第12話 雨音の響く洞窟
夜の病院の廊下で、リリヤはにまにま意地悪く笑った。
「へえー? ふうーん? 私たちを探しに来たんだー? 仲良く手を繋いでー? ほっほーう?」
アンニカは慌ててマーディーの手を離すと、必死に弁解を始める。
「ちっ、違います! 勘違いなさらないでください! わ、わたしは別に……!」
「いやいや、いいのよアンニカ? 私はただの雇用主だもの。プライベートには干渉しないわ? むしろ幼馴染みとして心から応援してあげる!
いや、でも、まさかマーディー君とはねー。あんなに仲悪そうだったのに、わからないものねえ」
「だから違うんです! 彼とは何にも……あなたもなんとか言ってくださいっ!」
八つ当たりの矛先を向けられて、マーディーはひえーっとデリックのほうに逃げた。
リリヤと同じく、なぜだかスーツ姿だ。ずいぶんと汚れていて、そのうえゴミ臭い。
「デリックさん……今までどうしてたんですか? っていうかなんでダストシュートの中に……?」
「あー? どうしてたかって訊かれたら、そりゃ監禁されてたって答えるしかねえわな」
「かっ、監禁……!?」
絶句するマーディーやアンニカとは対照的に、デリックとリリヤは『はーやれやれ』と軽い態度だった。
「あのクソでけえゾンビと暗闇の中で丸一日バトルだよ。どこにいるかわかんねえ上にとんでもねえ耐久力でさ。しかもダストシュートの中で繁殖してやがったんだぜ」
「ようやくあと1匹まで減らしたところで、ちっちゃい奴がぽとっと落ちてきたのよね。そのおかげで出口がわかったの」
「あれはお前らだろ? いやあ助かったぜマジで。危うくあの臭えゴミ溜めに永住する羽目になるとこだった」
「何年も使われてないダストシュートだったのが幸いだったわね。まあ、あんな暗闇でこの下半身男と二人きりっていうのには、相当に貞操の危機を感じたけれど」
「どんだけ飢えてもお前にだけは手を出さねえよ。妄想のほうがマシ」
「はっ、はあ!? あんた、この完璧なプロポーションを前によくもそんなことを!!」
二人はいつも通りぎゃあぎゃあ騒ぎ始め、マーディーは心配していたのが馬鹿らしくなってきた。
(やっぱりこの二人は別格だなあ……)
しみじみと思う。結果としては、ただ危険な目に遭っただけのような気が……。
「……あ。でも、デリックさん」
「あん?」
「結局、誰に監禁されてたんですか? 他に天見隊の人たちも病室に閉じ込められてたんスけど……」
「ああ、それはな…………」
途端、デリックは口を重くした。
リリヤのほうも目を逸らすようにして、あれだけやかましく騒いでいた口を閉ざす。
「リリヤ様?」
「……心配しないで、アンニカ。犯人については、私たちに任せて」
「ああ。お前たちは気にしなくていい」
廊下の先にわだかまる闇の向こうを見やり、デリックは独り言のように呟いた。
「これは……オレたちの問題なんだ」
※※※
熱いお湯を頭から浴びて、ゴミ溜めの匂いを洗い落としていく。
シャワーの感触を肌に感じながら、デリックは脳裏に昨日の記憶を再生した。
監視精霊の映像を見た直後、精霊管理室が閉ざされ、催眠ガスが散布されたのだ。
デリックは薄れゆく意識の中で、病院のデータベースに残された極秘レポートの一部を、電気信号として自分の脳に直接焼きつけた。
そして、その中で最も印象に残った言葉を、気付けば床に刻みつけていたのである……。
「――義兄さん」
ふと背後から声がした。
狭いシャワースペースに、他の誰かが入ってくる。
ぺた、と濡れた床を裸足で踏む音が聞こえた。
「大変だったみたいですね……。アンニカさんから聞きました。お背中お流しします」
「……レイヤ――」
デリックが何か言う前に、なめらかな肌が背中に密着した。
ふに、と、まだ控えめな膨らみの感触が、肩甲骨の少し下に押しつけられる。
それだけではない。お腹、腰、それに太股。女としての部分を余すことなくデリックにこすりつけて、レイヤは甘さを帯びた声で囁いた。
「もう、夜も遅いので。他には誰もいません」
「……………………」
「義兄さん――」
熱っぽい声で呼びながら、レイヤは背中から回した手でデリックの胸板を撫で回す。
それから、焦らすように細い指先で腹筋をなぞった。
「……レイヤ」
「義兄さん……」
「いや、違う」
デリックは下腹部に伸ばされていくレイヤの手を乱暴に掴むと、彼女の身体を横合いの壁に押さえつけた。
彼女の顔の横に手を突いて、逃げ道を塞ぐ。
湯が滴る銀色の髪。
水滴が滑り落ちていくなだらかな膨らみ。
華奢な腰に、少し不健康に思えるほど細い脚。
そして、デリックの顔を上目遣いに見上げるエメラルドの瞳――
