第23話 平等で幸福な不幸


 フロア350から、フロア410へ。

 60メートルにもなるエレベーター・シャフトを、ケージが怖くなるほどのスピードで登っている。

 シースルーの天井越しにシャフトの終点が見えた。フロア410、天望回廊。一般の人間が入れる範囲では、エドセトア・タワーの最高層に当たる。

 そこに、一人の少女がいるのだ。

 1000年前に袂を分かち、死別さえ乗り越えて再会した、たった7人の同類のひとり。

 雨音の響く洞窟で出会い、いくつもの冒険を、危機を、戦いを乗り越えてきた、たった7人の仲間のひとり。

 そして――


「……昔ね」


 ぽつりと。

 独り言のように、隣のリリヤが呟いた。


「小鳥を助けたことがあるの。お城の庭で倒れてた、一羽の小鳥」


 ああ、とデリックは相槌を打つ。


「その小鳥は、自分なんていなくなってしまえばいい、って言ってた。自分なんて必要ないんだ、って。私、なんだか、他人と思えなくて……。だって、私も、ずっとお城の中で、何かの役に立ったことなんてなかったんだもの」

「その小鳥は……どうなったんだ?」

「傷を治して、自分だけで飛べるように練習させてあげた。どれだけかかったか忘れてしまったけれど、いつしか彼女は飛べるようになって、一人で外の世界に飛び立っていった……」


 リリヤは瞳の輝きを揺らしながら、あてどもなく透けた天井を見上げる。

 きっと、彼女が見上げる先には、在りし日の『小鳥』の姿が映っているのだろう。

 だったら、その瞳に過ぎるのは寂しさだろうか。

 いいや……違う。

 彼女は、羨ましかったのだ。

 自らの翼で空を飛ぶ『小鳥』が、途方もなく羨ましかったのだ。


「……オレもさ」


 返すように、デリックも語る。


「昔、一人の女の子に出会ったんだ。羽根があって、血塗れなのに綺麗で……最初は、天使か何かだと本気で思った」


 リリヤは視線を動かさず、続きを待った。


「治療魔術がうまくてさ……世界中を旅してる、いわゆる辻治療師ヒーラーってやつだった。真面目で、ひたむきな子で……オレにもよく懐いてくれてさ。妹とも仲がよかったっけ……」

「可愛かった?」

「お前よりはな」


 リリヤとは正反対の女の子だった。

 デリックがどんな冗談を言っても真に受けてしまうし、どんな無茶を頼んでも散々難しい顔をした挙句に請け負ってくれる。だから思わず、あれもこれもと甘えてしまうような……そうだ、どこかレイヤに似た雰囲気のある女の子だった。

 リリヤがちらりとこちらを見る。


「……どうなったの? その子とは」

「どうにもならなかったさ」


 少しの痛みを胸に感じながら、口の端に自嘲を滲ませた。


「お前との殺し合いが始まって、うやむやのまま……それっきり。オレのことなんかとっくに忘れて好きにやってるもんだと、そう思ってた……。いや、思いたかったんだろうな」


