第5話 刹那の風雷


「どぅおおわっ!?」


 間一髪だった。

 間近から撃たれた風の砲撃を、デリックは身をよじり、熱暴走で停止したヴォルトガ弐式を盾にすることでどうにかいなした。


 しかし、体勢が崩れる。

 まともに着地できなかったデリックは、三角型の校舎の屋根をごろごろ転がっていった。

 庇から投げ出されかけたところで必死に左手を伸ばし、ギリギリ、屋根の縁を掴むことに成功する。


「……ふう」


 という安堵の息をつくには、まだ早かった。

 空から舞い降りてきたリリヤが、屋根の縁にぶら下がったデリックの左手に足をかけたのだ。


「遺言は?」


 リリヤが酷薄に笑ってデリックを見下ろし、さっき自分が言われた通りの台詞を繰り返した。

 校舎は4階建て。

 屋根を掴んだ手を蹴り出されれば、10メートルを超える高さを地面まで真っ逆さまだ。ヴォルトガ弐式が沈黙した今の状態ではとても助からない。


 デリックは下からリリヤを見上げた。

 膝辺りまである改造制服のスカートが、ひらひらと風に揺れていた。

 それを見ながら言う。


「白のレース」

「…………っ!?」


 瞬間、リリヤは顔を赤くしてスカートを押さえ――直後にハッとした顔になった。


「――って、普段からそんな気合い入ったの履いてるわけないでしょ!」


 そうなんだ……、と思いながら、デリックはこの隙を最大限に利用した。

 下半身を振り子のように揺らし、屋根を掴んだ手をパッと放す。

 振り子の勢いで、校舎4階の窓に飛び込んだ。


 廊下でごろりと転がって衝撃を殺し、デリックは素早く左右を見回す。

 一刻も早くヴォルトガ弐式を冷やさなければならない。得物が熱暴走を起こしたままでは、あの元魔神の暴風女には対抗できない!

 廊下の先に水道が見えた。しめた、と思って、デリックは廊下を走り始める。


「逃がすかあっ!!」


 窓の外にリリヤが姿を現した。

《五衛精》が彼女の周囲でとある陣形を取る。

 やべっ、と声が漏れた。あの陣形は、あたかも星座のように、とある図形を描いている。幾何学式魔術言語マギグラム――広範囲攻撃魔術の魔術陣だ!


 デリックは走りながら頭を下げた。

 直後、すぐ傍の窓ガラスが砕け散った。

 走るデリックを追いかけるように、窓が割れ砕けていく。ガラスの破片が廊下に降り注いだ。そのひとつひとつがダメージに足る立派な凶器だ。全身を血塗れにされる前に、廊下を駆け抜けるしかない!


「逃がさないって……言ってるでしょ!」


 前方の窓から、長い金髪が風のように飛び込んでくるのが見えた。

 リリヤだ。彼女は廊下の真ん中に浮遊して、水道の手前に立ち塞がっていた。

《五衛精》が風撃をチャージする。照準は全弾過たずデリック。許嫁をミキサーにでもかけるつもりか!


(止まるかよ、その程度で!)


 ゴウッ! と風が唸った瞬間、デリックはスライディングした。

 頭の少し上を殺人的な豪風が通り過ぎていく。デリックはそれを見上げながら浮遊するリリヤの真下を通って、


 薄いピンクの布地を見た。


「あ」


 スカートに光を遮られて薄暗くなった空間の最奥。白い太ももの狭間に垣間見える上品な桃色。太ももに少し食い込んでしわを作っているのが、その部分の柔らかさをも表現していて――


「あっ!?」


 リリヤが今度こそ羞恥に頬を染めてスカートを押さえた。桃源郷めいた光景が無粋な布の向こうに消える。

 デリックはその間にリリヤの後ろに通り過ぎた。


「うっ……ううう~……っ!」


 リリヤが耳まで真っ赤にしてぷるぷる震えながら、デリックのほうに振り返った。


「こ……この、パンツ男っ!!」

「い、今のは不可抗力だろ!?」


 デリックも、そしてリリヤも、前世では生まれた環境の関係で恋愛とは無縁だった。そもそも人生の半分くらいは殺し合いに明け暮れていたので、恋人を作る余裕も家庭を持つ余裕もなかったのだった。

 リリヤに至っては、前世でも現世でも箱入りだったせいで、そういう知識に関しては人生1回目の人間よりも足りていないくらいである。


 ともあれ、これは好機だった。

 パンツを見られたショックでリリヤが固まっているうちに、すぐそこの水道まで!

