第11話 全部できるようになる方法
キイイィィィ……と、ドアが開いた。
暗い廊下から顔を覗かせたのは、もう二度と見たくなかった顔。
屍体精霊ネクロキメラ。
マウンテンゴリラの胴体に8本もの人間の腕、そして頭部はヒグマのそれという、異形としか呼びようのない姿の怪物。
骨の通っていないぶよぶよした身体を戸口に押し込み、ネクロキメラは第二精霊管理室に侵入してくる。
マーディーは右を見て左を見てもう一度右を見て、絶望的な状況を認識した。
「に、逃げ場が……!」
「もう一度吹き飛ばして――!」
ビュウッ、と。
意外なほどのスピードで、ネクロキメラの腕の1本が伸びる。
以前のように
「きゃっ……!?」
アンニカは仰向けに転倒する。ずるり、とネクロキメラに引き寄せられそうになるが、床に手を突いて身体を支えた。
「うっ……! くうっ……!」
しかしそれでも、ずり、ずり、とアンニカの身体が滑っていく。
いつもは冷然としたアンニカの顔が、苦悶に歪んだ。
「あうっ……ぐ、うぅううっ……!!」
恐怖なのか、痛みなのか。両目から大粒の涙を零しながら、彼女は歯を食いしばって身体を支えようとする。
それでもネクロキメラの膂力が優っていた。あの化け物の懐にアンニカが収まってしまうまで、あと何秒もかからない。
「……っあ……!?」
マーディーは自分の手が、足が、ぶるぶると震えていることを、ようやく認識した。
(び……ビビってる場合じゃないだろおッ!!)
心の中で叫ぶ。震えを握り潰し、膝をしたたかに叩く。
そして、傍に立てかけてあった消防斧を手に取った。
「うっ……あぁあああああああああああッ!!!」
勇ましいとはとても言えない喚き声を迸らせて、両手で握った消防斧を、アンニカの足首を掴んだ腕に振り下ろす。
思ったより手応えがなかった。
ネクロキメラの腕は、あっさり切断された。
アンニカが自由になる。ネクロキメラが切られた腕を引っ込める。
そして、切断面から新しい腕を生やした。
(さ……再生能力っ……!?)
マーディーは数瞬だけ思考した。今この場で自分にできることは何か。冷静に現実的に総合的に判断して、
「このおッ!!」
両手に握った消防斧を、ネクロキメラに投げつけた。
マウンテンゴリラの厚い胸板に刃が深々と食い込む。血飛沫は出なかった。悲鳴もなかった。ネクロキメラは無音で、ただ少しだけ仰け反った。
「今のうち!」
「は、はい……!」
アンニカの手を引いて立ち上がらせ、一目散に走り出す。
胸を深々と抉られたネクロキメラは、まだ平然ともぞもぞ蠢いている。だがその動きは遅い。方向を変えてくる前に、思い切ってすぐ横を通り抜けた。
第二精霊管理室を飛び出す。
廊下を走る二人を、何本もの腕が追ってきた。しかしそれらは二人の背中に届く寸前に、ビンッと張り詰めて失速する。どうやら伸縮距離には限界があるらしい。
廊下の角をいくつか曲がったところで、いったん足を止めた。
乱れた息を整える。ずっと走っていたって絶対に逃げきれない。いたずらに体力を失うだけだ。
ぞる、ぞる、と音が聞こえる。そうだ、気配を感じ取れる距離をキープすべきだ。そのほうが下手に遠ざかるより安全になる。
「……見捨てて逃げる手も、あったでしょう」
手を繋ぎっぱなしのアンニカが、こちらを見上げながらぽつりと言った。
「斧なんて、持ったこともないくせに……こんなに怯えて、震えているくせに」
彼女と握り合ったマーディーの手は、まだぶるぶると震えていた。
はは、と自嘲的に笑う。
握り潰したと思ったが、そう簡単にはいかないらしい。
「……見捨てて逃げるなんて、ありえなかったよ」
息を整えてから、マーディーはぎゅっとアンニカの手を握った。
「確かに、斧なんて触ったこともない。手も足もみっともなく震えてて、まともに動くかもわからなかった。
――それでも、僕にできることがあると思ったんだ。だったら、それをやらずに逃げるなんてこと、するわけにはいかない」
「それは……デリック様の教えですか?」
「そうだよ。自分にできることをやればいい――デリックさんがそう言ってくれたおかげで、僕は救われた。魔術学院の落ちこぼれっていう烙印に、潰されないでいられたんだ……」
マーディーは生まれつき、体内魔力の少ない人間だった。
あからさまに魔術師には不向き。しかし諦めず、憧れだけでひたすらに勉強し、エドセトア魔術学院に入学した。
そして、現実を思い知らされた。
どれだけ筆記の成績がよくても、魔術学院では実技が伴わなければ意味がない。
実力主義の学内では、まともに魔術ひとつ使えないマーディーなど虫けらのようなものだった。
――お前にはできない。
入学前、両親に散々言われ続けたことを、今度は結果という形で見せつけられた。
それまで、マーディーは自分の諦めの悪さを強みだと思っていた。諦めずに努力すれば、きっと欲しいものに手が届くはずだと。
しかし、この頃にようやく気がついたのだ。
