最終章 失恋神話オンステージ - It's_your_turn!! -
第26話 終末黙示録
――人を治すのが好きなの、と彼女は言った。
旅の合間に、とある国同士の戦争に介入したときだったと思う。
彼女は野戦病院で八面六臂の活躍をして、骨の髄まで疲れ果てているはずだった。なのに妙に嬉しそうに笑っているから、何がそんなに嬉しいのかと訊いたんだ。
――別に、高尚な理由じゃないよ? もっと自分勝手で、身勝手な理由……。
――人を治すと、お前自身に得があるのか?
――……治療している間はね、みんな、××なしでは生きていられない。
恥じ入るようなか細い声で、彼女はぽつぽつと語った。
――誰かを治している間だけは、その人にとって絶対に必要なものになれる。……承認欲求、っていうのかな。死の際にある患者さんは、自分を助けようとする医者に、大体は感謝してくれるから……。
焚き火の前で膝を抱えて、彼女は顔の下半分を隠す。それから、ちらりと様子を窺うように、オレのことを上目遣いで見るのだ。
――ご……ごめんね。幻滅させちゃったよね……。
――い、いやいやいや。
オレは慌てて否定する。
幻滅なんてとんでもない話だ。
――……なんていうか、オレ……医者って、みんなもっとご立派な理想を持ってるもんだと思ってた。
――そう、だよね……。ごめん、自分勝手で……。
――いや、だから! …………身近に感じた、っていうかさ。
――え……?
――逆に安心した、っつーか……そんな風に、自分のために人を治す奴がいるんだ、って……それってさ、なんか……。
するりと言葉が出てこない自分にもどかしさを感じながら、オレはようやっとの思いで言いたいことを形にした。
――好きだぜ、オレは。お前のほうがさ。
正しいかどうかはわからない。……ただ、オレには好ましく感じられた。
勇者なんて呼ばれているからかもしれない。世のため人のためって、そんなことばかり背負っているから、自分のために人を救える彼女が羨ましく映ったのかもしれない。
――…………ぁ…………。
か細い声がして、ふと横を見る。
するとちょうど、焚き火の明かりくらいじゃ誤魔化せないくらい、彼女の顔が真っ赤に染まっていくところだった。
――~~~~っ!!
オレの目から逃げるように、彼女は自分の膝に顔を突っ伏してしまう。
それでも、イチゴみたいに赤くなった耳だけは隠しきれていなかった。
――あ! いや、その、ちがっ……!
オレは今さらのように自分の言ったことに気付いて弁明しようとするが、何も言葉が出てこない。
無様に赤くなってあたふたするオレの横で、彼女は膝の間に顔を埋めたまま、くすくすと小さく肩を揺らしていた。
――……ありがと。
※※※
――青ざめた馬の上で、騎士が剣を掲げた。
その騎士の名は『死』という。生命が持つ終わりの宿命、
その両脇には二つの『黄泉』が従士のように付き従い、多くの幸いと災いを覗かせて人々を待っていた。ここがお前たちの終着点だとでも言うように。
「――《宣告する。宣告する。命は母なる泉より生まれ、泉の底に終局する。これは幸いである。これは災いである。受け入れるべき終末の黙示である》」
其は世界の綻びを紐解くもの。
誕生より定められた終わりの先触れ。その実在を示す言葉なき宣告。
ゆえに神代、人々はこう呼び習わした―――
「《万象よ――綻びのままに終わりたれ》」
―――《終末黙示録ペイルライダー》。
