第4話 それで良いのよ
どこか遠くで雀の鳴き声が聞こえる。その声に耳を傾けている内に、霞んでいた意識が次第に明瞭さを取り戻してゆく。顔を照らしている太陽の光が眩しい。
光を手で遮りながら、上体を起こしてアラームの鳴らない携帯電話を確認する。
液晶の画面には7時を少し過ぎた時間が映っていた。一緒に表示されている日付は5月3日木曜日。世間はゴールデンウィークの只中にあった。
朝食のフルーツグラノーラを
――藤まつりかぁ。
映っている場所はどこか遠くだが、たしか近場でもやっているはずだ。昨日の夕方にテレビで見た覚えがある。今日は特に予定も入っていないし、行ってみるのも良いだろう。
未だぼんやりとした表情でとりとめのない考え事をしていた樒だったが、そんな思考も呼び鈴の音で一気に中断されてしまう。
「どちら様ですかぁ……?」のそのそと玄関へと向かいながらドア越しに問いかける。
「あたしよ」
樒はその声だけでドアスコープを覗くまでもなく訪問者の正体を察知し、同時に面倒事の到来を予感した。
「魔術の稽古やるわよ!」
稽古と言われ、学校へ連れていかれるのだとばかり思っていた樒だったが、
「さあ、着いたわよ」
「こんな場所が……」
槙理が立ち止まった場所、その目の前には大きな日本建築の屋敷が立っていた。いかにも古そうな木の門戸には“信藤”の表札が掲げられている。その堂々たる佇まいを前にして、樒は思わず息を呑む。
戸が開く音で樒は我に返る。槙理は樒が呆けているうちにインターホン越しに家主と話をつけたようだった。槙理の後に続いて樒も戸口をくぐり、広い屋敷の敷地内へ足を踏み入れる。
「あなたが信藤浩一さん?」
「はい、いかにも。お待ちしておりました、槙理お嬢様。ご尊父様からお話は聞いております」
槙理の問いかけに、母屋から現れた初老の男性は丁寧な口調で応えた。そして、その態度が当然の事であるかのように、槙理は澄ました顔で男を見据えている。
「じゃあ魔術の練習場所の件も出来てるわね」
「もちろんでございます。私の所有している土地で魔術の練習が可能な施設にはすべて連絡を入れて、お嬢様がいついらしても大丈夫なように話をつけておきました。詳細な位置はこの地図に」
「助かるわ。ありがとう」
手渡された紙の地図に目を通した槙理は少し困ったような表情を浮かべる。
「今から行くにはちょっと面倒ね」
槙理の肩越しに地図に目を落とした樒だったが、地図上にマークされている場所から得られた情報は、自分の知っている世界の狭さだった。
無理もない。学校が始まってからの2カ月の間は、毎週の買い出しと学校以外の外出はしていないも同然の、文字通り勉強詰めの生活を送っていた。地図の上で辛うじて発見できた学校と、その周辺に存在する山と住宅街、商店街、駅へ続く道。樒が見たことのある世界は、それだけだった。
「今日のところは我が家の庭をお使いになりますか? 他の場所と比べて手狭ではありますが、それでも魔術の練習程度なら問題ない広さのはずです」
「あらそうなの。じゃあお言葉に甘えさせて頂こうかしら」
ふと、今朝のテレビで見た藤まつりの事をを思い出した樒は、地図上で会場を探そうとしたが、それが見つかるより先に槙理に地図を畳まれてしまい、断念せざるを得なくなる。
「あの辺、使わせてもらうわ」
建物から十分に離れた場所を指差す槙理。それを確認した男性はかしこまりました、と応えると、手早く槙理と連絡先を交換し、母屋の方へと戻っていった。樒は槙理の後ろに付いて行く。
「あの人、地主さんだよね? 知り合いなの?」男性が去っていった方を見ながら、槙理に問いかける。
「あの人は父さんのクライアントよ。だからあたしは詳しいことは知らない」
「それにしても、魔術の練習場所を貸してくれるなんて、気の良い人だね」
「それだけウチの世話になってるってことでしょ。まぁ、なんにせよ、プライベートな場所を用意してもらえるのは、ありがたいことだわ。」
槙理は手に持っていた鞄を砂利の上に無造作に置き、樒の方に向き直る。
「そういえばずっと聞いてなかったけど、あなたはどんな魔術が使えるの?」
「えっ……どんなって」思わずぎくりと跳ねる。
「魔術の種別よ。
「えーっと、その……」
気まずい沈黙。槙理の自信に満ち溢れた表情が一変する。
「もしかして、魔術は素人……とか?」
「クラスの自己紹介の時ちゃんと言ったと思ったけど……」
無言。しばらくの間。
「……聞いてなかった?」
槙理、目線を逸らす。
「そうなのね!?」
「あっ、あんたの声が小さすぎるのよ!」
「ひどぉい!」
