第3曲 少女の詠唱

第5話 私を誰だと思ってるの?

 樒と槙理が乗ったバスが狭い脇道を抜けて広い県道へと出る。予想より空いている昼下がりのバスの車内、樒は不安と期待が綯い交ぜの表情で、対する槙理は退屈一色の様子で車窓からの景色を眺めている。

 目的のバス停に降り立った時もそれは変わらず、周囲を見渡す二人の表情は対照的だった。

「ここらへんは来た事あるわね。地図だと、えーと」

「人の流れは……たぶんあっちだよ、渡衛さん」

「あっ、ちょっと。待ちなさいよ!」

 地図を見ている隙にすらすらと人混みを避けて先を行く樒の姿に、槙理は目を白黒させながらもなんとか追いすがる。

 これまでの槙理の眼には、樒は陰気で、湿っぽくて、うじうじと縮こまっているだけの存在と映っていた。しかし、槙理の前にいる樒の表情は眩しさを感じる程に明るく澄み渡たり、仔馬のように軽い足取りで、街道を駆けているのだ。あまりのギャップに、槙理は瞠若どうじゃくする他なかった。


「あ、池の向こうに藤棚が見えるよ! でもここ、お寺って感じはしないね」

「蓮華寺池っていう池の名前だから、本当にお寺があるわけじゃないのよ」

 湖の畔。手すりから軽く身を乗り出しながら指を差している樒に、槙理は補足を入れる。かつて灌漑かんがい用に作られた人工のため池は、今では名前の通り蓮が群生する美しい湖に変わり、地域のシンボルとして親しまれている。

「あれ、そうだったんだ」

「あんだけはしゃいどきながら事前情報とか何も知らないのね」肩をすくめる槙理。今日の自分はあきれ顔が多いな、と頭の端で思う。

「えへへ、いつもイベント情報調べてそこで満足しちゃうから」

「ちなみにー?」

 横から急に聞こえた槙理のものではない声で、二人の会話が切られた。樒は聞き覚えのあるそれに驚きながらも、声の主の顔を確かめんと振り向く。

「正しくはこの池が作られた江戸時代当時には蓮池山蓮華寺というお寺が実在してて、さらに元となった沼地に蓮が生えてたこともあって蓮華寺池という名前になったんよ」

「か、風見鶏先輩?」

 歩はご機嫌な様子で、いつものラフな敬礼風のポーズで樒に応えた。どうやら彼女も樒たちと同じく、祭りの見物にやってきたようだった。

「やーぁ、やっぱり樒ちゃんだったねぇ。隣の君は……おー、槙理ちゃんだ」

 歩は物珍しそうな表情を浮かべながら槙理の名前を言い当てた。槙理も特段驚きもせずに得意げな表情をして見せる。

「あぁ、その顔は間違いなく槙理ちゃん。成長しても雰囲気は変わらないもんだ」

「お知り合いなんですか?」槙理を見てしきりに頷いている歩に問いかける。随分と古い付き合いのような口ぶりだが、彼女の交友関係は一体どうなっているのだろう?

「うーん、直接の面識はないよ。でもあの渡衛家の天才退魔士だし、日本の魔術業界で知らない人の方が少ないんじゃないかな」


 渡衛家は当代が実業家とタレントを兼業している事もあって、メディア露出が他の五家門と比べて非常に多い。その家族である槙理も例外ではなく、一時期は一般のテレビ局に“次代の天才退魔士”などと持て囃されては自慢の魔術を披露していた事もあった――もっとも、彼女の愛想の無さがたたって長くは続かなかったが。

 勿論、彼女の天才という称号は伊達ではない。11歳で魔術士になり、その後1年を待たずして退魔士認可を取得、13歳という異例の若さで小規模魔術災害を単独鎮圧する目覚ましい成果を残している。