自分のそれは、諦めの悪さなんかじゃない。現実を受け止められない弱さでしかなかったのだと。
努力をして欲しいものを手にできるのは、元より恵まれた特別な人間だけだったのだと。
――お前にはできない。
そんなことはない、と答え続けてきた。
正しいのは自分だと。できると信じる自分こそが正しくて、周りの人間はただ他人を否定したいだけなのだと、そう思い続けてきた。
それが……このとき初めて、そうかもしれない、と思うようになったのだ。
そんなときだった。
デリックが現れて、こう告げたのは。
――できるできねえじゃねえよ。自分にできることをやれば全部できるんだよ、ドアホ。
その言葉が、全身を雁字搦めにしていた鎖を壊したのだ。
それからマーディーは、元より得意だった魔術理論の方面に的を絞り、見事に落ちこぼれを脱出した。
「だからこれからも、僕は自分にできることをする。そう決めてるんだ」
「……でも、もし、できないことをやらなくてはならなくなったら?」
「それもデリックさんが言ってたよ」
口の端を緩ませて、デリックの声真似をする。
「『そんなもん、できる奴に任せるに決まってんだろ』」
アンニカも、ほのかに口の端を緩めた。
「合理的ですね」
「うん。合理的なんだ。だから信じてる」
「信者」
「何も信じられないよりはずっといい」
もう何度目かわからない答えを返して、マーディーはネクロキメラの気配に意識を向ける。
「……ネクロキメラは化け物なんかじゃない。れっきとした魔術科学の産物だ。だとしたら――倒せない道理はない」
「ええ。論理に従えばそういうことです」
「じゃあ、君はどうする?」
「決まっているでしょう」
アンニカはピンク色の髪を翻して、意図して作ったような刺々しい声で言った。
「あなたにできないことを担当します。あんなへっぴり腰では、虫一匹殺せはしませんから」
暗い廊下をアンニカと二人で走る。
ぞる、ぞる、と引きずるような音が、背後から聞こえていた。振り向けば、廊下を塞ぐような大きな影。
「来ていますか?」
「来てるよ! スピードはこっちと同じくらい!」
「では予定通り行きます。バテないでください!」
「が、頑張る……!」
マーディーはついさっき終えたアンニカとの作戦会議を思い出した。
『ネクロキメラのデータはさっき見たばかりだ。大気中の霊子の代わりに動物の身体の霊子経を使った生体精霊』
『生体を使っているといえど、精霊ならば避け得ないものがあります』
『《
『はい。多くの精霊は神代に実在した魔物などを下敷きに組成されています。そのために、関係する伝承のイメージが設計に影響してしまう』
『つまり現実の伝承に否応なしに引っ張られる。大概のドラゴン型精霊が逆鱗を持っているみたいに』
『まさにドラゴンが好例ですが、
『心当たりはある?』
『……あります』
『ほんと!?』
『ネクロキメラには腕が8本ありますよね。そしてそのすべてに骨が通っていない。この二つがキーポイントだと思います』
『腕が8本――で、骨がない? ……もしかして、タコ!?』
『正確には《ダゴン》でしょう』
『ダゴン――神代の海に住んでたっていう魔物か』
『魔物だったのか海神だったのかは諸説ありますが、伝承性質はおおよそタコのそれに準拠します。切断された腕――触腕が再生したのを見たでしょう? あれもタコの能力です』
『人間とゴリラとヒグマを材料に作ったでっかいタコってこと?』
『そう判断するのが妥当です。……だとしたら、付け入る隙はある』
『例えば?』
『蛸壺はご存じですか?』
蛸壺――話には聞いたことがある。タコを捕まえるのに使う壺状の道具だ。
「タコは外骨格を持ちません。人間が頭蓋骨で脳を守ったり、あばら骨で内臓を守ったりするようなことができない。身を守るものを何も持たないんです」
走りながら、再確認するようにアンニカが説明する。
「なので、硬いもので身体を覆って守ろうとする習性がある。それを利用したのが蛸壺です」
「狭い場所に入っちゃえば、むしろ柔らかい身体がメリットになるってことか」
「はい。おそらくネクロキメラにも同じ性質があります。普段は通風口辺りを住処にしていたのでしょうが――」
「もうひとつあったね――あいつが巣にできそうな蛸壺が!」
「そろそろ着きます!」
その合図でマーディーが前に出た。
アンニカが振り返り、風の精霊でネクロキメラを攻撃し始める。
いくら傷付けたところで再生してしまうので致命傷にはならない。これは時間稼ぎだ。マーディーがロックを解除するまでの。
「頼む……! 単純なやつであってくれ……!」
それの前にしゃがみ込むと、自前の
アンニカがピッキング用の工具を持ち歩いているように、実はマーディーもブラウニーの中に霊子ロックをハッキングする用のソフトを入れていた。
(――よし。よし、よし! これならなんとか――)
「うっ……!?」
頭がくらっとした。
しまった――魔力不足!
