第28話 最も神聖なる痴話喧嘩
「――《なぜ、抗うのか》」
舞台の上で、青ざめた馬の騎士は言った。
その足元には、七つのラッパの残骸が散乱していた。
「《ただ耐えればよい。ただ信じればよい。ただ崇めればよい。綻びに身を任せ――それだけで、すべての生命が救われる》」
「それは、わたしが思ったことね」
握り潰した槍を放り捨てて、わたしは言った。
「全員不幸になればいいって、わたしは本気でそう思ったもの。そうすればみんな寂しくない。目標に届かなくて心が折れることも、誰かと自分を比べて劣等感に苦しむこともなくなる。それに……そう、失恋することだって」
一緒に幸せになりたかった人が、他の誰かと幸せになるのを見せつけられる。
あるいは、実際に見なくても、心の中で自分を苛み続ける。こうして自分が一人でいるときも、あの人はあの子と幸せに笑っているのだと。
「すべての恋が実ることはありえない。すべての結末がハッピーエンドになることはありえない。だったら、何もかもをバッドエンドで終わらせれば公平だって――ええ、それってとっても素敵だわ? 素敵で無敵で、笑いたくなるほどお手軽ね」
「《手軽》?」
「一番簡単なやり方に飛びつくということ」
わたしは無人の観客席を眺める。
「300年……何をやっていたのかな……。考える時間はいくらでもあったのに……。幸せになるための方法を、何かしら思いついたかもしれないのに……。できなかったことに囚われて、どれだけのできることを見逃してきたのかなあ……」
こうして後悔していること自体、わたしがどうしようもない女であることの証明だ。
あの二人は進み続けた。後悔はあっても、自分の進める道を進み続けた。その果てに何が待つのか、わたしにはわからないけれど――
「――こんな女でも、たったひとつ、選び取ったものがある」
わたしは騎士を見据えた。
自分が縋ったものを見据えた。
「自暴自棄の選択だった。子供じみた嫌がらせだった。それでも、わたしはその役を選んだの。たった一度でいい! 大好きな人たちと同じ舞台に立つために!!」
わたしの手に剣が握られる。
ついぞ自分の手では握らなかったそれを、ようやくしかと握り込む。
「こんな女でも、背中を見てくれる子がいるの。だから――最後まできちんと、演じきらないとね!」
わたしは舞台の上を駆け、騎士の目の前で剣を振り上げた。
きっと、血に塗れたわたしに歓声はない。
むしろ罵声を浴びるだろう。世界中の人間に嫌われるだろう。
それでも、やるべきことがある。
それでも、できることがある。
1000歳年下の後輩に、女の散り様を見せてやるために―――!!
「―――舞台を降りろ神霊ッ!!
※※※
真紅の世界を、白い翼が斬り裂いた。
それは地上をかき抱くように広がって、空から降り注ぐ鮮血色の光を塗り返す。
呆然と見ているデリックたちの遙か頭上で、終末の獣が怒りの声をあげた。
その矛先は、地の果てまで広がった翼の根元。
誰よりも高い空に毅然と立つ、裸体の少女だった。
地上から、色づいた魔力の煙がいくつも立ち上る。
それらは少女の肢体にまとわりつくと、見る間に純白のウエディングドレスを編み上げた。
天よりも、神よりも、獣よりも――誰よりも輝いて見える、一人の花嫁。
彼女は、いつしか左手に錫杖を握っていた。
それは羊の角の獣人の持ち物だったが、すでに彼女のもの。だから、主人であるはずの終末の獣にも牙を剥く。
無数の鎖が伸びた。
黒天の向こうから世界に降りようとしていた赤き竜が、見る見る鎖に絡め取られた。
身をよじる赤き竜を見上げ、花嫁は口を開く。
胸を打つような微笑を湛え、あたかも父親に感謝を告げるように。
「代役ありがとう、ペイルライダー――クライマックスは任せてね?」
花嫁が錫杖を振るうと、空中に奈落の穴が開き、鎖が終末の獣をそこに引きずり込んだ。
あれほど絶望的だった竜は、しかし、少しの抵抗もできず、奈落の闇に呑まれて消えた。
鮮血色の光が消える。
空には満天の星と大きな月が戻る。