 兄姉を差し置いて次期当主の座を勝ち取ったその実力は、メディアの誇張が無くとも、彼女を天才たらしめるには十分なインパクトを持っていた。

「言われてみれば確かに」

「言われて初めて気付くとは、さすがは駆け出しね」

 呆けた顔つきで応える樒への小言もそこそこに、槙理の興味は歩へと移る。

「それにしても、その有名人を前にして随分と落ち着いてるのね、先輩さん。お名前を聞いてもいいかしら?」

「ん? ああ。キミも有名人である前に人間なんだから、そう扱っただけだよ。私は風見鶏歩。“歩く”の一文字でアユミだ。よろしくぅ!」

 軽薄そうな笑みを浮かべた顔をずいと近づけてくる歩に気圧され、槙理は思わず一歩後ずさった。


「わぁ……綺麗」

 樒と槙理は並んで藤棚一杯に咲き誇る藤の花に見とれていた。歩がいつの間にかに姿を消しているのにも気づかずに。

「近くで見ると、確かに凄いわ」

 暖かい微風が空気を適度にかき混ぜ、花の甘い香りを辺り一面に届けている。それを胸いっぱいに吸い込むと、なんとも言えない心地よさに包まれ、周囲の雑踏が遠くなったように感じられた。

「かつてここいらには藤枝宿という宿場があって……なんて御託はいらないか。お待たせ、お待たせ」

 戻ってきた歩の手には頭上の花と同じ色をしたソフトクリームが3つ握られている。1個ずつ受け取った2人は、それを不思議そうに眺めた。

「藤の花で作ったふじソフトだよ。可愛い後輩ちゃんたちへのささやかな贈り物ってね」

 食ってご? と歩にせかされながら二人はアイスクリームを口に運ぶ。柔らかな甘みが舌に広がり、続いて藤の花の風味が鼻から抜けてゆく。

「ん……美味しい」想像以上の味わいに、槙理は目を見張り、ここに来て初めて表情を緩ませた。

「だら? いやっはっは、このお祭りに来たからには、やっぱコレを食べてもらわんとね」

 上機嫌のあまり方言交じりになっている歩の豪快な笑いに釣られて、樒も微笑む。


「あ、そうだ」槙理が切り出す。「導さんのお知り合いということは……もしかして風見鶏さんは魔術士なんですか?」

「うん? そうだよ」後輩の藪から棒な質問にきょとんとしながらも首肯する。

「ちなみに今は何の魔術を勉強なさってるんです?」まだ警戒を解ききっていない顔色で様子をうかがう。

「私はずっと純粋力学魔術だね。最近ハマってるのは第3法則キャンセル技の開発かなぁ」

 それを聞いた槙理は目の色を変える。

「おぉー! 今も昔も研究者を魅了し続ける物理法則ハック……しかも第3法則とはチョイスが渋い!」前のめりになって歩に食いつく。

「いやぁハックだなんてそんな大それたことはしてないよ。方式も今やってるのは昔ながらの後方疑似加速法だし、まだまだ文献のを改造するくらいだからさ」謙遜しながらも満更でもなさそうな面持ちをしている。

「でも個人でやってる人なんてそんなに多くは……ちょっと待ってください。もしかしてMiitaに物理ハック研究の記事を載せてる“カザフネ”さんって」とんでもない事に気付いたかのように口元を押さえる。

「あーバレちゃったかぁ」

「やだすっごい、超有名人が目の前に!」

「それは私のセリフだよ!」なおもテンションが高いままでツッコミを返す。

 まだ聞きなじみのない専門用語が飛び交う様子を脇から眺めながら、樒は槙理の溌溂とした表情をじっと見つめる。彼女が魔術の話をしている時は、大抵この表情をしている。槙理にとって魔術とはその血に課せられた義務以上の意味を持っているのだろう。

「……なーにあたしの顔を見て固まってんのよ」槙理に胡乱げな目つきで睨まれ、樒はたじろぐ

「もしかして樒ちゃんはこういうコが好みなん? いやぁ高みを狙ってくねぇ」すかさず歩が茶化して空気を和ませる。一方、樒は突拍子もない問の意味を理解した途端、顔が熱くなるのを感じた。