ハッキングソフトを動かすのはブラウニーだが、そのエネルギー源はマーディーの魔力なのだ。
「世話が焼けますね……!」
その様子を見たアンニカがすぐに動いた。
急いで駆け寄ってくると、マーディーの手をぎゅっと握り、自分の魔力を融通してくれる。
暖かな感覚が全身を巡った。なんだかアンニカと素っ裸で抱き合っているかのような感触で、顔が熱くなってくる。
「は、早くしてください……! 恥ずかしいんですから!」
「わ、わかったっ……!」
自分の魔力を他人に流すというのは、まるで裸でも見せているような羞恥心を伴うものなのだ。
ここまでしてもらった以上ドジるわけにはいかない。マーディーは全力でハッキングソフトを走らせた。
「早くしろ……いい子だから……早く、早く……!」
ぞるぞるぞる、とネクロキメラが近付いている。
アンニカが魔力の供給に回った以上、もはや時間稼ぎはできない。
自らが組み上げたマギグラムを信じるしかなかった。計算上は間に合うはずだ。数字通りに行け。頼むから……!
――ぞるぞる、ぞる……。
――ビュウッ。
8本の腕が伸びた。
――と同時に、ハッキングによるアンロックが完了した。
「伏せてっ!!」
アンニカに押し倒される。
直前まで頭があった場所を、8本の触腕が通り過ぎた。
まだだ。まだ安心するには早い……!
「えいっ!」
足で解錠した蓋を蹴り上げた。
ガゴンッと黒々とした口が開くや、二人は床を這いずるようにしてその場を離れる。
「仕上げです……!」
触腕が届かない位置まで離れると、アンニカがありったけの魔力を詰め込んだ
真っ暗な廊下を、風の塊が轟然と突き進む。
ボウンッ、とネクロキメラの全身がたわんだ。
ゴリラの胴体が中身のないペットボトルのようにベコベコになって、各部に穴が開く。
きっと、これほどの傷でも、しばらく経てば回復してしまうのだろう。
だが、その『しばらく』がネクロキメラには必要なはずだ。
回復を待つために、安全な場所に隠れたくなるはずだ……!
そして、おあつらえ向きの場所が、すぐ傍にあった。
今し方、マーディーが開放したばかりの――
――ダストシュート。
精神科病棟に入ったばかりの頃、アンニカがこの中を探そうとしたのを思い出したのだ。
ダストシュートの行き先は、遙か地上にあるゴミ溜めだ。
高さは何メートルもある。触腕をいくら伸ばしても届かないし――
「……生体精霊であればこその、致命的な弱点だね」
「ええ。普通の精霊であれば、こんな歪さは生じ得なかった」
いそいそとダストシュートの中に入っていくネクロキメラを眺めながら、マーディーが、アンニカが、突きつけるように告げた。
「「――人間の腕に吸盤はない」」
しゅるっと、吸い込まれたようにネクロキメラの姿が消えた。
数瞬して、ボウンッと、柔らかく重い何かが落ちる音が聞こえてくる。
もしネクロキメラが生体精霊ではなかったなら、巨大なタコの姿を取っていたはずだ。その場合、触腕の吸盤を使って、ダストシュートを這い上がってくることができた。
しかし、ネクロキメラにそれはできない。
触腕に人間の腕を使ってしまったから。
下手に生き物の屍をもてあそんだことによる、決定的な弱点だった……。
「「……はあああ」」
マーディーとアンニカはまったく同時に溜め息をついて、その場にへたり込んだ。
互いに肩にもたれ合って、そのまま離れない。
繋いだ手を離すことすら、今は厭わしい。
「……死ぬかと思った」
「ふふっ」
耳元からそんな声がして、マーディーは慌てて振り向いた。
「今……笑った?」
「いえ?」
アンニカは澄ました顔でそっぽを向く。
(……むう。なんだよ。隠さなくたっていいじゃん)
ちょっと口を尖らせた。別に見たいわけではないけど、誤魔化されると気になってしまう。
「……そういえば……あれって、どういう意味なんですか?」
ふと思い出したという口振りでアンニカが言った。
「え? あれって?」
「確か吊り橋がどうとか……」
「――あ。いや、それは知らないほうが……!」
二人でベッドの下に隠れてネクロキメラをやり過ごした後の話だ。
マーディーは制止しようとしたが、その前にアンニカが精霊式ブラウニーを喚び出し、検索をかけてしまった。
「へえ。吊り橋効果……。恐怖や不安による緊張感が恋愛感情にごに、ん……――――」
声が窄むように消えていき、アンニカの顔が見る見る色づく。
釣られてマーディーの顔も熱くなってきた。
無性に消え去りたい衝動に駆られて、俯きながらふて腐れたように呟く。
「……だから知らないほうがって言ったじゃん」
「いえ、まあ、その……誤認、なんですよね?」
「誤認だよっ!」
なんだかすごくムカついて、思わず怒鳴ってしまった。
そのとき。
――ガッゴン!!