薄青い空に、宝石箱のように散りばめられた色とりどりの星々。
絶好のロケーションだと、誰もが言うだろう。
美しい夜空ほど、恋という感情に似合うものはないのだから。
純白の羽根が、夜空をライスシャワーのように舞い散る。
それが虚空に降り積もって、一筋の道を形作っていた。
デリックとリリヤ、そして花嫁を一直線に繋ぐ、ヴァージンロード。
羽根を踏み締め、花嫁はゆっくりとデリックたちに近付いてくる。
ヴァージンロードは、花嫁が結婚に至るまでの人生そのものなのだという。
だからデリックは、いつか投げかけた言葉を、もう一度彼女にかけた。
「君は……天使か?」
花嫁はくすりと笑う。
「誰が。それじゃあまるで、あなたたちを祝福しているみたいじゃない?」
どこからか、荘厳な鐘の音が聞こえる。
それは、誰を祝福するものか。何を祝福するものか。
「人の想いに気付きもしなかった鈍感男に、応援しといてしれっとかっ攫った泥棒猫。ああもう、なんてひどいのかしら。これって怒ってもいいわよね? 殴ってもいいわよね?」
無数の妖精が夜空を舞い飛び、世界すべてに聞こえるように叫んだ。
「「「「「《さあ、神の大宴会に集まれ! 婚宴だ! 子羊の婚宴だ!》」」」」」
妖精たちが踊り狂う中、天が開かれるのを見る。
純白の光輝の彼方から、一頭の白馬が走り出した。それが花嫁の傍に停まると、花嫁はその鼻先を優しく撫でて、鞍の上に飛び乗る。
「さあ、決着をつけましょうよ?」
白馬の上から少女は言った。
「八方美人の最低男に制裁をッ! 口先ばかりの大淫婦に粛正をッ! わたしを幸せにできなかった世界に、大いなる災いよあれッ!!」
花嫁の口から鋭い剣が飛び出す。彼女は空いた右手でそれを抜き放つと、鉄の錫杖と共に馬上で構えた。
デリックは笑う。
リリヤは笑う。
ああ、見事なる逆恨み。
ああ、完璧なる自分勝手。
だからこそ嬉しい。
だからこそ喜ばしい。
千年越しに、初めて彼女と出会えた気がした。
「ああ――つけるか、決着」
デリックは雷霆の剣を構えて言った。
「2対1だけど、構わないわよね?」
リリヤは風を纏って言った。
「いいわ、まとめて来てごらんなさい?」
喉の奥から取り出した剣を、少女ペイルライダーは想い人と恋敵に向ける。
「その仲、完膚なきまでに引き裂いてあげるわ――腐れ婚約者どもっ!!」
※※※
「……えーと」
「……はあああ……」
遙か上空で始まった戦いを、マーディーたちは微妙な顔で見上げていた。
三つの光が、空の中で忙しなく交錯する。
さっきまでマーディーたちを追いかけ回していた獣の石像が舞い上がり、猛然とその戦いに参集しては、羽虫のように蹴散らされる。
炎でもなければ雷でもない光が流星群のように飛び交い、花火のように弾け散った。
それはまるで、銀河ができる様を早回しで見ているかのよう。
宇宙空間に漂う岩塊がぶつかり、合体し、大きくなり、質量を増して、輝きを放つようになり、そしていずれ、肥大しきってブラックホールに変わる。
きっと本当は、この世ならざるその戦いに、何かしらの感銘を受けるべきなのだろう。
研究者の端くれとして、その機会を逸してしまっているという事実に、忸怩たるものがないわけではない。
けれど、どうやったって不可能だ。
それは、少しばかり見た目が派手なだけで、マーディーや、それにアンニカたちも、日常的に見慣れたものだった。
毎日のように学院で繰り返される、日常茶飯事でしかないものだった。
マーディーは苦笑して言う。
アンニカも呆れたように言う。
その光景を、その神話的な戦いを、最も的確に表す言葉を。
「「……痴話喧嘩だ」」
※※※
「あはっ……ははは! あははははははっ!」
上空で繰り広げられる神話的な痴話喧嘩を、レイヤは誰よりも近い場所で見上げていた。
駆け引きなんてない。
信念もなければ目的もなく、守るべきものもありはしない。
ただただお互いの感情をぶつけ合うだけの、子供より子供な我がまま合戦。それを――ああ、あんなにも美しく!