母なる泉より零れ落ちた神霊、その一柱が、二つの敵性を認めた。
振り上げられるは一振りの剣。
しかし、その刃が命を薙ぐのではない。死の具現たる神霊に、そのような低次元な行動は不要である。
『黄泉』が溢れた。
水嵩を増した大河が暴れ狂うように、死の世界から獣の姿をした瘴気が千と万と駆け広がったのだ。
デリック・バーネット。
リリヤ・エクルース・フルメヴァーラ。
魔神としての力を復活させ、今や紛れもなく世界最強の存在である二人を前に、しかし溢れ出した獣は、殊更に牙を剥くことも爪を研ぐこともなかった。
暴れる大河は、ただ無秩序に広がるだけだ。
人間は、たまたまそれに巻き込まれるだけでしかない。
「押し戻すぜ」
「押し潰すの間違いでしょ?」
漆黒の空を埋め尽くす獣たちを前に、デリックは右手に携えた剣を大きく振りかぶる。
「――《轟き、砕き、燃やして溶かし》」
紡がれるのは神楽の詩。
世界そのものに捧げる、神代魔術の呪文詠唱。
「《我が憤怒が宇宙をくべる。恐れを抱いて耳に聞け》!」
瞬間、世界が割れた。
塵という塵が炎上し、弾けたプラズマが黒天を両断する。天の扉が開いたか。そう錯覚するほどの、長大なる雷霆の剣。
雷霆は伸びる。
遙か彼方。地平線の陰に隠れて難を逃れた山脈が、その肌を砂糖菓子のように溶解させた。
さらに彼方。惑星に接線を引くように、雷霆の剣先は成層圏を串刺しにした。
「《裁定せよ》―――」
そして、振るわれた。
一人の少年の手によって、惑星さえ断ち割れる剣が、空を撫で切りにするように。
地上より見上げる人間たちには、その現象を『斬撃』とは理解しえなかっただろう。
あるいは、天の開門。
あるいは、宇宙の倒壊。
あるいは、神の鉄槌。
彼の神霊の名は《秩序裁定律ゼウス》。
人智を超えた一撃が、無数の獣を横薙ぎに襲う。
「―――《
蒸発すら許されなかった。
遙か空に円環状の傷を残しながら振るわれた剣は、『黄泉』の獣を呑み込むなり、そのことごとくを霊子の一個に至るまで焼き滅ぼした。
あとに残るのは、世界に焼きついた雷霆の残像のみ。
天が揺れる。
それは断末魔だった。『黄泉』から溢れ出ようとしていた獣たちの悲鳴だ。
聞いただけで魂が連れ去られる。聞いただけで命が摘み取られる。恐々たる道連れの叫びを、しかしデリックは雷霆の轟音で塗り潰す。
「黙れよ亡者。仲間が欲しけりゃ大人しく順番を待て」
もう一つの『黄泉』から、さらなる獣が溢れ出した。
本能のままに走り、喰らい、広がってゆく病毒の運び手。押し寄せる災いの前に、一人の少女が立ち塞がる。
ふわりと、魔力の衣が舞った。
天を覆いし魔力の翼。それを羽衣めいて優雅に広げ、リリヤは――《舞い踊る風天のエンリル》は歌い始めた。
「――《畏れよ地よ、我が身に眩め。畏れよ天よ、我が身に焦がれ》」
厳かなる風祝の神楽は、凜と天に響いて余韻を残す。
「――《光輝を纏いて踊るは彼方。我が身を望みて進むは此方。勇者よ進め、混沌の深くに。勇者よ踊れ、混沌の底で》!」
舞い踊るリリヤの姿が、光輝に包まれた。
それは只人の目から神聖なる御姿を守るヴェール。資格なき者には、美麗なる神を見ることすら叶わない。
「《統括せよ》―――」
獣たちは棒立ちになって自失していた。神聖なる光輝の前に、黄泉の瘴気でさえも束の間の信仰を得たのだ。
眩さを増す光輝の前に、誰もが自ら瞼を閉じた。欲望を捨て、彼女の姿を想像することすらやめた。
