、呆然と立ち尽くす。
魔術で減速し、ゆっくりと降下しながら、杏華は街の全景を見渡す。
「随分派手にやらかしちゃってるわねぇ」煌々と燃え盛る住宅街を見て嘆息する。遠くに城が見えるということは、この魔術災害は志筑城火攻めの再現か。
火の届かない路地の真ん中に着地。試しに手近な炎に触れてみると、鋭い痛みを感じた。肉球がやけどで赤くなり、指先の毛が熱で縮れる。
この大火事は、認識汚染によって幻視しているだけに過ぎないはずだが、人間の感覚どころか細胞に損傷を与える程に現実性を持ち始めているとなると事は重大だ。
――こんなことをしても、歴史は変わらないのに。
この地に散っていった
正邪はともあれ、願いや理想の行きつく先がこんな厄災など、惨めすぎる。
――そうだとしても……。
確実に言えるのは、こんな限りなく現実に近い幻が外界に放たれれば、パニックどころでは済まされないという事だ。
夢と現の逆転、これだけは何としても防がねばならない。
「あなた方に覆したい運命があるように、私たちには守りたい未来がある」
杏華は感傷に見切りを付け、赤い
「事代B9から本部。結界内に侵入。現在神津5-11-3前。認識汚染の現実度が上がってきている他、空間拡張現象も進行しているが活動への支障は無し。このまま所定のポイントまで移動する。どうぞ」
少し間を置いて、ノイズまみれの返信が届く。
「本部了解。数分前に貴官の
「事代B9了解。個人防衛に注意しつつ行動する。以上」
無線を切るや否や、杏華は何かの気配を察知する。
「……
次の瞬間、無数の矢が杏華めがけて飛来すると同時に、伏兵らしい足軽が数十人――もちろん亡霊――が各々の武器を振り上げて現れた。
「あらあら、お早い出迎えね」
杏華は腕の一振りで境界を展開して矢を防ぐ。その隙にあっという間に包囲されるも、当人は特に焦る様子も無く軍勢を流し見している。
一向に仕掛けて来ない相手にしびれを切らしたのか、一人の気の早い男が怒号と共に、無防備に立っている少女に向けて斬りかかる。が、しかし。
「ふうん、この程度も抜けないの?」
その刀身は、杏華の抜刀によって止められた。中取りで抑えた男の刀を刃の上で横滑りさせて構えを崩し、無防備になった首に切っ先を突き立てて止めを刺す。
「所詮は従属降霊か。相手するまでもないわね」
失望の声色で呟きながら血振り。周りを取り囲む幽霊兵はあまりの早業に唖然としている。
「私、道を急いでおりますの。これで失礼いたします」
優雅に一礼して、杏華は何事もなかったかのように歩き出した。これには流石の兵たちも黙ってはおらず、彼女の道をふさぐ。
その様子を目の当たりにしてくすくすと笑う杏華と、彼女から発せられる殺気に気圧されまいと口を堅く閉じる兵たち。両者の間合いが、見る見るうちに縮まっていく。
「あくまでもお役目は全うするおつもりで。入口にいたお巡りさんみたいね」
記憶の端に残っている先程の警察官の表情と、目の前の幽霊たちのそれが一致する。敵意と奇異と、畏怖の表情。もう見飽きる程に目の当たりにした、ありきたりな反応だった。
「あなた方がそのつもりなら――」
杏華は目を細めて立ち止まった。腰を軽く落とし、槍術に似た構え方をとる。
それを見た男が一人、前に進み出る。戦の始まりだ。
「掛けまくも
正面の男が振り下ろす太刀を軽く受け流し、具足の胴の継ぎ目に刀を突きこんだ。
「
次いで後ろから突撃してくる槍兵の一撃を躱して穂先を毟り取って投げ返す。見事、喉に直撃。
杏華が投げの姿勢から基本の構えに戻ろうとするのを見た身軽そうな歩兵2人が、すかさず挟撃を仕掛けるも、彼女は少しも焦ることなく太刀を境界で弾き返して、胴が隙だらけになった瞬間を見逃さずに突きと薙ぎ払いを叩き込んで殺傷した。
「
目前に立ちふさがった大男の強打も、杏華は易々と受け止める。お返しに両ひざを叩き割り、倒れる巨体の咽喉と頸動脈を切り裂く。
「大神の
この僅かな間に、6人。
自分たちより二回りも小さい少女の大立ち回りを見せつけられ、残った男たちが後ずさりして道を開け始める。
包囲から抜け出したところで、杏華は虚構の刀の柄を強く握りしめて、詠唱の最後の句を詠う。
「水月流境界術、八の型。
杏華、振り向きざまに一閃。同時に目前の空間が瞬間、歪む。
後に残ったのは、胴体を捩じ切られ、膝を地面に突く前に虚空へその姿を溶かす男たちの半身だけだった。
「今は、安らかに眠っていてくださいまし」
「杏華……?」
槙理は耳を疑った。
ノイズにまみれた無線機越しでも、あの声を聞き間違えるはずがない。確実に彼女の声だ。
「あいつ、本当に退魔士なんかに」
路地から顔を出した幽霊兵を
今日の夕刻の出来事が未だに脳裏にこびりついて離れない。あの女の発言も、どうしようもない怒りも、発作的に掴んだ胸元の感触も、彼女に伝える直前で飲み込んだ言葉さえも。
やり場のない感情がごちゃ混ぜになって、主の救出を試みる哀れな亡霊たちに叩きつけられる。
「あいつが、ここに来る。」
槙理は背後にそびえる護符の結界、その中にある小学校のグラウンドを睨んだ。
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