第2曲 見知らぬ国と人々について

第3話 冗談なんかじゃないよ

「ただいまぁ」

 玄関の照明のスイッチを押しながら、しきみは誰もいない部屋に帰宅を知らせた。実家暮らしだった頃の癖は未だに抜けていない。

 壁掛け時計は21時を指している。サークルの活動があると、帰宅時間は大抵このくらいになってしまう。

 いつものように夕食を摂り、風呂に入り、部屋で一息ついた頃には、すでに時間は22時を過ぎていた。

 樒は夜型の性質ではないので、この時間になると日中に溜まった疲れが微睡みと共に押し寄せ、体が今すぐ寝床に潜れと催促を始める。だが、彼女はまだ眠らない。鞄から教科書とノートを取り出して、無理に眠気を振り払って今日の授業で出された課題に取り掛かる。例え既に杏華から習った箇所であっても正課は正課だ。きちんとこなさなければ退魔士になる以前に卒業できないのだから、おろそかにする訳にはいかなかった。

 時の流れは速く、樒が魔術災害対策研究プロジェクトに参加してから、1ヶ月が経とうとしていた。

 樒が参加を決したあの日の杏華の口上は嘘偽り無い本気の言葉だったようで、あの温和そうな表情からは想像もできない厳しさで樒の教育を行っている。本来は活動日ではないはずの土曜日や日曜日でも、暇を見つけては樒の自主勉強に付き合ってくれているのだから、その力の入れようが尋常ではない事は、当事者の樒には容易に察せられた。

 ――あの人は一体、何を考えているのだろう?

 課題を終えて明日の準備に取り掛かったところで、ふと思い出す。

 先月も同じことを考えていた。私を引き留めた言葉、日々の指導の熱心さ、どちらも出会って間もない女子高生に無給で向けるようなものではない。活動の後継者、あるいは戦力を欲しているとしても、年次が離れているどころか通う学校すら違う初心者に活動の未来を賭けるなど、馬鹿げているとしか言いようがない。大学の1年生を拾って育てた方がよっぽど役に立つだろう。ならばもっと別の目的が、私には予想もつかないような何かがあるのだろうか。何か意志を持っていなければ、あれほどの瞳を持つことはできまい。あの、燃えるような瞳を。

 では、そんな目を向けるほどの価値を、私に見出したというのか? あの人は私に何かを見出したのだろうか? あの人は熱く、それでいて優しげな瞳で、私を見つめて――

「何やってんだ、私」

 気が付けば時刻は既に23時30分。無機質な秒針の音が樒の思考を急速に冷やしてゆく。

 ――そうだ、明日の準備だ。

 樒は我に返って止まっていた手を再び動かしはじめる。と、鞄の中の小さいポケットに入っている短冊を見つけた。取り出してみると、紋様と文字が記されているのが目に写る。月の輪に巴を描く柊の意匠、"試練"と"光輝"を表す神代文字。まさしく神札おふだと呼ぶべき体裁のそれは、樒の手の中でじっと目覚めの時を待っている。

「だめかぁ」

 紋様に意識を集中して色々と念じてみても、何も変化はない。樒は首を捻って、数時間前の出来事を思い返す


「今日の講義はここまでよ。お疲れ様、樒ちゃん」

 黒色のマーカーペンを置いた杏華がそう告げる。

 いつものメンバー全員の輪講――樒を気遣ってか比較的初歩的な内容の――の後に待っている杏華との一対一の講義は、始まってから既に90分が経っていた。今日の内容は土曜から続く遺伝記憶学と魔術の始動についてだった。

 大きく伸びをしながら、樒は不思議と物足りなさを感じる。

「そういえば今日は演習問題、無いんですか?」足りない何かを思い出し、質問する。

「うふふ……勿論あるわよ」

 ホワイトボードを掃除しながら、杏華はにっこりと笑う。そうして自分の荷物から何かを取り出し、樒に差し出す。

「はい、樒ちゃん。これを持ってみて」

 樒は渡された短冊をしげしげと眺めた。

「これは……お札か何かですか?」

「魔導試験器よ。式の意味をイメージしながら魔術を始動させると、この紋と文字が光るようになっているの」

 紋章の下にある記号を指差しながら、杏華は言う。

「意味、ですか?」

「そう。言い換えればこの札に込められた願いね。これは『輝き』と『試練』という意味を持ってるのよ」

「なんていうか、そのまんまですね」

「それはまあ、魔術始動の練習用だから。とにかく、これが今日の演習……そして課題よ。まずは私がお手本を見せるから、後から樒ちゃんもやってみてちょうだい」

「は、はい……」



「やっぱりだめかぁ」

 明くる日の昼休み。昼食を摂り終えて一段落した樒は、再び件の短冊形の試験器を取り出してにらめっこをしていた。

 この紋章は救国の五家門の一つ、那智川なちがわ家の家紋だ。およそ200年前、世界各地で発生した同時多発魔術災害“降臨の日”の混乱から日本を救い、退魔士の始祖となった言葉通りの英雄の家系である。

 家紋を構成する意匠の、月輪は信仰を、その中に描かれた三枚の柊の葉で作られた巴は退魔を意味するという。シンプルだが細部まで丁寧に描き込まれた意匠に神代文字の神秘的な印象も相まって、その短冊は美術品の如き美しさを持っていた。