大きな音が響く。
二人は一斉に振り向いた。
音の出所は――ダストシュート。
ついさっき、ネクロキメラを落とした場所。
その縁に、大きな手が引っかかっていた。
「へ……?」
「え?」
ガゴッ! ガゴン! ガゴンッ!! と、次々にダストシュートの中から伸びてくる手は、ネクロキメラのものよりも明らかに巨大。
あれは――巨人のものだ。
しかし、徐々に見えてくる手首の先は、巨人のそれでしかなかった。
細かい毛。繊毛と言うのか。それがびっしりと生えた腕がしっかとダストシュートの縁にへばりつき、真っ暗な穴の底から巨体を持ち上げる――
(繊毛――ファンデルワールス力!)
ヤモリと同じだ。繊毛に生じる力を使えば、足がかりのない垂直な壁だって登ることができる。
ダストシュートから姿を現すもの。
その姿を完全に形容する語彙を、マーディーは持ち合わせなかった。
無数の
巨大だった。
ネクロキメラの2倍はあった――病院の廊下になど収まりきらない巨躯。それでもギチギチとダストシュートを軋ませながら、そいつは自らをひり出していく。
「――ネクロキメラ、Ⅱ――」
少し震えを帯びた声で、アンニカが呟いた。
「そうです……『Ⅱ』と書いてあった……だったら……!」
ダストシュートに落としたネクロキメラは2体目。
その前に作られた、1体目がいる……!
まさに怪物としか言いようのない圧迫感に、全身の筋肉が凍っていた。
マーディーも、アンニカも、ただ互いの手をぎゅっと握り合うことしかできなかった。
(……一人じゃなくて、よかった……)
その温もりを感じながら、マーディーは心底思う。
ウマが合わない相手だとしても……彼女がいるから、まだ安心できた。
もし一人だったらと思うと、恐ろしくてたまらない。
そっと、ほんの少しだけ、アンニカが体重をかけてきた気がした。
それに返すように、マーディーも少しだけ体重をかける。
屍体精霊ネクロキメラⅠ。
巨人の腕の一本が、ゆっくりと二人に伸ば――
雷光が弾けた。
暗い廊下が一瞬で白く染まり上がる。
ヴァヂィッ!! という身の竦む音が炸裂し、瞬間、ネクロキメラⅠの巨体が痙攣した。
マーディーとアンニカは、ただ目を見開いてそれを見上げる。
電熱に全身を焦がされた怪物は、凍ったように硬直していた。かつての圧迫感はすでになく、もはやただの石像のよう――
「――邪魔っ!!」
どこから苛立たしげな声がしたかと思うと、ドガッバン!! と、ネクロキメラⅠがいきなり天井に叩きつけられた。
そして、目を疑うべきことに。
黒い体毛に覆われた巨体が、何本もの巨人の腕が、ミキサーにかけられたかのように細切れになる。
呆然だった。
目の前の現実を、解釈しようとすることすらできなかった。
息さえできないでいるうちに、ダストシュートから新たな腕がにゅっと伸びる。
だが、その腕の正体は、今度こそ化け物ではなかった。
「――ぶはあーッ! やっと出られたあーっ!!」
「ああもう! 嫌になるわ! 髪も服も臭いったら――あら?」
ダストシュートから姿を現した二人は、マーディーとアンニカの姿を見てきょとんと首を傾げた。
汚れたスーツを着たリリヤが言う。
「あなたたち、どうしてこんなところにいるの?」
こっちの台詞だ。
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