第2話 私は本気よ
樒は絶句した。
雨風で黒ずみ、一部が苔で緑色になっているコンクリート打ちっ放しの外壁。耐震補強で後付けされた野暮ったい鉄骨。
歩になだめすかされながら到着した3階建てのビルは、あからさまに年季が入っていた。
そこは既に部活動の拠点となる場所から学生たちのコミュニケーションスペースに役割を変えて久しいらしい。かつて屋内運動場が存在したであろう場所にそびえ立つ新築の講義室棟から学生の集団が出てきて、レポートの話などしながら中に入っていく様子が窺えた。
「ほら、着いた! この中にある――いや居るから!」
「せめて……退魔士の人と……」
半ば引っ張られるようにして連れて来られた樒は、最後の希望をうわごとめいて繰り返しながら、やはり引っ張られるようにして建物の中へ入っていった。
学生で賑わう1階のラウンジスペースを横切り、階段を1段、もう1段と登っていくにつれて、
目的の部屋があるらしい3階の廊下は、もはや誰もそのフロアにいないのではないかと思うほどに静まり返り、樒の不安をさらに煽るのだった。
「ここの一番奥の部屋。さ、行こう行こう!」死人めいて青ざめた樒の背中をさすって励ます。
一応、ミーティングルームとして開放されている個室を幾人かの学生が自習室として利用しているのはドアについている窓から確認することが出来る。が、そんな事を気にしていられるほどの余裕を、今の樒は持ち合わせていなかった。
こんな
――だまされた……!
あまりのショックに樒は歯ぎしりを始めた。
ドアを開けるなり、歩はラフな敬礼風のポーズと共に、中にいる人物に陽気な声を掛けた。
「ウーラー! 戻ったよ
「もう、歩ったら遅すぎよ。一体どこまで行って――え?」
歩に反応して本から顔を上げた、杏華と呼ばれた少女。樒の姿を見て困惑している彼女は、端的に言うともふもふだった。
「高校の子? なんだってこんな所に」
茫然自失の後輩を前にして、杏華は不可解そうな面持ちでパイプ椅子から立ち上がる。少女趣味なワンピースの後ろで大きな尻尾が興味に揺れていた。
「この子、ウチの参加希望者だよ」
「そ、そう。ねえ、あなた、本当にそうなの?」心配そうに声を掛け、樒の顔を覗き込む。
「退魔士の人と……」
そう言って奥歯を鳴らす樒に怯み、杏華は尻尾をしゅんと垂れさせる。
「ええと……もしかして、
まだお茶も出せないけど。と一言添えて渡された、杏華の私物らしい菓子を食べながら、内に樒は一旦頭を冷やそうと精神を内なる自分に集中させる。
――とりあえず話を聞くだけだ……。
何も参加が確定しているわけではない。話を聞いて断るだけの事。今まで自分が幾度となくしてきた事だ。何を戸惑う必要がある?
深呼吸。ついでに辺りを見回して自分が置かれている状況を観察する。
部屋の内装は外観の古臭さとは反対に清潔感のある白色を基調に整えられ、机と椅子が会議室の様にロの字のレイアウトで並べられている。おそらくこの角部屋は長い間誰にも使われていなかったのだろう。樒が向かっている机にも、備え付けのホワイトボードにも、使用されたような跡はほとんど見られなかった。
「落ち着いてきたみたいね。どう? お話はできそう?」
意識の外からの声、思わずびくりと跳ねる。気が付くと杏華は樒の方に体を向けていた。
「はっ、はひ! もう大丈夫です!」
樒の裏返った声を聞いて
「うふふっ、そんなに驚かないで。自己紹介がまだだったわね。私、
小柄な体躯に子犬を思わせる容貌を持ち合わせた杏華は、ともすれば小学生と間違えられかねない幼げな外見に似合わぬ淑やかな雰囲気を漂わせながら、樒の返答を待つ。
「導、樒です。えと、よろしくお願いします」頬を仄かに赤くしながら小さく会釈を返す。
「うん、よろしく……それで、さっそく本題なんだけど、あなたがこの活動に参加したいていうの、本当なのかしら?」
樒は杏華のペースに乗せられて危うく口から漏れそうになった肯定の言葉を飲み込む。
「あ……まず、どういう活動なのか説明して欲しいです」
「まぁ当然よね。それじゃあまずは活動概要を――」そう言いかけたところで杏華の伏せ気味な耳がぴくんと反応する。「お待ちかねの人が来たわよ、樒ちゃん」
杏華がそう言った直後、ドアが開かれる。
そこにいるのは二人の男性。
「すいません、遅くなりました……おや、初めて見る方が」銀縁眼鏡の青年が興味津々で樒を見つめる。
「先輩! 参加希望者っすよ参加希望者!」
「えっ、この子が……?」一方、銀縁眼鏡の後ろに控える泣きぼくろの彼は歩の言葉に疑いを隠せない様子でいた。
「魔術災害対策研究プロジェクト、略して“対プロ”代表の
眼鏡を掛けなおしながら、要一郎は表情を緩めた。
「錬金魔術学科2年の
手短に情報を並べて一礼する凌。ぶっきらぼうな挨拶だが、彼の実直さがよく伝わってくる。その飾り気のない眼差しには、右目尻の泣きぼくろも風説どおりの魔力を纏わせられないようだった。