月輪三ツ柊巴の家紋つきのわみつひいらぎどもえ……那智川家? なんであなたがそれを?」

 突然視界の外から話しかけられて小さく跳ねた樒だったが、声の主の姿を確認して、さらに大きく跳ねあがる。

「わ、渡衛わたりえさん!?」

 樒に声をかけた少女は、同じクラスの渡衛わたりえ槙理まりだった。

 渡衛家もまた五家門の一跡いっせきを担う家系だ。その次期当主が、魔術士ですらない樒に話しかけてきたのだ。彼女が動揺するのも無理はなかった。

「そんなに驚いてないで答えてよ。そんなものどこで手に入れたの?」

「これは……先輩からの借り物だよ」

 自分とは格が違う殿上人の相手だけでも気を遣うと言うのに、その内やって来るであろう取り巻きにまで囲まれては堪ったものではない。手短に答えて話を切りたい樒だったが、槙理は逆に話題に食いついてしまう。

「借り物だなんて。この学校に那智川の人が居るなんて情報、あたしは聞いてない。もうちょっと上手い冗談言ってよね」

 確かに、那智川家は五家門で唯一の北人ハウリオの家系だが、いくら何でも姓の違う杏華が那智川の家系の者であるとは思えない。以前に雑誌で見た那智川家現当主の風体と杏華のそれと比較しても、樒は共通点を見い出すことができなかった。

「冗談なんかじゃないよ。先輩は大学生だし、そもそも那智川家とは関係ない人だと思うよ。どこかのお土産か何かじゃないかな」

「あのお堅い一族がグッズ販売なんてする訳ないわ。っていうか、魔導試験器自体そんなに気安く売ってる物じゃないし、自力でそんなに精巧な試験器を作れるとしたら相当な技術力の人よ」

「これが試験器ってわかるの?」

「当然でしょ。錬金魔術士の家系を舐めないでよ」

 樒は閉口した。槙理は一体何をしに来たのだろう?まさか難癖を付けたいだけではあるまい。それは分かるのだが、真意の程は全く読めないままだ。

 しばしの間、そして何やら考えていたらしい槙理の口角がわずかに上がった。

「これは俄然興味がわいてきた」

「えっ?」

「導さん。あたし、その魔動器を貸してくれた先輩と会ってみたいんだけど、できる?」

「……えぇっ」

「良いでしょ? その人も隠者って訳じゃないんだし」

 険しい表情から一転、生き生きとした顔で訪ねてくる槙理に樒は思わずたじろいだ。どうやら魔動器の持ち主を知ることが彼女の目的らしい。無碍に断れば後に尾を引くだろうし、この程度の事を頼んだくらいでは杏華も怒ったりはしないだろう。

「たぶん大丈夫だと思うけど、一度連絡を入れてみないと」

「うん、それがいい。そろそろ席に着かないといけないし、続きは放課後にしましょ」

「ほぇ?」

 樒が時計を確認する間もなく、5限の開始を知らせるチャイムが聞こえてくる。


「ごめんなさいね、樒ちゃん。来週の火曜だったら平気だから、お友達にもそう言っておいてあげてね」

「私の方こそ、お忙しい所失礼しました。それじゃあまた来週会いましょう」

「うん、またね」

 樒はそこで会話を切り、携帯電話を折りたたんだ。出てくる生徒も疎らになって静けさを取り戻した生徒玄関口に、校庭や体育館から威勢のいい声が届いてくる。

「話の流れ的に今日会うってことは出来なさそうねぇ」

 後ろで壁にもたれかかっていた槙理が少し残念そうな表情で伸びをする。

「それでも来週の火曜日には都合がいいそうだし、その時までの我慢だよ」

「ま、ゴールデンウィーク真っ只中だし、予定がいっぱいなのも仕方ない所よね。さ、帰りましょう」

「部活とか入ってないの?」

 数歩先に歩き出した槙理を樒は小走りで追いかける。

「俗世のお遊びなんかに興味はない。あたしはあたしで好きにやっていくだけよ。そういうあなたは何かやってるんじゃないの?」

「私は大学の方のサークルだし今日は活動日じゃないから」

「ああ、だから大学生の先輩って事。気弱そうに見えて結構思い切りが良いのね」

「私はただの偶然だよ。本当に運が良かっただけだから」

「運も実力の内。少しは自分を認めてあげなさい」

 二人で仲良く話しながら歩いている内に学校は遠く離れ、気が付くと大通りを歩いていた。

「あ、導さんの家ってこっちの方で合ってる?」

「うん。この道はよく通るとこだよ」

「奇遇ね。あたしもいつもここを通ってる」

 道なりにしばらく進んで、角を曲がって住宅街に入っても、二人はまだ別れない。

「へぇ、渡衛さんも一人暮らしなんだ」

「あたしの家は他の五家門と違って自前の学校を持ってないから、こうやって学校を自分で探さないといけないのよね」

「でも実家って東京なんでしょ? なんでわざわざ静岡に?」

「あたしの家の家訓は『旅をせよ』だからね。望まなくてもこうやって見知らぬ遠い土地に行かなくちゃいけないの」

「大変だねぇ。あ、私こっち曲がる」

「あたしもそっちよ」

 全く同じ道、全く同じ曲がり角。歩き始めて10分が経った頃には、いい加減に二人とも違和感を覚え始めた。

「なんでこんなにシンクロしてるのかしらね」

「このあたりは学校が斡旋してる学生マンションが集まってるらしいし、そういうものだと思うよ」

「そういうものかぁ……あたしはこっちだけど」

「私も同じ」

 樒の脳裏にある予感がよぎる

「ねぇ渡衛さん。渡衛さんの家ってあそこ?」

 しばらく歩いたところで樒は自分の部屋がある学生マンションを指差す。返答を聞くまでもなく、槙理の信じられないと言わんばかりの表情が、すべてを物語っていた。

「……もしかして、あなたも?」

「うん、あそこの2階」

「あたしも2階なんだけど」

「えぇ……っと。じゃあ部屋番号は?」

「209」

「208」

 二人はしばらく顔を見合わせたまま立ち尽くす。

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