 自分はもう、世界に一人っきり――いいや、リリヤと二人っきりなのだと、そう思いたかったのだろう。

 そうして、自分のしたことから目を逸らしていた。

 負うべき義務を放り出して、見るべきものを見ていない事実から、逃げていたのだ。

 ……彼女のことも、その中の一つだった。


 くすっ、とリリヤは小さく笑う。

 それはからかうような響きで、デリックは少しだけむっとした。

 いつもならすぐに口から飛び出す文句は、今ばかりは出てこない。

 デリック自身が、自分の不甲斐なさを一番わかっていたから。


 思い返せば、答えは当たり前のように出る。

 彼女が、本当に怒っていることはなんなのか。

 彼女が、本当に求めていたことはなんなのか。

 そこはやはり女同士で、リリヤにはだいぶ前からわかっていたのだろう。

 ……まさか自分が、こんなに鈍感な奴だったとは……人生を二度も繰り返したくせに、今、初めて気が付いた。


「……ケリを、つけないとね」

「ああ、終わらせようぜ――1000年は、さすがに長すぎた」



『――フロア410、天望回廊です――』



 アナウンスがケージ内に響き、扉がひとりでに開いた。

 途端、広がったのは、高度410メートルの夕景だった。

 灰色のビル群。青々と輝く自然。ギラギラと光るネオン。デコボコな家々。無機質な街並み。

 ステンドグラスのように色が入り乱れた街が……今だけは、夕焼けの赤色に染め上げられていた。


 円弧を描くようにして、緩やかなスロープが伸びている。

 二人は絶景を横目にしながら、それを静かに登った。

 途中、カラス型の精霊やオオカミ型の精霊が、何匹も群れて行く手を塞いだ。

 しかし、そのどれもが、吹けば散るような弱々しさ。デリックの雷に、リリヤの風に、抗するほどの力はない。

 ペイルライダーのエネルギー源はレイヤの体内魔力である。それが尽きかけているのだ……。


 デリックとリリヤの足は、一時として止まることがなかった。

 円弧を描くスロープの、頂点に達する。

 エドセトア・タワー最高到達点。

 地上452メートル。

 ――彼女は、そこにいた。


「……はあっ……はあっ……!」


 肩を大きく上下させながら、手負いの獣めいた目がデリックたちを睨みつける。

 彼女の顔は、夕焼けよりもなお色濃く、赤く上気していた。

 急性魔力欠乏症。

 体内魔力を使いすぎたのだ――魔力欠乏に伴う高熱が、彼女の身体を蝕んでいる。


「……あと……」


 柵を掴んだ手が震えている。

 今にも崩れようとする足をそれでも突っ張りながら、ペイルライダーは息も絶え絶えに呟いた。


「あと、5分っ……!」


 細い腕が乱暴に振るわれて、破砕音が木霊した。

 手に握られていた工具が、ガラスをしたたかに打ち破ったのだ。

 高度452メートルの風が急速に入り込んだ。辺りの気温がぐんぐん下がり、同時、屋内の空気が外に吐き出される。


 銀の髪が、暴れるように靡いていた。

 破れた窓ガラスを背に、ペイルライダーが――レイヤの身体が、振り返る。

 彼女が立っているのは、あの世とこの世の境界だ。

 すでにその足は、落下防止の柵を越えている。……もはやひとつとして、彼女があちら側に一歩踏み出すことを、止めるものはない。


「おい! よせっ――」

「来ないでっ!!」


 絶叫めいた声が、駆け寄ろうとしたデリックを縛った。

 リリヤもまた、鎖に絡め取られたように動きを止める。

 ペイルライダーは唇を歪めた。

 面白い見世物を見たような、愉悦めいた笑みだった。


「そうよ……。お利口さんね? 1000年前にあんなバカなことをした二人とは思えないくらい――一歩でも動いてみなさいな。レイヤの身体は452メートル下まで真っ逆さま……」

「……そんなことをして、何になるの?」


 静かに、リリヤが問う。

 実の妹を人質に取られながら、それでも、抑えた声で続ける。


「あなたのやってることは何もかもめちゃくちゃだわ――復讐を遂げろと言いながら自ら手を出す。何の関係もない他の人にも危害を加える。挙げ句の果てには大量殺戮? それじゃあ、あなたが非難した私たちとまったく同じだってわかってるでしょう?」

「……響かないわ。まったく響かない」


 吹き込む強風に揺れながら、ペイルライダーは虚ろに言った。


「どれもこれも暇潰しの退屈しのぎよ――何になるかって? そんなの知らない。信念だの理念だの大義だの、そんな勇者みたいなものにはとんと持ち合わせがないの。

 は、あなたたちが泣き崩れるのを見たいだけよ。打ちひしがれて膝を屈するのが見たいだけよ。そのためなら、手段はなんだって構わない」


 くすくすくす、と少女は笑う。

 掠れて摩耗して薄くなった、残骸の笑みを浮かべる。


「さあ、早く言わせてよ。きっと、これを言うためだけに、は1000年もの時をながらえてきたんだわ。

 そう思うと、ええ、なかなかいいスパイスね? ランダムに転生したくせにちゃっかり貴族の家に生まれてたり、運命に導かれるみたいにして許嫁同士になんかなってたり、二人が二人ともお綺麗な顔をしてたり――あなたたちの恵まれっぷりも、オチのための前振りとして喜んで受け入れられる。