樒は、彼らの事を歩から聞かされた昔話の登場人物として記憶している。2人とも歩の話で想像した人物像と大差ない姿で現れたことから、彼女の話術の達者ぶりが窺えた。
何故か自分の意見も聞かないままにサークルへの参加が決定事項になっているのは気になるが、とにかく聞くだけの事は聞こう。樒はそう意を決した。
「あの……このサークルって、どういう活動を……?」
「それに関しては、僕の方からお答えしましょう」
杏華の目配せを受けて、要一郎が口を開く。
「このサークルの活動目的は、名前の通り『魔術災害の対策法についてみんなで研究して、退魔士として活動して社会貢献しよう』というのが建前です」
「た、建前」
「ええ、建前です」要一郎は頷く。「というのも、対プロのメンバーで退魔士認可を取得して、組合に所属している魔術士。つまるところ正式な退魔士なのは僕だけ。水月さんはまだ認可待ち、風見鶏さんと篝家くんは次回の認可試験待ちです」
「そ、それじゃあ……」
「お察しの通り、今は退魔士になるための勉強と実技訓練が主な活動内容になっています」
樒の心が揺れた。元より魔術を一から勉強し、退魔士になれるような場を求めていたのだから、サークルの主目的が勉強とあらば、むしろ好都合である。
どうせ時間に余裕のある放課後なのだ。何か月か通ってみて、様子を見るというのも良いだろう。
「現2年生が試験を受験して認可を受けるまで、最低でも1年間はこのような活動体制が続きます。あなたもその中に混じって頂くことになりますが、やる気はありますか?」
「はい……まだ魔術はなにも分からないですけど、頑張ります」
複数人の先輩の視線を受けてはにかみながら、樒は自分の意思を表明する。それを見た歩も満足げにうなずいているが、それ以外の面々の表情は違った。
「ちょっと待ってください。導さん、魔術は未経験なんですか?」
「はい……まずかったですか?」背筋に寒いものを感じる。
「あー、いえいえ、未経験でまずい訳では――いや、ただ2年生と同じメニューに混ざるのは流石に」
その要領を得ない回答は、魔術未経験者の参加を想定していなかった事を暗示していた。
舞い上がっていた樒の気分も再び地に落ちる。
「おい歩。勧誘は経験者のみに絞れと言われていただろう。一体どういうつもりだ」後ろで声を潜めて咎める。
「いやだってそこいらの1年よりよっぽどやる気がありそうな子だったから。あそこで見捨てるのはもったいなくて」
「やる気があっても現状じゃ教える余裕はないだろう」
樒は自分の見通しの甘さを痛烈に後悔していた。大学生が主体の活動なのだ。魔術士であるのが前提なのは、自明だったではないか。
自分は、このサークルにとって招かれざる者。その事実が否応なしに突き刺さる。
「こらこら、委縮させるような事を話すのはよしてください」慌てて
「えー、初心者向けの練習メニューは計画の段階でしたが、すぐ整えますので、どうかひとつ」
樒を気遣おうとするその言葉が、余計に彼女の自責の念を強める。
――ここにいるのは迷惑だろう。
樒が落胆に肩を落としながら、参加辞退の文言を考え出したその時、後ろで話を聞いていた杏華が口を開く。
「要一郎さん。彼女の教育、私が担当しても良いでしょうか?」
「えっ、それはもちろん構いませんが、なにかいい案でも?」突然の事に驚きながらも、杏華に続きを促す。
「私が昔、弟に教える用に作った秘伝の教練書があるんです。これでなら彼女を1年で退魔士にすることも――」
「1年!?」
樒と要一郎が同じタイミングで驚愕の声を上げる。
「……1年で退魔士にすることも可能です」
高校のカリキュラム通りに一から魔術を学んだ場合、魔術士免許の取得だけでも最低2年はかかる。そこから退魔士認可を目指していては、高校3年間で間に合うはずもない。だが、それをたった1年で学べると杏華は言う。
この言葉が本当なら、樒の目論見は入学早々に成就し、進学への道のりもエスカレーターのごとく確実なものとなるだろう。
だが、今の樒には、杏華の提案も胡乱な誘いにしか聞こえない。信用するなど、到底できる状態ではなかった。
そんな彼女の心情を察知したのか、杏華は樒の瞳を見つめながら、語り掛ける。
「私は本気よ、樒ちゃん。もし約束通り1年であなたを退魔士に育てられなかったら――そうね、私、魔術士を辞めようかしらね」
杏華のその一言は、自らの人生を賭けても構わないと言っているも同然だった。正気の沙汰とは思えない発言に、唖然とする樒。
「ああ、信用できないなら念書でも覚書でも、何でもすぐに用意するわよ。もちろん、それでもやりたくないって言うんだったらそれで構わないんだけど、どうかしら?」
見つめあう二人。杏華の目は確かな自信と、燃えるような情熱で輝いていた。その熱気に当てられ、心の雪解けを感じる樒は、再び
一度深呼吸をして、樒は答えを固める。だが、同時にある疑問が頭をもたげた。
――この人、一体何を考えているんだ……?
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