レイヤの目には涙が滲んでいた。笑いすぎたからか。感動したからか。自分でだってよくわかりはしないけれど、その喧嘩を見て、泣かずにはいられなかった。
(そうだよ……それでいいんだよ、ペイルライダー!)
彼女に誰よりも近くで接したレイヤは、万感の思いを込めて心で叫ぶ。
(我慢なんてしなくてもいい。待ってなんていなくてもいい。その人はね、言わなくても全部察してくれるような、カッコいい人じゃあないんだから!)
エドセトア・タワー天望回廊の端まで走り、レイヤは空で交錯する光を見上げた。
そして、大きく息を吸い込み。
あらん限りに。
誰よりも共感できる友達に向けて、全力のエールを送る。
「――がんばれっ!! ペイルライダあああああああああああああああああああっっ!!!!」
※※※
「――《王の王、主の主》!」
花嫁衣装のペイルライダーが左手の錫杖を振るうと、無数の獣の石像が整然と動いた。
一匹一匹が
しかし、デリックもリリヤも笑みさえ滲ませた。相手にとって不足なし。彼女の全力を、自分の全力でもって受け止めるのみ!
「――《
「――《
獣の軍勢を、雷霆の剣が大気圏の果てまで巻き込んで焼き切り、美の光輝が素粒子の一粒さえ残さず浄化する。
一瞬にして消え失せた自軍を目にしても、花嫁は毅然とドレスを翻した。
「――《王の王、主の主》!」
天が開く。
光輝に満ちた扉の向こうから、新たなる軍勢がやってくる。
最も目立つのは豹のような姿の巨獣、メガテリオンだった。その頭の上には、本体である羊の角の獣人。巨体の周りには、馬に騎乗した黄泉の軍勢が侍る。
そして、そのすべてに鎖が巻きついていた。否、それは手綱である。その端はペイルライダーの右手にある剣に繋がっていた。もはや終末さえもが花嫁の手足なのだ。
彼女は力強く鎖を引き、世界を終わらせる軍勢に命を下す。
「《さあ肉を喰らえ! 王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉! 馬とそれに乗る者の肉、自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者! そして勇者と姫の肉! あらゆる肉を飽きるほど喰らえッ!!》」
呪文とも呼べない荒々しい指令に、終末の軍勢は諾々と答えた。
大瀑布めいて巨獣と騎馬が降り注ぐ。デリックは剣を構えた。リリヤは風を手繰った。――否、これでは足りない!
「ゼウス! もう少し寄越せッ!!」
「エンリル! ケチケチしないで!!」
天を割って落雷がある。それはデリックの脳天に直撃し、しかし彼の身体を守るように鎧った。
空の雲がすべて吹き散る。全大気圏から掻き集めた風が、リリヤの髪を優雅にそよがせた。
「ぜいッあああァッ!!」
雷霆の剣が太さを増す。その膨大な電熱に、惑星全体の平均気温が8度ほど引き上げられた。
「はあッ―――!!」
大気密度がシェイクされ、夜空が激しく歪む。星々がコーヒーに入れたミルクのように渦巻き、代わりとばかりにリリヤは太陽になった。
雷霆の剣が放つ電磁波。嵐の舞踏が掻き乱す大気。
これらが合わさり、全世界の空をオーロラが覆う。
地の果てまで広がる虹色の極光は、まるで花嫁が被るヴェールだった。
《秩序裁定律ゼウス》、そして《混沌統括権エンリル》。
秩序と混沌が陰陽図のように混じり合い、鎖に繋がれた終末に牙を剥く―――!!