 ねえ、言わせてよ――『ざまあみろ』って」


 見開いた瞳は、まるで底の抜けた壺だった。

 何が入っていることもない、何か入っていたかもしれない、ただの空洞。


「そうしたら、きっと本当の笑い方が思い出せる。あなたたちをひざまずかせて、泣き喚かせて、許しを乞わせて! そうしてやっと笑いが込み上げる! 勝利の笑いが! 嘲りの笑いが! きっとそれがにとって、最高の大団円なのよッ!!」


 笑っているようで笑っていない。

 それは繕ったものなのだ。笑顔を忘れた彼女が、それでもと継ぎ接ぎした何か。


「人の不幸は蜜の味。人は不幸をこそ娯楽にするの! 目的に届かなかった瞬間。願いが叶わなかった瞬間。人が挫折する瞬間っ! 自分には届き得なかったものに届こうとしていた人間が、一気に自分と同じ場所まで転がり落ちたそのときの、得も言われぬ魅力……!! それだけが万人向けの、最高のエンターテインメントッ!!

 だからあなたたちもそうならなければならない……! 敗北を知って、挫折をして、現実を知って、またひとつ大人に近付いて! 求められているのはそういうモノよ! 天才どもが順風満帆に周りを足蹴にするだけの駄作なんて、どこの誰が喜ぶものかッ!!

 ああ……! もう楽しみで楽しみで仕方がない! その余裕ぶった顔が、見下した目が、卑屈で卑近なそれに歪む……!! ああ、ああ、ああ! 想像しただけでどうにかなってしまいそう!!