畏れである。すべて生命は、美しすぎるものを前にしたとき、見ることさえ躊躇する。己が視線で穢さぬために。いわんやそれが神ならば――
彼の神霊の名は《混沌統括権エンリル》。
人智を超えた美しさが、黄泉の獣を浄化する。
「―――《
究極の美は、ただ『光』としてしか有り得ない。目に入り、網膜に焼きつき、脳細胞を焼却し、魂さえも洗浄する。終末の使者であってもそれは変わらず、自ら昇天を余儀なくされた。
だから今度は、彼らが断末魔を叫ぶことはない。むしろ満ち足りたように、さらさらと風化してゆくのだ。
光が治まり、リリヤの姿が再び世界に現れる。金色に輝く髪に、魔力で編まれた衣に、まだ少しだけ光輝が残っていた。
ふん、とデリックは鼻を鳴らす。
見惚れてやる義理はない。
「さあ、お供が消えたな、
「さっさと出してもらいましょうか。本当のヒロインを!」
騎士は答えなかった。
青ざめた馬の上で、終末黙示録は一つのラッパを手に取る。そして、それを音高く吹き鳴らした。
魂を圧してくるかのような音色と同時、それを遙かに凌ぐ重圧が天上で膨らむ。
「首が……!?」
リリヤが頭上を仰ぎ、愕然と呻いた。
漆黒の空。その向こうに透けて輝くのは、1体の真紅の竜だ。
ついさっきまで、その首は三つ叉だった。しかし今、ラッパの音色と共に、血流のような長い首が四つに増えたのだった。
「ああ……伝承の通りってわけだ……」
黒天の向こうにいる真紅の竜を睨み、デリックは歯噛みする。
「見ろリリヤ、ペイルライダーの腰にはラッパがあと三つある。あれが一つ吹き鳴らされるたびに、あの赤い竜の首が増えていくってわけだ」
「すべて吹き鳴らされると、首の数は七つになる。七つの首を持つ赤き竜――すなわち、《終末の獣マスターテリオン》!」
「《ペイルライダー》の名のもとになった伝承において、世界に決定的な滅びをもたらす怪物。世界は不治の病に溢れ、生命が許される場所じゃあなくなる」
「大変ね?」
「大変だな。でも救いもあるぜ」
「何かしら?」
「神霊だって精霊の一種に過ぎねえってことさ。伝承に沿った行動がその証左!」
「
終末黙示録の手が再び腰に伸びた。そこにあるのは第五のラッパ。終末の獣を降臨させる呼び笛だ。
「行くぞ! ラッパを吹かせる前にぶっ潰す!」
「誰に指図してるのよっ!」
二人が魔力の翼を羽ばたかせた。
と同時、騎士の剣が再び天に――否、真紅の竜に掲げられる。
「《きたれ》」
雷のような声が言い、剣の先で空間が裂けた。
「《その名は『にがよもぎ』。彼の星が川に落ち、水の三分の一が苦くなる。人々は飢え乾き、綻びのままに眠りに就く》――」
裂けた空間から轟然と顔を出したのは、赤々と燃え盛る彗星である。
漆黒の天を松明のように照らすそれは、直径にして1キロメートルを下らない。その落着の衝撃は、川どころかエドセトア全土を焦土に変えるだろう。
しかし、魔神にとっては石ころに過ぎなかった。
「おおおッ――――!!」
短く吠えながら《
切断面から緑色の
「放射性物質だ!! 宇宙まで吹き飛ばせッ!!」
「はいはい!」
仕方なげに答えながら、リリヤはEF5相当のトルネードを発生させた。高層ビルさえ薙ぎ倒す未曾有の暴風が、拡散しかけた放射性物質を彗星の残骸ごと巻き上げる。
緑色の靄が黒天に消えるのを待ちもせず、二人の魔神は青ざめた馬の騎士に迫った。
第五のラッパが騎士の口元へ。今にも吹き鳴らされんとしている。させるわけにはいかない!