「「せェええィああァッ!!!」」
激しく気勢をあげながら、二人の魔神の神威が軍勢を斬り裂いた。
黄泉の騎馬隊も、巨大なるメガテリオンも、羊の角の獣人も、おしなべて等しく塵と還る。
思い出したようにハリケーンが荒れ狂い、太陽よりも眩い閃光が地上に鮮烈な陰影を刻んだ。
誰もが五感を手放す中で、しかし、世界でただ3人だけが互いを見失わない。
「――はッ! あははははははっ!! 見せつけてくれるわねッ―――!!」
閃光の中で白馬が走った。
気付けば目の前に剣があり、デリックはすんでのところで背を逸らして躱す。
次の瞬間にはリリヤのほうで交錯が起こっていた。目で追う暇もない。白馬の馬足はまるで光。時間さえ歪ませる神域のスピードだ。
「そういうところが気に食わなかった! 初めて目が合った瞬間から殺し合いを始めたくせに! 宿命的に互いを憎み合っていたくせに! 心のどこかでは奇跡的なくらい通じ合っていたところが!!」
光速で駆けるペイルライダーを捉えるべく、デリックは雷霆の剣を大きく振るう。しかし斬ったのは山脈の先端と人工衛星のみ。
「世界に自分たちただ二人みたいな顔をしやがってッ!! そんなの、そんなの!! 羨ましいに決まってるじゃないっっっ!!!! ムカつくのよッ、鼻につくのよ勝ち組どもがっ!!! あなたたちに、誰にも好きになってもらえたことのない人間の気持ちなんてわからないでしょおおおおおおッ!!!」
「――わかんないわよヒステリー女っ!!」
リリヤの光輝がペイルライダーに追いついた。
白馬が浄化され、花嫁だけが投げ出される。
「言わせてもらうけどねえ!! 私、あんたみたいな女、大っ嫌いなのよっ!! うじうじうじうじ悩んでたら誰かが助けてくれると思ってる!! 困ってますアピールで人に心配させといて、『なんかあった?』って訊いたら『別になんでもないです』とか言うタイプでしょっ!! 言いたいこと言いなさいよはっきりと!! 要するにただのかまってちゃんでしょうがあぁああああああっ!!!」
馬を失ったペイルライダーに、リリヤが猛然と迫った。
大陸さえ吹き飛ばすだろう嵐をまとって放たれるのは、ギロチンめいた踵落とし。
ペイルライダーは右手の剣と左手の錫杖を交差させ、それを受け止めた。
衝撃が四次元に渡って波及し、刹那、時空が歪みを見せる。一発の攻撃と一度の防御。そのはずだったのに、無限の攻撃と無限の防御が連なって因果律にヒビを入れた。その攻防の数を仮に数字にすれば、宇宙のすべてを紙に変えてもまだ書き切れない。
「うっ……うううっ!! うううううーっ!!」
「ほうら、また何も言えない! 子供みたいに涙目でなってれば同情を買えると思ってるんでしょうが! 昔みたいに優しくするかと思ったら大間違いよ小鳥さんッ!!」
人にとっては無限でしかない攻防も、神にとってはその限りではない。無限プラス1。ただ一度だけ、リリヤの攻撃が勝った。
ペイルライダーが隕石のように墜落する。彼女はかろうじて地上への落着だけは回避するが、吹き下ろした余波によって高層ビルが何棟か傾いだ。
「ば――馬鹿アホっ!! 地上のこともちっとは考えろ!!」
「うるさい馬鹿はあんたでしょ女たらし! 死ね死ね死ねっ!!」
意味不明な罵倒をデリックに叩きつけて、リリヤは何百メートルか下方のペイルライダーに追撃を仕掛けていく。
「こっ、のおっ……!!」
ペイルライダーはキッとリリヤを睨み返し、右手の剣から鎖を伸ばした。
「な……何が悪いのっ……! 謙虚で控えめでいることの何が悪いって言うのっ……!! あなたみたいにずけずけ図々しいのに比べれば一億倍マシだもん!!」
鎖が伸びる先には奈落のような穴がある。その向こうに七対の双眸が輝いていた。
