第25話 一人の少女のものがたり:アンコール


 デリックは、リリヤは、呆然として目を見張った。

 あのレイヤが。

 生真面目で。控えめで。いつも二人の後ろを歩いていた、あのレイヤが。

 鳴り響く天使の歌声にさえ負けないような、大音声を放ったのだ。


「世界の誰もが、あなたを見ていなくたって!! 世界の誰もが、あなたの名前を知らなくたって!! わたしだけは!! わたしだけは、あなたのことを知っているッ!!! あなたがどうやって生きてきたのか!! 何を求めて苦しんでいたのかっ!! わたしだけは知っているっっっ!!!!!」


 喉よ裂けよとばかりに、唾を飛ばして、涙を流して、レイヤは叫び続ける。


「だから!!! こんなところで、こんな風に終わらないでっ!!! あなたの、あなたにとってのエンディングを、わたしに見せて――――っ!!!!」


 ずっと身体を乗っ取られていたはずのレイヤが、どういう経緯の果て、そう叫んだのかはわからない。

 ああ、どうせすべてを察せはしないのだろう。デリックは、一番近しかった少女の想いに1000年も気付けなかった、神話級の鈍感なのだから。


 それでも、わかることはあった。

 レイヤのアンコールは、確かに、彼女に届いたのだと。


「――《一部権限委任者による妨害を確認。負荷タスク増大。プロセスに遅延が発生》」


 重圧が、弱まったのだ。

 魂を引き剥がし、自我を吹き飛ばそうとしていた天使の歌声が、急速に小さくなったのだ。


(……戦ってるんだな、ペイルライダー……)


 あの強大な存在の中で――たった一人の少女が、戦っている。

 だったら、こんなところで這いつくばっている場合か?

 旧知の仲間が戦っているのを、指を咥えて見ている場合か?