雷霆の剣が天を衝く。
美の光輝が世界を染める。
物理法則さえ破壊しながら、二人の魔神の攻撃が神霊を襲った。国を五つ滅ぼして余りある威力が、騎士の鎧を、肌を、肉を、骨を割り砕いた。
ラッパを握ったままの腕が、漆黒の空に舞う。
それが霊子に還って消えたとき、終末黙示録ペイルライダーの姿は、半分以上が瓦解していた。
騎士の鎧は砕け散り、右半身が消滅している。
青ざめた馬は首と足の半分を失い、今にも倒れそうにふらついていた。
「よしっ……!!」
デリックは《
神霊といえども精霊の一種だ。ここまで霊子構造を破壊されて活動を持続できる道理はない。
「消え失せろ、神霊――!!」
「あんたたちの出番は1000年前に終わったのよっ!!」
「――《そして、竜は浜辺に立つ》」
間髪入れず。
二人の最後通牒に答えるように、雷のような声が言った――デリックは、リリヤは、言い知れようのない危機感に衝き動かされる。
天を仰いだ。
空に、海があった。
白い砂浜と、そこに打ち寄せる暗い夜の海。空間の認識が狂う光景だった。自分が逆さになっているのか? 世界が逆さになっているのか? 違う。論理ごときで解釈できはしない。
ザザン――と。
デリックとリリヤは、浜辺に打ち寄せる海の中から、1匹の獣が上がってくるのを見た。
それは、頭に十本の角を持っていた。
そのそれぞれに王冠を被り、その王冠には、目に入れるだけで魂の根底を揺さぶられる冒涜的な言葉が刻まれていた。
全体としては豹に近い。
しかし、足は熊のそれのように短く太く、口はライオンのように勇猛だ。
キメラと一口に呼ぶには、あまりに荘厳が過ぎた。神々しいわけじゃない。美しいわけじゃない。むしろ醜いとすら言えるのに、反射的にひれ伏してしまいかけるほどの重圧を纏っていた。
「……《第二の獣》……」
「……《メガテリオン》……っ!」
終末の獣、マスターテリオンの権威を借り受けた怪物。神と天使と人類の天敵。世界に終末を迎えさせる尖兵のひとつ。
騎士の姿は、いつの間にか消え散っていた。代わりとばかりに、天使なのか悪魔なのか妖精なのか、人型に翼の生えた精霊がメガテリオンの周囲に侍り、三つのラッパを手にしている。
そのうち一つが、吹き鳴らされた。
第五のラッパ。
残りは二つ。
「……ッ姿を変えたって同じことだ! リリヤ!」
「わかってるわよっ!!」
魔力の翼を羽ばたく。天の海から首を出したメガテリオンに向かって、一直線に飛翔する。
デカい。メガテリオンの大きさは、近付いてすら判然としなかった。比較物がないからなのか、あまりに大きすぎるからなのか――それとも、何メートルや何フィートという、人間が定めた尺度ごときで測れる存在ではないからなのか。
メガテリオンの、口が開く。
そしてデリックは、第二の獣の声を聞いた。
「《●●●!! ●●●●●●!! ●●!!! ●●●●●●●●●●●●●●!!!!》」
言葉の意味はわからない。音の連なりは聞き取れない。
ただ、それは冒涜だった。
世界への、生命への、徹底的な冒涜だった。
衝撃が魂に突き抜ける。
人間の言葉でさえ時に刃が宿るのだ。なれば、世界の敵たる獣の言葉は、肌に触れるだけで致命的に違いない。
かろうじて踏み留まり、自失を免れる。
翼を羽ばたき、獣に迫る。
雷が、風が、獣を喰らった。
「《●●●●●●!! ●●●●●●!! ●●●●●●●●●――――ッ!!!! ●●●●――●●ッ!! ●●●●●●●●●●●●●●――――――――ッッッ!!!!》」
冒涜的な断末魔が迸り、メガテリオンの首が胴体を離れる。
遙か地上へと墜落しながら、大気圏に突入したスペースデブリのように崩れ去る。
天上の海には首をなくした屍だけが残り――
「――っな……!?」
「えっ……!?」
唖然と声を漏らしたのは、他でもない。
切断されたメガテリオンの首が、ずるりと新しく生えてきたからだ。
まるでトカゲの尻尾。あるいはタコの足。
だが、首が新しく生えてくる、という生き物としてありえべかざる現象は、本能的なおぞましさを喚起した。
「――《耳あるものは聞くがいい》」
メガテリオンの声とは別に、どこからか巨大な声が響いてくる。
「《捕らわれるべき者は捕らわれる。殺されるべき者は殺される。ここに要するは、聖なる者たちの忍耐と信仰である》」
そのとき、メガテリオンが浸かった天上の海が、真っ赤に変色した。
それは、もはや水ではない。
かといって血でもない。
液体ではなくなっていた。眩しいほどに輝き、触れずして熱を感じるそれは、全天を埋め尽くす炎の雲だった。
忍耐と信仰。
ただ、それを試すためだけに――
「《信じたまえ。崇めたまえ》」
――世界に、炎の雨が降り注ぐ。
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