 デリックは蛇口がいくつか並んだ水道スペースに飛びつくが、そこでパンツでも見られたかのように硬直した。

 ――断水中。

 そんな貼り紙があった。


「はん! ご苦労様! 私に誘導されたとも知らずにね!」


 必死に追いかけてみせたのも、前に立ち塞がってみせたのも、ミスリードだったのだ。あえて守ってみせることでデリックを躍起にさせ、同時に、自らの身体で水道を隠して『断水中』の貼り紙が見えないようにした。

《五衛精》がトドメの風撃を充填する。

 水道のある場所は廊下の袋小路だった。逃げ場はない。ヴォルトガ弐式は熱暴走を起こしたまま。対抗するすべはなく――



「――誰が水道を目指してるって言った?」



 デリックは左手を頭上に向けた。

 リリヤの顔がそれに釣られて上に向き、瞬間、表情が変わる。


「しまっ――貯水タンク!」


 そう。

 この場所は、屋根の上にある貯水タンクの真下だ。

 しかも、その貯水タンクは、さっきデリックの足場にされたせいで亀裂が走っている。少しの衝撃で破裂するはずだ。

 そして。

 リリヤの絨毯爆撃によって、この校舎の屋根は穴だらけだった。

 


「このっ……!」


 リリヤがトドメの一撃を放つよりも、デリックが左手から雷撃を迸らせるほうが早い。

 デリックはそう確信したし、リリヤもまたそう思ったことだろう。


 しかし、それよりもさらに早く、別のことが起こった。




「――デリックさんっ! レイヤさんがあーっ!!」

「――リリヤ様! レイヤ様がっ!!」




 校舎の外から、そんな声が聞こえてきたのだ。

 デリックもリリヤも魔術を停止させる。


「「え?」」


 レイヤが――なんだって?





 外から叫んできたのはマーディーとアンニカだった。

 彼らに言われて、デリックとリリヤは慌てて初めの教室に戻る。

 一見、何事もないように見えた。

 デリックとリリヤの戦いの余波で、机や椅子がしっちゃかめっちゃかになっているだけだ。


 しかし、窓に。

 窓の枠に。

 誰かの指が、掛かっているのが見えた。

 内側じゃない。外からだ。

 誰かが、窓枠に掴まった状態でぶら下がっている!


「レイヤっ!」

「レイヤぁっ!」


 それが誰なのか、二人はすでに知っていた。

 レイヤだ。彼女が二人の戦いの煽りを受けて、窓から外に落ちかけているのだ。

 おそらく、デリックが校舎内に戻ってきて、それをリリヤが窓の外から攻撃してきたときだろう。そのとき、レイヤはまだこの教室に残っていたのだ。


「くっそ! まだ逃げてなかったのか……!」

「ど、どうし……どどど……!!」

「狼狽えんな馬鹿! 素人か!!」


 そうだ、自分たちは素人ではない。

 人よりも1回分多くの人生を経験した、それも元魔神である。

 この程度で狼狽えていたら、宿敵を倒すことなど夢のまた夢だ!


「レイヤっ! もうちょっと頑張れっ!! もうちょっとだからな!!」


 そう呼びかけながら、彼女を引っ張り上げるべく走った。

 荒れ果てた教室を駆け抜けるのに、きっと1秒もかからなかっただろう。しかし、その1秒は、レイヤにとってはあまりに長すぎた。

 伸ばしたデリックの手が、窓に掛かった指に届く、その寸前に。

 ずるりと、窓枠から指が消える。


「きゃあっ―――」


 短い悲鳴が遠ざかる。

 その声が、一瞬のうちに何度も、耳の中でくわんくわんと反響した。

 ここは4階。

 デリックでさえも、生身で落ちれば無事では済まない。

 だから。


「――くっ!」


 デリックは走った勢いのまま、窓の外に飛び出した。

 落ちていくレイヤがすぐ傍にいた。腕を伸ばす。指を伸ばす。そうすると、レイヤのほうも手を伸ばしてくれた。


 掴む。


 自由落下しながら、レイヤを胸の中に抱き留めた。

 だが、デリックにできるのはここまでだ。

 硬い石畳が猛然と迫る。自分をクッションにすればレイヤだけは助かるかもしれなかった。ならそれだ。それしかない。そう判断しながら、ほんの少しの悔いが残った。


(……せめて、ヴォルトガ弐式が使えれば……!)