「……頑張ったな、レイヤ」


 ぐったりと疲れ果てたレイヤの頭を強めに撫でる。

 すると、横からリリヤの手が伸びてきて、倣うようにレイヤの銀髪を指で梳かした。


「あとは、私たちに任せなさい」


 レイヤは安心したように微笑む。

 彼女を床に寝かせると、デリックたちは立ち上がった。


「――《妨害継続。二重権限による処理遅延増大。これ以上の放置はプロセス完遂に大きな影響を及ぼすと判定する》」


 脳に突き刺さる神の声が、冷たく告げる。


「――《遅延を取り除くため、一部権限委任者の抹消を開始する》」


 ……ああ、使うだけ使って放り捨てるか。

 それが効率的。

 それが合理的。

 だったら好きにするがいい。


「でもな――それじゃあ義妹いもうとが悲しむんだよ」


 デリック・バーネットは空を見上げる。


「可愛い妹のためなら、私たちは神だって敵に回すわ」


 リリヤ・エクルース・フルメヴァーラは天を見据える。


「――それに、どこぞの女を泣いて謝らせる前に世界に終わられると困るしな」

「――それと、どこぞの男に靴を舐めさせる前に世界に終わられると困るしね?」


 二人は一瞬だけ視線を交錯させ、ハッと鼻で笑い合った。

 一片のガラスもない窓の外には、未だ無数の妖精が踊っている。

 ペイルライダーの仕込みによって集まった濃密な魔力が、神霊を顕現させてなお有り余っているのだ。


 これだけあれば充分だ。

《轟き砕く雷天のゼウス》の、《舞い踊る風天のエンリル》の、本領を発揮するには十二分だ。


「さて――そんじゃ」

「神々の戦いと洒落込みましょうか?」


 不倶戴天の許嫁たちが、同時にその口を開く。

 紡がれるのは、魔神じぶんに捧げる呪文うただった。


「――《一振り、雷火が空を引きずり》」

「――《一踏み、嵐が大地を舞わせる》」


 天望回廊に満ちる、二人の魔神の古の歌。


「――《天に轟く宇宙の玉座》」

「――《地に眩い光輝の祭壇》」

「――《母なる泉の一滴を浴び》」

「――《父なる星の一かけを食む》」


 競うように重なり、連なり、絡み合う二つの歌は、まるで一つのデュエットだった。


「――《我が身に宿すは第三の雫》」

「――《我が身に宿すは第四の雫》」


「「――《捧げた名におき命を下す》!!」」


 声を重ならせながら、デリックとリリヤは虚空に身を躍らせた。

 地上452メートル。寒風吹きすさぶ致命領域。人がいてはいけない空間。

 濃密な魔力が生み出した妖精だけが、二人を踊って歓待した。

 それは、まるで凱旋である。王の帰還を音楽隊が歓迎するように、神の降臨を妖精たちが言祝ぐのだ――


 ――いでよ、いでよ、ガイアの雫。

 ――我らの母よ、その指先に触れさせたまえ。




「「――――《神霊顕現アドミニストレーション》――――!!」」




 閃光が奔った。

 それは星の誕生、あるいは終焉。宇宙の彼方でしか見ること叶わぬ神域の光景。

 だから常人の目には純白として映る。可聴域を超えた超音波が知覚されないように、あらゆる只人の目にとって、それは白塗りの空間でしかないのだ。

 しかし。

 数十億とひしめく人類のごく一部。極めて優れた感性の持ち主には、きっとインスピレーションとして理解できるはずだ。神経学的知覚能力を超えた霊感でもって、彼らの在りようを捉えるはずだ。


 光の彼方に立つ、二人の魔神の姿を。


 魔力で編まれた翼が、地の果てまで広がっている。翼の先を探そうとしても無駄なこと。半透明に透き通るそれは、惑星を半周して余りあった。

 デリックの手には雷霆の剣。絶えず唸り声をあげ、天界の憤怒を示す。

 リリヤの手には粘土板タブレット。その字をまかり間違って人が読めば、大いなる畏怖でもって自我を破壊されることだろう。

 二人を包む激しい光輝は、超次元の情報量が野放図に撒き散るのを防ぐ慈悲でもある。ハーピィの言葉が研究者の才能を壊したように、神の姿は浮き世には刺激が強すぎるのだ。


 二人の魔神は、戦意をもって頭上を仰ぐ。

 そこに立つのは、一柱の神霊。


 魔力の翼を羽ばたくと、人智を超越した風が世界の隅々に吹き渡った。

 それは肌に感じることはできない。髪を靡かせることもない。

 ただ、一握りの人々の霊感を激しく揺さぶるのみ。


 ある画家は、後に国宝となる絵画を思い描いた。

 ある詩人は、鳥も聞き惚れる詩歌を心に奏でた。

 ある作家は、万人を魅了する物語を記し始めた。


 その風を。その羽ばたきを。やがて彼ら芸術家が、霊感のままに描き出すだろう。

 彼らの狂気めいたインスピレーションだけが、今の二人の姿を知覚可能な形に翻訳しうるのである。


 エドセトア・タワー――666メートルにもなる霊波塔の、さらに上空。

 長く長く伸びたアンテナの先で、二人の魔神が、完全な顕現を果たした神霊の前に立つ。

 神話の再現たるその光景の中で――しかし飽くまでも、デリック・バーネットは少年らしく不敵に笑っていた。


「安心しろよ、喝采の先約はできた」


 神王の冠を頭に戴き、それでもリリヤ・エクルース・フルメヴァーラは少女らしくしたたかに微笑んだ。


「さあ、立ちなさい――あなたの舞台に、あなたの足で!」


 対峙するのは神話の住人。

 ガイアの雫たる神霊の三柱。

 しかして、少年と少女が高らかに告げる。

 たった一人の少女に、彼女のものがたりの開演を。


「「――――お前の出番だ、ペイルライダー!!」」

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