「……ま、まさか」
喉が干上がるデリックをよそに、ペイルライダーは容赦なく鎖を引く。
「お前みたいなのばっかり得する世界のほうが間違ってるのっ!! 世界のために死に晒せ―――ッ!!!」
鮮血のように赤い七つ首の竜が、奈落の向こうから引きずり出された。
「まっ……
鎖で引っ立てられるようにして、マスターテリオンが猛然とリリヤに襲いかかる。
「誰が、得してるって……!?」
リリヤはくるりとターンして光輝を放ち、赤き竜の首を一気に三つ吹き飛ばした。
しかしまだ四つ残っている。次々と牙を剥くそれらを、彼女はくるくると踊るようにしてかい潜り、腹の下に潜り込んだ。
「損ばっかりよこんな性格……! 気付いたらややこしいことになってるし、思ったことと逆のことが口から出ちゃうし、かといって黙ってることもできないし!」
大地が息を吹いたかのような上昇気流が、赤き竜の巨体を持ち上げる。終末の獣はそのままオーロラの彼方に消え去った。
「……マジかよオイ……」
置いてけぼりのデリックは、マスターテリオンが消え去った空を呆然と見上げる。
障害を排除したリリヤはペイルライダーに迫り、嵐を両足に纏わせた。
「後悔だらけよ、何もかも! じゃないと転生なんてするかああ―――っ!!」
嵐がペイルライダーを飲み込もうとしたそのとき、彼女がジャラリと鎖を引いた。
デリックは気付く。遙か空に消えたマスターテリオン――しかし、その手綱はまだ彼女に握られている!
流星めいて降ってきた赤き竜が、ペイルライダーもろともリリヤを飲み込んだ。
デリックはぎょっとするが、すぐに声が聞こえてくる。
「……だから……羨ましいのよ、あんたのことが」
きっと、今までペイルライダーに向けられた中で最も優しい、リリヤの声。
「プライドも体面も投げ捨てて言いたいことを言える……今のあんたが」
マスターテリオンが――消えていく。
七つの封印の解放をもってようやく召喚された終末の獣が、霊子に戻って消えていく。
「私はまだ……できないから。だから、この機会を逃しちゃダメ」
「……エンリル……」
「私なんかに応援されたって、嬉しくないだろうけどね。でも、少しのあいだ暮らしたよしみで、背中を押してあげる――」
続いた囁き声は、少女たちだけのもの。デリックの耳には届かない。
ただ彼が見たのは、生まれ直すかのようにマスターテリオンの中から現れる、緩く抱き合った二人の姿だった。
「――さあ、行け! 骨は拾ってあげる!」
リリヤが思いっきり、ペイルライダーの背中を叩く。
花嫁衣装の少女が、一直線にデリックへと飛んでくる。
右手に剣を携え。
左手に杖を携え。
純白のドレスで全身を鎧って、少女はオーロラの空を飛んだ。
デリックと同じ高さまで舞い上がってくると、彼女は無言で視線を送る。
その顔つきに……遥か過去のことを、思い出した。
――焦土と化した、王都の真ん中で。
泣きながら、必死にオレのことを制止してくれた、彼女のことを。
きっとあのとき、お前だって怒りたかったよな。
オレと同じくらい、泣きたかったよな。
お前だって、仲間を失ったんだもんな……。
つらいのは……オレだけじゃ、なかったんだもんな……。
それでもお前は、オレのために泣いた。
自分のために人を治すと言ったお前が……あのときだけは、
あのときの、お前の顔を覚えている。
怒りと、悲しみと、寂しさと、悔しさと。感情という感情が混ざり合った泣き顔を。
なんでだろう。
今の彼女は、決然とした表情を浮かべているのに、どうしてあのときの顔を思い出すのか。
――ああ、そうか。
本当は、あのときに、気が付いていたんだ――
「……っ、…………」
彼女は口を開きかけて、すぐに閉じる。