少々の言い合いの後、槙理がわざとらしい咳払いをして場を仕切りなおす。
「さ、さあ気を取り直して練習するわよ」
槙理の頬はまだ先程までの上気を残している。記録用に、何メートルか離れた庭石に彼女が設置したデジカメにも、その赤さが克明に記録されている。
「たしか、魔術始動に必要な
目線をこちらに向ける魔術の先生に、樒は頷いてみせる。
「魔術始動の
「そうよ。それはちょうど、こんな感じに」
槙理が何事かをぶつぶつと呟く。そしてどこから持ってきたのか、懐から取り出した鉄釘をつまむ。すると……
「うわっ、釘が融けた!?」衝撃的な光景に驚愕する。
槙理はそのまま手の平に溜まった液体の鉄を指でかき混ぜ、瞬く間に鉄のリングを作って見せる。
「……とまぁ、始動さえできればあとは好きに
さすがに指に嵌められるようなサイズではなかったが、よく見ると側面に細やかな刻印が施されており、樒は再び驚かされた。
「心象風景を車の
次に槙理が足元の鞄から小ぶりな寄木細工の筒を取り出した。彼女が手にした瞬間から継ぎ目がぼんやりと発光している。
「始動
樒がそれを手に持ったまま槙理から離れると、光はにわかに弱まり、消えた。
「さぁ、適当に思い浮かべて、動くかどうか試してみなさい」
OKサインを送る槙理を見て、樒は自分に問いかける。
――私の起源……大元となる風景とは何だ?
炎、水、風、大地、大嵐、地震、家族、自分自身……。
思いつく限りを尽くしてイメージを注ぎ込もうとするが、筒は一向に反応しない。
「……やっぱ急には無理よねぇ」四苦八苦している樒を眺めながら頭を掻く。
休憩場所として通された客間に入ると、すぐに昼食が運ばれてきた。目の前に出された豪華な日本料理の数々に、思わず樒は目を見張る。と、同時に、ただ槙理について来ただけも同然の自分に、彼女と同じ食事が振る舞われることに若干の負い目を感じた。
せっかくの御馳走を前に、樒の箸の進みは悪い。槙理はどう思っているのだろうかと横目で顔色を窺っても、彼女の表情はその生来の察しの悪さを物語るかのような涼しさを湛えたままで次々と料理に箸を伸ばしている。
「なんだか、あっという間だね」意を決して話しかける。
「ほんとにねぇ。進展は何もなかったけど」
「ごめんね。午前中、丸々私に使わせちゃったのに、何もできなくて」
「大丈夫、誰だって最初はあんなものよ。あたしだってそうだったんだから」汁物の筍を一口で食べる。
「それに、ここまで連れてきちゃったのはあたしなんだから、面倒見るのがあたしの責任。そういうことにしておきなさい」そう言って今度は白飯を口に放り込む。
「本当に良いの?」
「まだるっこしいわね。この際、出来るまであたしが付き合ってあげるってんだから、それで良いのよ」
――そうは言ってもな……
樒は客間にしては広い部屋に、居心地の悪さを覚える。家主である信藤老夫婦がもてなしに来てくれれば、この感情も幾分かは和らいでいたのかもしれないが、槙理の「二人にしてほしい」の一言でその望みは完全に絶たれていた。
居た堪れなくなった樒が、逃げ道を求めてテレビの電源を入れる。大型のブラウン管のそれに映し出されたのは紫色の花々。今朝のニュースとはまた違う場所だが、同じようなキャスターのコメントだった。そのまま別の行楽情報に内容が移り変わる。
「そうだ。渡衛さん、藤まつり行ってみない?」
樒の口から、自分でも思いのよらない言葉が飛び出す。デザートの柏餅を頬張ろうと開いた口のまま、槙理は驚きの表情を浮かべた。
「はぁ? 午後の稽古はどうするのよ。まだ始動のとっかかりすら満足にできてないのに。っていうか、まずこの辺でやってるの?」
「うん。学校の近くのお寺、だっけか? でやってるらしいよ。まだゴールデンウィークの真ん中なんだし、午後休むだけなら大した問題じゃないよ」
「それ単にサボりたいだけの口実でしょ」呆れた、と言わんばかりの目つきで樒を睨む。
「休むのも大事な事だよ。渡衛さんも午前中は頭を使って疲れただろうし、いい気分転換になると思うけどなぁ」
「んぅ……まぁ、たまにはそういうのもアリか。分かったわ」
唇を尖らせながらも、槙理は樒の誘いを受ける。
「よし、じゃあ決まりだね」
打開の道が開けたことで表情を明るくする樒だったが、それを目の当たりにした槙理は再び呆れ顔をする。
「そんなに早く行きたいなら、まずはお昼ご飯を食べたら?」
樒は8割ほど料理が残っている膳の存在を思い出す。
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