 さあ時間がないわ? ツケを払いなさい。運命に恵まれてきたツケを、ここで払えッえぇえぇえええぇえええええええぇぇっ!!!!」


 吹きすさぶ風に混じった咆哮は、きっと、ペイルライダーの本音に最も近いものだった。

 だからこそ……響かない。

 散々、彼女自身が言ったように……デリックの胸には、響かない。


 あまりにも、悲しいことだった。

 彼女の本音に、デリックは、おそらくリリヤも、少しも共感することができない。

 だって、彼女の言うことはめちゃくちゃだ。

 自分が不幸だったのだから他の人間にも不幸になれ、と……そんな風に迫る人間に、共感も同調もできはしない。

 理解はできたとしても……いいや、できるからこそ、悲しかった。


 彼女が見ず知らずの人間だったなら、きっと怒っただろう。

 自分勝手なこと言ってんじゃねえ、と怒鳴りつけただろう。

 それがこんなにも悲しいのは……デリックの中に、彼女への気持ちが、1000年を経てもまだ残っていたことの……何よりもの、証左だった……。


「……ペイルライダー」


 意を決したように踏み出したのは、リリヤだった。


「きっと、わかっているんだろうけど。……それでも、言う。私の口からあなたに、を教えてあげる」

「……敗、因? ……何を?」


 ペイルライダーは瞬きひとつしないまま、くっと口角を上げる。

 やめろ、と叫ぶことはできなかった。

 これは、本来はデリックがやるべきことだ。

 それを、リリヤが代行しようとしているのだ。

 ならば……デリックにだけは、止める権利がない。


「あなたが負けたのはね、私たちが運命に愛された特別な存在だからじゃない」


 ペイルライダーの唇が震えた。




「――あなたが、好きな男にアプローチの一つもできないビビりだったからよ」




「…………ッあ」


 何かが壊れる音がした。

 凍ったように固まったペイルライダーの表情の奥で、要石のような何かが、バギンと呆気なく砕け散った。

 震える手が、ゆっくりと持ち上がる。

 頬に、こめかみに……白く綺麗な肌に自らの爪を突き立てる。

 少女の身体が、まるで幽鬼のように、452メートルの崖際でふらふらと揺れた。


「あ……! ああ。ああぁあぁあああ! ああぁあぁあぁあぁぁぁあああああああぁッ!!!」


 不安定な抑揚を帯びた絶叫が響き、魔力の嵐が吹き荒れた。

 不吉なカラスが宙を舞う。

 獰猛なオオカミが唸り声を上げる。

 薄汚いネズミが床を埋め尽くす。

 それらの牙に、爪に、一瞬でも触れれば、瞬く間に病魔に冒されたことだろう。

 しかし。


「……これで、魔力は出し尽くさせた」


 リリヤの視線は、遙か窓の外にあった。


「もう大丈夫! 来なさいっ!!」



 ――黒い影がガラスを突き破った。



 瞬間、デリックは示し合わせていたかのように唱える。


「ヴォルトガ弐式、電磁石コイルモード」


 ヴォルトガ弐式が発した磁力が、黒い影を捕らえた。

 それは、一機のドローンだった。

 通信販売の配達などに使われるタイプのそれには、たったひとつの、小さなメモリスティックだけが積載されている。


「……間に合ったぜ、ペイルライダー」

「…………あ…………」


 磁力で引き寄せたドローンからメモリスティックを手に取り、ヴォルトガ弐式の端子に挿入した。

 インストールは一瞬だった。

 メモリスティックに記録されていたのは、とあるマギグラム――


「オレたちみたいに、前世の記憶なんか持ってない、魔神の力なんか持ってない、勇者でもなければ魔王でもない、運命になんか愛されてない人間が―――」


 マーディーとアンニカだけでは、きっと無理だった。

 名前も知らない、顔も知らない、幾人もの協力があってこそ成し得たことだろう。

 だからこそ、残酷だった。

 それでも明白に、デリックは突きつけるのだ。


「―――魔神おまえを倒すぜ、ペイルライダー」


 これは、救いではない。

 終わるべき時に終わりきれなかった人間に、爛れたかさぶたを剥がすかのごとく与えられる、冷徹で、無慈悲な――引導。


「――あ、あ、あ……」


 だから、始まるのは恐慌の悲鳴ではなく。


「ああぁ……!! あぁあああぁ……っ!! ああああああああああああああああ!!」


 ――今際の際の、断末魔だった。

 ぼろぼろと涙をこぼしながらくずおれる……それはもはや、残骸だ。1秒の未来すらありはしない、終わりきったスクラップだ。

 最後に残ったそれを片付けるために……デリックは一歩一歩、彼女に近付いてゆく。


「なんで――なんで――なんで――なんでこんなことになったの……? なんでぇぇぇ……!!」


 心を、凍らせる。

 それでも、瞼は閉じなかった。

 彼女のその姿を、誰よりも見なければならないのが、自分だと思った……。


「××が……! ××が先だった! ××が先に、■■■くんと出会ったのに!!」


 神霊に名を捧げた二人は、もはや名前を呼び合うこともできない。


「どうして、そんな奴っ……!! 何もかも終わった後に出てきた、そんな奴がぁぁ……っ!!」


 泣きながら睨んだ仇敵は、なのに神妙に黙っている。


「あんな、最悪の出会い方だったのに……! 憎み合ってたのに、殺し合ってたのに!! なんで××に、××には見向きもしないで、そんなっ、そんな奴と婚約なんかするのおおおおおっ……!!!」