神霊に名前を捧げたデリックたちは、もうかつてのように呼び合うことはできない。
だから、その代わりに――互いに剣を振り上げた。
霊子が渦巻き、天を衝く。
2本の柱が、星空を貫く。
一方は雷霆。宇宙を焼き尽くす破壊の剣。
一方は終末。鮮血よりも赤く輝く死の剣。
それらの一方だけでも、世界を滅ぼして余りある。
しかし――彼は。
しかし――彼女は。
それだけの力を、人類にとって、文明にとって、歴史にとって、惑星にとって、ほんの些末な、ともすれば気の迷いとすら断じられてしまうような感情のためだけに使用する。
視線が、交わされた。
二人は、ほのかに笑っていた。
きっと、千年前から、この瞬間を待っていたのだ。
二つの剣が世界を割る。
雷霆と終末が激突する。
そのとき、世界を揺るがしたものは、衝撃、などという無粋な言葉では表せまい。
ある者は天啓と呼ぶだろう。
ある者は感銘と呼ぶだろう。
そしてある者は、青春と呼ぶだろう。
天上に弾けた光を、人々は淡い笑みを湛えて見上げる。
その目は、まるで未熟な少年少女を見守るかのようだった――
花火のように煌びやかに。……しかし、花火のように儚く。
天に咲いた光の花は、無数の輝きの粒に散る……。
世界を祝福するように舞い降る光の只中で、少年と少女が向かい合っていた。
もはや、その手には剣も錫杖もない。
勇者も魔神も関係なく、ただ彼と彼女だけが佇んでいた。
「……あのね」
と、少女が言う。
少しの震えを帯びた手を、そっと持ち上げ……少年の頬に、伸ばしながら。
「わたし――――」
少年は黙って、言葉の続きを待った。
本当は、もっと以前に聞いておかなければならなかった言葉を。
少女の手が、少年の頬にかすかに触れる。
それに安心したように、少女は微笑んだ。
そして、ほんの少しの硬さを帯びた声で告げる。
「――――ずっと、あなたのことが、好きでした」
その笑顔に、声に、少年は唇を緩ませる。
今、彼女が見せたのは、世界を救おうとするよりもなお強い、勇気。
勇者たる証明のそれに、だから少年も答えねばならない。
たとえ、どんなに残酷でも。
たとえ、どんなに悲しくても。
少年は、そっと少女の手を握り返す。
少女の目が、驚いたようにハッと見開いた。
その瞳に、かすかに、期待の輝きが過ぎった。
だから少年は、彼女の瞳をまっすぐに見つめて、ありのままを答える。
「オレも―――お前のことが、好きだった」
雨音の響く洞窟で出会い。
焚き火のそばで語り合い。
自分のために言葉を尽くしてくれた彼女に――少年は、確かに惹かれていた。
ただし――すべては過去のこと。
「…………ああ…………」
少女は笑顔のまま、少しだけ唇を震わせる。
「…………そっ、かぁ…………」
きっと、ただ拒むだけよりも苦しい答えだ。
彼女はきっと思っただろう。
あのとき――できる限りのことをやっておけば。
「………………惜しかった、……なぁ…………――――――」
花嫁衣装に包まれた少女に、しかし、その腕を取る者はいなかった。
一人っきりで、淡い光に包まれる。
夢から、覚めるのだ。
彼女にもはや肉体はなく……笑うことも、泣くことも、束の間の幻でしかないのだから。
天使のような翼が。
花嫁のようなドレスが。
足が、胴が、胸が。
泣き笑う顔が――
――そして、細い指先が。
彼女のすべてが霊子に還り、光にほどける。
少年だけが、少女の温もりを最後まで感じていた。
最後の最後まで……ずっと、彼女の手を握っていた。
これは、一人の少女が、千年振りに見た
最も天に近い場所で、生涯ただ一度の痴話喧嘩を経て―――
―――長い長い初恋が、しめやかに失恋した。
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