「わっ、私! そういう趣味ないですから!」樒はぷるぷると手と首を小刻みに横に振って否定した。それを見て、槙理は思わず吹き出す。


「はぁあ……予想以上に充実した1日だったわね」

「ほんとにねぇ」

 並んで帰路を行く、満足げな表情の二人。月が浮かんだ夜空の下、路地には昼間の祭りの熱気を冷ますかのような涼風がそよそよと吹いていた。

 あの後、歩に彼女のバイト先らしい喫茶店まで連れて行かれた二人は、夕食まで御馳走になりながら日がどっぷりと沈むまで魔術の話で花を咲かせていたのだった。

「まさか純力であんな凄い人が、こんな近くにいただなんて。そういう情報はもっと早く教えなさいよ」

「私も今日初めて知ったんだってば。先輩が魔術を使う所はまだ見たことなかったし」

 脇腹を小突かれながら、樒は頭を掻く。まったく、見るからに適当そうなあの歩が、槙理も舌を巻くほどの実力を持っているなど、そこまで想像することはできなかった。などと言っては、さすがの歩も怒るだろうか。

「もしかして、他の先輩も凄い魔術が使えたりするのかな」樒は思いついた言葉をそのまま口に出す。

「他の先輩?」樒の呟きを受けて槙理は何事かを思い出したらしく、悔しそうな表情で嘆息した。

「そういえば導さんに試験器を貸した人について聞くの、すっかり忘れてた! あぁぁあ、あたしとしたことが」

「試験器って……ああ、杏華先輩の事。私もあの人の事もまだ良く分かってないんだよね」

「“キョウカ”ですって? ねぇ、その人、フルネームでなんて言うの? っていうかその人、北人ハウリオだったりする?」

 杏華の名前を聞いた瞬間、槙理は血相を変えて樒を質問攻めにし始めた。状況を呑み込めていない樒は困惑の色を隠せない。

「ど、どうしたの急に? なんでそんな……」

「いいから答えなさいって! そいつの名前は――」

 ぴきんッ

「ぐぅっ!?」突如訪れた頭痛と眩暈に、樒は思わず呻く。「なに、これ」よろめいた体が倒れる寸前のところで何とかバランスを保った。

「あんたも、感じてるのね」隣の槙理も同じように顔を苦痛に歪めて、頭を押さえていた。

「これが魔術士だけが感じることのできる魔力子エーテルの乱流、霊震よ」

 自らに魔術士の力が芽生えつつあるという喜びを感じる間も無く、槙理の言葉に樒は戦慄する。

「霊震って……それじゃあつまり」

「ええ、魔術災害が発生した。しかもかなり近くで」

 頭痛が次第に退いて、眩暈ではっきりとしなかった視界がようやく元に戻り始める。だが、樒の目に映る景色は、確かに変調を来していた。

 樒が悚然しょうぜんと辺りを見回すも、路地に人気は無い。塀の向こうに見える家々の窓も揃って暗く、ひっそりと静まり返っている。まるで、自分たち二人を残して全ての人間が死に絶えたかのような異様な状況を前に、樒は全身が粟立つのを感じた。

「け、警察、呼ばなくちゃ……!」

「無駄よ」槙理は半ばパニック状態で携帯電話を手に取った樒を制する。

「ここは結界の中。電波が通じるか分からない。それに、警察だって霊震を感じられる。そのうち呼んでもないのに駆けつけてくるわ。それより……」

 槙理は鞄からおもむろに取り出したデジカメを樒に手渡した。

「あんたはそれ使って、後ろの方であたしの動画でも撮ってなさい。後で実況見分が楽になる」そう言って、樒の傍から離れる槙理。

「なに……どうする気なの?」体をがたがたと震わせながら、樒は問う。「魔術災害を鎮める」槙理はゆっくりと進む。

「警察が来るのを待とうよ!」引き留めようと声を掛ける。「相手は待ってくれない」にべもなく返して、進み続ける

「一人でやるの?」段々と離れていく背中を見ていることしかできない。「ここには私しかいない」言い聞かせるように囁いた。

「そんな……無茶だよ」

 樒の脳裏には、過去のフラッシュバック。過去のあの影と、槙理の背中とが重なった。

「ふん、私を誰だと思ってるの?」幻影が霧散する。その向こうには、立ち止まって肩越しに樒を振り返る槙理。

「私は、五家門が一跡、渡りの陰陽師の名を継ぐ者。そう――」髪の合間から見える横顔が不敵に笑ったかと思うと、すぐに前に向き直って見えなくなる。

「渡衛家第39代当主。渡衛槙理よ」

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