一糸纏わぬ姿で目の前にいるのは、確かにデリックの義妹であるレイヤ・エクルース・フルメヴァーラだ。
彼女はエメラルドの瞳を下のほうに向けると、どこか残念そうに微笑んだ。
「つれないですね、義兄さん。可愛い義妹が頑張って誘惑したっていうのに」
「――オレの
確かな怒気をはらませた声を、レイヤの姿をしたそいつにぶつけた。
「お前、いつからそんな悪趣味になった? なあ――《駆け広がる病天のペイルライダー》」
レイヤは――否、レイヤの肉体を乗っ取ったペイルライダーは。
にたりと、嘲るような笑みを浮かべた。
※※※
彼女との出会いは、少々物騒だった。
当時、とある理由から世界を旅していた前世のデリック――《轟き砕く雷天のゼウス》は、突然の雨に降られて、同行者たちと共に近くの洞窟に雨宿りをした。
そして、すぐに気付いたのだ。
洞窟の奥から争いの音がする。
大気中の霊子に魔力が満ち溢れていた神代には、魔物と呼ばれる凶暴な怪物が各地に蔓延っていた。
デリックたちが雨宿りをした洞窟は、オークという魔物の住処だった。
人型に近いが、知性は低い。徒党を組み、人間の里を襲って家畜を食い散らかす。危険かつ有害な魔物だ。
魔物退治を生業とする冒険者にとっては、オークは一番の飯のタネだと言えた。
争いの音を聞いたゼウスは、これはまずい、とすぐに思った。
響いてくる鳴き声を聞くに、この洞窟にいるのは《穴蔵オーク》と呼ばれる種類だ。蟻の巣のように複雑な巣を作り、獲物を引きずり込んで狩る。
そして、争いの音は洞窟のずっと奥から聞こえた。人間のわめき声も混じっている。オーク狩りに慣れ始めて油断した冒険者が引っかかってしまったに違いない。
ゼウスは仲間を引き連れ、洞窟の奥へと急いだ。
しかし、走っている間に、人間の声もオークの声も聞こえなくなる。
間に合わなかったか、と思いながらも走り続けると、不意に光が射した。
洞窟の天井に大きな穴が空いていた。
雨雲の隙間から漏れたエンジェル・ラダーが、赤い血に濡れた洞窟を嘘のように明るく照らしていた。
その真ん中に、彼女がいたのだ。
両腕に羽根を生やした少女が、呻き声を上げる冒険者の男に治癒魔術を使っていた。
凄惨なオークの屍体に囲まれながら、綺麗な羽根が血に濡れるのも一顧だにせず、一心不乱にひとつの命を救おうとしていた。
その姿が胸を突くほど綺麗で……次の瞬間、口を突いて出た言葉を、ゼウスはよく覚えている。
――君は……天使か?
次に起こったことも、よく覚えていた。
彼女は、ハッとゼウスたちに気付くと――
かあーっと、まるでトマトみたいに、顔を真っ赤に染めたのだ。
彼女こそ、後に神霊《ペイルライダー》をその身に宿す者。
神代に名だたる7人の超級魔術師、《七天の魔神》が一柱。
――《駆け広がる病天のペイルライダー》である。
※※※
「……ずいぶんとエグいことをするようになったわね、ペイルライダー」
シャワースペースの磨りガラスの向こう側に、リリヤのシルエットが立った。
「私の記憶が正しければ、あなたは昔の知人をゴミ溜めに落としたりする人間ではなかったし、人の妹のフリをして人の婚約者を誘惑する下品な女でもなかった。1000年も経てば性格も変わるってことかしら、神代のAIさん?」
……約120年前に、ゼネラル・クリスタル・カンパニーが神代の地層から発掘したのは、情報化されたペイルライダーの魂だったのだ。
彼女が魔神として司るのは病。
すなわち病原体であり、ウイルスであり――微生物。
なぜなのかはわからないが、彼女は自分自身を微生物のごとく分解し、魂だけの状態にした。それを記録媒体に封じ、何百年もの間、地中で眠り続けていたのだ。
現代の人間からは、AIだとしか思えなかっただろう。
まさか本物の人間がメモリスティックの中で生き続けているなんて、普通は考えもしない。
「……くす。くすくす。くすくすくすくす……」
レイヤの顔をしたペイルライダーは、濡れた唇を艶然と歪ませた。
蠱惑的に――露悪的に。
「二人して言いたい放題……まるでぺいが全部悪いみたい。ねえ、ゼウス、エンリル――本当に悪いのは誰かしら?」
怪訝に眉根を寄せるデリックに、ペイルライダーは不意に、息がかかる距離まで顔を寄せた。
「ぺいが、レイヤを辱めてるって? 1000年経っても殺したいくらい鈍感なのね。それともフリをしてるだけ?」
「……なに……?」
「どうして、これがレイヤの本心だって思わないのかしら? あなたの欲望を一身に浴びてみたいって、レイヤが心の底から思っていると、どうして考えられないのかしら? 不思議ね、不思議だわ? とっても不思議……」
くすくすくす、とペイルライダーは笑う。病的に笑う。
デリックは少し混乱していた。
レイヤが、オレの……?