 偶然だと。

 そう答えるのは、きっと彼女にとっては最悪だった。

 なぜならそれは、言い換えれば――


「――どうして、そんな運命が! よりにもよってそいつに向くのっ、馬鹿あああああああああああああああああああああああっっ!!!!」


 それは……ついぞ運命に恵まれなかった少女の、人生初めての告白だった。

 1000年ものあいだ胸の奥に封じられた、世界に対する恨み節だった。

 正義はない。

 大義はない。

 信念はない。

 擁護すべき名分は、一片もありはしなかった。


 彼女が吐きだしたのは、残酷なまでに無価値で――

 どれだけ身を切っても、血を吐いても、誰に認められることもない平凡な――


 ――負け犬の遠吠えだった。


「……ッぁ……! ああ! ぁあぁあああああああああああああああああああああああ……!!!」


 嗚咽を漏らす、主役ヒロインになれなかった者の成れの果て。

 どうして、と呟き続ける彼女に何か答えるべきかと考えて、デリックはすぐに取りやめた。

 その答えは、ついさっき、リリヤが突きつけたばかりだ。

 そして、今ここにあるマギグラムが、その答えの正しさを証明する。



 ――行動しない人間に、運命がやってくることなどないのだと。



 デリックは黙ってヴォルトガ弐式を振り上げた。

 ただ泣き続ける少女に、抵抗の意思などありはしなかった。


 迸った雷撃は、千年の亡霊に打ち込む楔。

 レイヤの身体から魔神を追い出すシルバーバレット。

 電気信号に変換されたマギグラムが、少女の身体に打ち込まれる。


「…………ぁ…………」


 雷に打たれながら、少女の瞳には一人の少年が映っていた。


「………………く、…………ん………………」


 しかし――その少年の瞳に映るのは、彼女ではない別の少女。

 最後の最後に、自分自身の姿を見てもらう権利すら、彼女にはない。


 レイヤの身体がふらりと傾いだ。

 デリックはそれを優しく抱き留めた。


 引き結んだ唇を、わずかに震わせる。

 ――もはやここに、旧知の少女はいなかった。




※※※




「――ぶっはああああ~~~~~っ!! 間に合ったあああああ~~~~~~~っ!!!」


 ドローンのカメラに繋がったHMDヘッドマウントディスプレイを外して、マーディーはぐでーんと自動車の屋根に突っ伏した。

 その隣で推移を見守っていたアンニカがほっと息をつく。


「これで蔓延した黒死病も収束するんでしょうか」

「たぶんね。術者がいなくなったから。……まったくもう。締め切り設定が修羅にも程があるよ。教官でももうちょっと優しい締め切りにしてくれるのに」


 ミノーグ教官は少し離れたところで《ココ》を撫でている。

 ……どういう意図で《ペイルライダー》のことを黙っていたのかは定かではないが、今の彼は、どこか悲しげな表情だった。


「……と、いうことは……」


 アンニカが遠慮がちに、ちらと視線を下ろす。


「……そろそろ、手を離してもいいということでしょうか」

「え? あ……」


 ここは一応、感染圏のギリギリ外だが、万が一にも倒れるわけにはいかなかったので、作業中も腕を組むような形で魔力を融通してもらっていたのだ。


「いい加減、ちょっと、限界と、言いますか……」


 アンニカの顔は、それこそ風邪でも引いたように紅潮している。息も少し荒い。


「ご、ごめん……! ありがとう。もう大丈夫――だと、思う、けど……」

「……思うけど?」

「いや、そのー……いきなり全部の魔術ウイルスが機能を停止するってことは、たぶんないんじゃないかなー、みたいな……」

「…………まだわたしに裸を見せ続けろと」


 恨めしげな目がじとっと向けられた。

 他意はない。本当に他意はないのだ。一応もうしばらく様子を見たほうがいいんじゃないかと思っただけで――


「……まあでも、僕の仕事は終わったしね。いいよ、手、離しても」

「……………………」

「どしたの?」

「……いえ、別に。正直もう慣れましたし、あと少しくらいなら構いません」


 アンニカはふいっと顔を逸らすと、きゅっとマーディーの手を掴み直す。

 彼女の指の細さ、冷たさ、小ささなどが今更のように感じられて、マーディーは息を詰まらせた。


「……そ、だね。もう少しだけ、様子見ようか」

「はい……」


 アンニカの手の感触を感じながら、マーディーは空を見上げた。

 夕方もおしまいだ。空はもう、半分以上が薄青い夜の帳に覆われている。

 天高く聳えるエドセトア・タワーが、昼と夜の境界線上に立っていた。

 部分部分の外装が剥がれ落ち、まるで爆撃でもされたかのような有様だったが、その姿にこそ、戦いに生き残ったのだという実感が湧いた。

 人類滅亡だなんて、そんな荒唐無稽な未来を大真面目に心配していたのが、早くも夢のようだ。マーディーはもう一度安堵の息をついて、昼と夜とが溶け合う空を見上げる。


「……これで、一件落着―――」


 言葉の途中で、言葉を忘れた。

 頭の中身が一瞬で吹き飛んで、視界の焦点がある場所に結ばれた。


「……え……?」


 隣のアンニカも、呆然とした声を上げる。

 離れた場所にいた教官も、《ココ》を撫でる手を止めて口を半開きにした。


 エドセトア・タワーの頂点。

 長く伸びたアンテナの先。

 そこに。


「―――なんだ、あれ……?」

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