第65話 保証のない明日

 浴室の中。鏡の前で、レオンは自分の体を見つめていた。

 体を覆う呪詛の紋様。それは今や全身に回り、赤黒い痣となって彼を雁字搦めに縛っている。

 手の甲にまで伸びた紋を見て、これからは手袋を着けるべきだろうかと独りごちる。

 こんな不気味な模様を人前に晒すわけにはいかない。呪いのことを知る人たちの目に触れさせて、余計な心配を掛けさせるのは御免だった。

 壁に立てかけてある湯かき棒が視界の端に映る。

 レオンは、何となくそれを手に取った。

 しゅぱっ、と鏡の前でそれを剣のように振るう。

 突きの形に構えを取り──ぽろり、とそれを床に落としてしまう。

 ころころと足下を転がっていく湯かき棒。爪先にこつんと当たるそれを見て、彼は小さく溜め息をついた。

 鈍い痺れのような感覚が、右腕全体に広がっていた。

 胸元に右腕を抱き寄せて、ゆっくりと拳を握り、呟く。

「……剣も満足に、扱えないのか……」

 少し前までは、呼吸をするようにできていたことだったのに。

 いつの間にか、自分はここまで弱ってしまっていたのだと思い知らされて。

 無性に、情けなくなった。

「…………」

 落とした湯かき棒を拾って元の場所に片付けて、彼は湯船に浸かった。

 心地良い温かさが、何処からともなく睡魔を運んでくる。

 彼は目を閉じて、ゆったりと浴槽に背を預け、上を向いた。

 黙っていると、色々なことがぼんやりとした頭に浮かんでくる。

 アメルのこと。ビブリード帝国のこと。国軍のこと。

 彼らの前に、自分は後どれだけの間立っていられるのだろうか。

 いつ死んでも不思議ではない体だということは、承知している。

 でも。せめて全ての憂いが片付くまでは、持ちこたえてほしい。そう願わずにはいられなかった。


 トントン。


 扉が外側から叩かれる。

「……レオン」

 アメルの声がする。

 レオンは目を開けて、ゆるりとそちらに顔を向けた。

「何?」

「私、寝るね」

「そうかい」

 彼は微笑んだ。

「ゆっくりおやすみ」

「うん。……ねえ、レオン」

 アメルは少しの間を挟んで、問うてきた。

「明日も、おはようって言ってくれるよね?」

 ナターシャが言っていた。自分がもう長くはないことを、アメルに話したということを。

 彼女は、不安なのだろう。レオンが朝になったら普通に目覚めるという保障がないということが。

 自分がちゃんと朝になったら目覚められるかどうかなんて、分からない。必ず目覚めると自信を持って言えないことは情けないと思う。

 でも、彼は言う。

「……必ず言うよ。安心して」

 自分自身にも言い聞かせるために、言葉を口にする。

 それは発破を掛けるようなものだ。

 自分はまだ生きることを諦めていないのだと、声高に叫ぶために。

「また明日ね。アメル」

「うん……おやすみなさい、レオン」

「おやすみ」

 ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。

 また明日……笑顔でおはようと言って、他愛のない話をしよう。

 何でもないことをささやかな楽しみにして、レオンは静かに目を閉じたのだった。

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