「ぺいはね、レイヤの代わりをしてるだけ。彼女は控えめでいい子で気が利いて、とっても損をするタイプだから、彼女が望んでいることを代わりにしてあげるの。
知っている? とっても優秀な家族を持つと、結構大変なのよ?
周囲の期待。プレッシャー。それに、どうあっても叶わない横恋慕とかね?
ぺいは、そんな彼女のストレスを発散してあげてるだけ。病院を燃やし、いろんな悪戯をして、大好きなお義兄さんを実の姉から略奪する――彼女が生まれたときから晒されてきた環境を思えば、こんなの可愛らしいものだわ?
あなたたち、考えたことはあるのかしら? 転生なんて特大のズルをした人間と比べられる苦しみを」
デリックも、リリヤも、すぐには答えることができなかった。
記憶を持ち越して転生したことで、有利に働いたことはいくらでもある。
神代での魔術の知識は現代でもいくらか通用した。他の子供よりずっと早くから勉強や訓練をすることができた……。
「レイヤは脇役に甘んじてきたのよ。本当は主役になれる素養があるのに、あなたたちが傍にいたから脇役にならざるを得なかった。
あなたたちはよかったでしょうね? 可愛い妹を好き勝手に可愛がっているだけでよかったんだもの。でも、レイヤはお人形じゃない。
そんなレイヤに、ぺいだけが寄り添ってあげられた。その代わりにね、ぺいの目的に協力してもらっているのよ」
「目的だと……?」
追いつめているのはこちらのはずだ。
そう思うのに、デリックは呻くように問い返すことしかできなかった。
ペイルライダーは薄く笑う。
「――あなたに、復讐を遂げさせること」
声は、睦言を囁くようなそれだった。
しかし、紡がれる言葉はどこまでも酷薄だった。
「そこにいる女を、エンリルを、リリヤ・エクルース・フルメヴァーラを、さっさとあなたに殺してもらうこと。
今はまだ舞台の準備中なの。なのにあなたたちが気付いてしまったから、1日だけ時間を稼がせてもらったわ?」
それが監禁の理由――デリックとリリヤを、1日だけ社会から隔離すること。
「……ふざけるなよ、ペイルライダー……!!」
ようやく、デリックは強い声を絞り出した。
「言われなくたってリリヤは殺す……! そのために魔神になった! そのために転生した! でも――」
「――だったらなんで婚約者ごっこなんてしてるの?」
冷え冷えとした眼光と声が、デリックの奥を射貫く。
「殺すんでしょう? ねえ、あの女のことが、憎くて憎くてたまらないのよね? ぺいもそうなの。あの女のせいで何もかもが狂った。あの女のせいであなたが壊れた!
なのに、ねえ! わかる!? わかるかしら、ぺいの気持ち! あなたたちが何の変哲もない学生のフリをして、イチャイチャ婚約者なんかやっているとわかったときの気持ちをッ!!」
金切り声が、シャワーの音を引き裂いた。
言葉の刃が、思いの刃が、デリックをズタズタに傷付けた。
「だから……これはお願いよ、ゼウス……」
ペイルライダーはデリックにしなだれかかる。
首に腕を回し、耳元に唇を寄せて、頭の中に流し込むように囁いた。
「……殺して。殺してよ、エンリルを。あなたの妹を殺した男の娘を――1000年前に約束したように」
すべては、1000年も前に端を発したことだった。
たとえ転生し肉体を変えても。
名前も顔も、何もかも変わっても。
因果という名の鎖は、どこまでも追いかけて離さない。
今から約1000年前。
剣と魔術と神と精霊が支配した時代。
そこには、そもそも魔神など存在せず――
――ただ、《七天の勇者》と呼ばれた人間だけが、存在していた。
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