 まさに、そう思った、その瞬間である。

 ビュウン――と強い風が吹いた。

 それはデリックとレイヤ、二人の体重を支えられるほどのものでは決してない。しかしそもそも、その風が吹きつけられたのは、デリックでもリリヤでもなかった。

 デリックの右手に握られた、ヴォルトガ弐式だ。


 


 教室の窓からリリヤが身を乗り出していた。彼女の仕業だった。

 ピンポイントでヴォルトガ弐式にまとわりついた風は、籠もった熱を大気中に逃がし、一瞬にして熱暴走状態を解除する。

 ヴウゥン……という低い唸りが復活した。

 剣身に紫の光が走る。


「――ヴォルトガ弐式、電磁石コイルモードッ!!」


 すぐさまデリックは指令を与えた。ガシャガシャガシャッ! と魔術機剣が高速で形を変える。剣であることをやめ、円筒状のコイルと化したヴォルトガ弐式が、強力な磁力を辺りに撒き散らした。

 校舎の建材に混ざっている金属を、磁力が掴み取る。

 落下速度が急速に減衰した。だが止まりはしない。

 石畳まで3メートル――2メートル――1メートル――

 まだ止まらない。デリックは歯を食いしばる。

 80センチ――50センチ――20センチ――


 ――ゼロ。


 背中に強い痛みが走った。

 目の前に星が舞い散り、息が詰まり――

 デリックの意識は闇に呑まれた。




※※※




 ――相変わらずの八方美人ね、■■■くん。


 洞窟の中にいた。

 天井に空いた穴から、しとしとと雨が降っている。それが地面に広がった血を洗い、どこぞへと連れ去っていた。

 雲間から射した光が、雨と一緒に血濡れた地面に注いでいる。

 エンジェル・ラダー。

 天使のきざはし

 その只中に、どこかで見覚えのある少女が佇んでいる。


「……お前、は……?」


 くすくすくす、と嘲るような笑い声が流れた。


 ――その問いが、答えそのものよ。


 困惑するデリックを嘲り、少女はさらに言う。


 ――記憶に残らない程度の、脇役ってこと。




※※※




「――――さん! 義兄さんっ!」


 覚えのある目覚めだった。

 ハッと瞼を開くと、レイヤが目に涙を浮かべて顔を覗き込んでいた。


「ああ……! よかった……! 目を覚ましたああ……!!」


 レイヤが胸元に顔を押しつけて、わんわん泣き始める。

 状況がよくわからない。


「いっつつ……」


 頭に響く痛みに顔をしかめつつ軽く身体を起こすと、直前の記憶と同じ場所だった。

 どうやら不甲斐ないことに、頭をぶつけて一瞬だけ気絶してしまったらしい。


「……あぇーっと。大丈夫か、レイヤ?」

「わたしなんかより義兄さんのほうが心配ですよっ! こんな無茶してぇっ……うううっ! うううううっ!!」


 怒っているんだか泣いているんだかわからない。

 苦笑しながら義理の妹の頭を撫でていると、周りから大きなどよめきが上がった。


「――無事だっ! デリック・バーネットは無事だぞーっ!!」

「「「おぉおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」」」


 喧嘩を見物していた野次馬たちだ。すっかり本来の趣旨を忘れて、デリックとレイヤが助かったことに飛び跳ねていた。


「……ごめんなさい、義兄さん。ごめんなさい……」


 デリックの胸の中で、レイヤがぽつりと言う。

 歓声の中に紛れてしまいそうなそれに、デリックは力強い微笑みで答えた。


「いいって。お前が避難したのを確認してなかったオレたちも悪い。特にお前がいるのに気付かずに魔術をぶっ放したリリヤが悪い」


 綺麗な銀色の髪を梳くようにして、いっそう優しく頭を撫でる。

 そうすると、レイヤは嬉しそうに微笑んで、デリックの首筋に顔をこすりつけた。髪から香る甘い匂いが、胸の中に染み渡っていく。


「こらあーっ! 私の妹からさっさと離れなさあーいっ!!」


 上のほうから聞こえてくる小うるさい声は無視して、むしろ一層にレイヤを抱き締めた。

 キレた婚約者が性懲りもなく風の砲撃を放ってくるまで、そう時間はかからず――

 束の間に見た夢の内容も、ほどなく喧騒の中に埋没していった。


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