第22話-B 誰かになりたかった誰か
くたびれた雰囲気の中年准教授、チャス・ミノーグは、自分の自動車に背中を預けて、エドセトア・タワーを見上げていた。
巨大なドラゴン型の精霊が、現代的なデザインの塔に巻きついている。
『サイゴ ノ シンパン ガ ヤッテキタ』
腕の中の猫型ペットロボット――の失敗作《ココ》が不穏なことを言った。
ミノーグはその背中を優しく撫でながら、意識を記憶の中に飛ばす……。
――現代の言葉を何も喋れず、肉体も知覚能力も持たない《彼女》のために、ミノーグはまず、ボディランゲージを伝えるためのセンサー類を準備せねばならなかった。
そうして、ようやくの思いで《彼女》に伝えたのは、こんな質問だ。
『きみは 何がしたい?』
《彼女》は答えた。
『眠りたい。ただ眠っていたい』
自堕落なのではない。それは切実な願いだった。
何も考えず、何も感じず、ただ眠り続けていること――それが《彼女》の願いだったのだ。
しかし、ミノーグは《彼女》をこのまま眠らせておくには惜しいと思った。もちろん、研究者としての知的好奇心から。……そして、ほんの少しではあるものの、教育者の端くれとしての直感から。
ミノーグは彼女と様々な会話をし、様々な仕事を与え、様々なことを教えてみた。
そのうち、《彼女》が最も興味を示したのが医療――人を治し、助けることだったのである。
……《彼女》は、自らの手で人を救うことを何よりも望んでいた。
そう……それは望みだ。
好みではない。義務感でもない。
渇望である。
決して誰かのためではなく、自分自身のために。……《彼女》は、人を救うことを欲していたのだ。
一度だけ、その理由を訊いたことがある。
《彼女》は言葉少なに、一言こう答えた。
『誰かになりたかったから』
なりたいから、ではなく。
なりたかった、と。
そう答えた彼女は、ひどく虚ろに見えた。表情なんてないのに、顔なんて見えないのに、無機質なデジタル文字が、それでも空虚に見えた。
自然と、ミノーグはこう思った。
――《彼女》は、残骸なのだ。
ミノーグ自身と同じように。世の多くの大人と同じように。
なりたい何かになれなかった、残骸だ。
「……そういう大人を作らないようにするのが、教師の仕事なんだろうけどね……」
腕の中のロボットを撫でる。……分不相応にも《彼女》に追いつこうとした、これも残骸だ。
「……ぼくには荷が重かったよ。だから……」
遙か450メートル。
エドセトア・タワーの天望回廊に向けて、ミノーグは問いを投げる。
……足音が聞こえてきた。
二人分の、生徒の足音である。
どうやら彼らは、課題をクリアしたらしい……。
「……及第点をあげないとなあ。これでも一応、教官だから」
※※※
ああ、考えてみれば辻褄が合う。
病院のレポートにも『外部研究者』の存在がきちんと記されていた。
――『なぜかと言えば、"PALERIDER"とコミュニケーションができる研究者が現れたからだ。彼は優秀ながらも自尊心に乏しく、でありながら不屈の精神を持つ希有な人材だった。"PALERIDER"の研究は外部の研究者であった彼にアウトソーシングされた。』
《ペイルライダー》は、神代の出自とはいえAIである。
チャス・ミノーグは、いつも抱えている猫型ロボットが示すように、AIの研究者だ。
そしてエドセトアで研究機関といえば、まず真っ先にエドセトア魔術学院が思い浮かんで然るべきだ……!
何よりマーディーが思い出すのは、デリックとリリヤが痴話喧嘩をしたあの日の朝のこと。
トークアプリが繋がらないと首を傾げるマーディーを見るなり、ミノーグ教官はこう言ったのだ。
――ああ……そのトークアプリ、今朝から使えないよ……
使えない、と。なぜはっきり断言できたのか?
使えないみたいだよ、と言わなかった理由は?
あのときはどうとも思わなかった。いや、思えるはずがない。想像できるはずがない。
まさか、当の彼自身が、その障害の犯人だったなんて!
(あのときの教官は、教官じゃなかった――《ペイルライダー》だったんだ!!)
ミノーグ教官の車は、マーディーが降りたときと同じ場所に停まったままだった。
そして教官本人は、車のドアに背中をもたせかけている。
「教官……!」
マーディーたちを見ると、チャス・ミノーグは薄く笑った。
瞬間、なぜだろう――胸に、何かが突き刺さったように感じる。
悲しいわけでもない。寂しいわけでもない。……見慣れたくたびれた表情に、いつもとは違うものが、混ざっている気がする……。
彼はポケットから1枚のSDカードを取り出した。
「きみたちの欲しがっているものだよ……」
ミノーグ教官はSDカードを指で摘まみ、マーディーたちに差し出してきた。
反射的に手を伸ばしながら、混乱する。
まるでマーディーとアンニカがやってくるのを待っていたみたいだ。
……彼は、神代のAIに操られていた。そのはずだ。
だが、その表情は、あたかも彼自身が《ペイルライダー》に協力していたかのような――
「ぼくの事情を聞いている場合でもないだろう……?」
教官の顔を見上げると、彼は遥かエドセトア・タワーに視線を向けていた。
「急ぎなさい。《彼女》は、止められない限り止まらない……」
「は……はいっ!!」
気を取られている場合じゃない。
受け取ったSDカードを急いで自分の
「うっ……!?」
マーディーは顔をしかめた。
おそらくは人体操作魔術のマギグラム・コード。それは間違いない。
だが、暗号化されていた。
まず解読しなければ――
「くそっ! せめて暗号キーがあれば……!」
「ああ、それも同梱しておいたよ……」
ミノーグ教官がさらりと言って、マーディーは「えっ!?」と振り向いた。
教官は猫ロボットの《ココ》を撫でながら言う。
「さすがのきみでも、《彼女》の暗号を解くには10年足りないだろう。……非才の身でも、歳を経れば多少はやれることが増えるものさ」
遠くで、巨大なドラゴンの精霊がじたばたと落下していた。
「車の後部座席にパソコンとドローンがある。……そこから先は、自力で頑張りたまえ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます