それでも彼女は変わらない
夏休みが明けると、ますます受験に向けた対策が加速していた。中にはAO入試で進路を決めたものもちらほら出てきた。
俺たち『帰宅部』も1学期で部活も終わり、それぞれが勉強に励んでいた。
そんな日々を過ごしていたある時、俺は教室に忘れ物をした。それを取りにわざわざ戻ってきたが、なぜか教室に入ることを阻まれた。
「わかった。陣内さんが決めたことなら先生、応援するね」
優しいこの声の主は担任であり顧問である
「はい。よろしくお願いします」
淡々と返事をしたのは
「えーっと、
「わかりました」
話が終わったのか教室の扉が開かれた。ここで居合わせたら気まずいとわかっていたが、隠れる余裕もなくばったりと居合わせてしまった。
「あれ?
三宅先生はいつものほんわかした声で聞いてきた。その後ろにいる陣内の視線は俺には向けられなかった。
「いや、ちょっと忘れ物を……」
「そっか、忘れ物には注意だよ! じゃあ、また明日~」
そういうと三宅先生は廊下を歩いて行った。ここに残されたのは俺と陣内だけである。俺が忘れ物を取りに教室に入るとゆっくりと陣内の口が開いた。
「私も帰るわ。さようなら」
「陣内」
俺は無意識にその名を呼んでいた。呼び止められて歩みを止めたが、決して振り向きはしなかった。
「いや、その……」
俺が言葉に詰まらせていると陣内は俺を遮った。
「話があるなら帰りながらにしてもらえるかしら」
俺は急なお誘いに戸惑っていると呆れたような顔で陣内は振り向いた。
「今、ここで久坂部くんと話してる余裕はないの。だから早くしてもらえるかしら」
言い終えると陣内は颯爽と教室を出ていった。それに慌てて俺の忘れ物を鞄に詰めて後を追った。
***
2人で帰っているというのに言葉を一切発せず、ただただ足を進める音だけが鳴り響いていた。俺から呼び止めておいて話を持ち出せずにいた。言ったところで俺の望む答えは帰ってこないとわかっていたから。それでも陣内の口から陣内が導き出した答えを聞きたかった。
「指定校推薦、するんだな」
「やはり、聞いていたのね」
「たまたまな」
そこからまたしばらくの沈黙。そしてまた俺が問う。
「薬学部ってことは薬剤師になるのか?」
「そうね」
その返事はどこか他人事のようだった。これは陣内のことだというのに。
「それって、前に言ってた母の考えってやつか?」
その質問に陣内は少しぴくっと肩を震わせた。なかなか返答がない。それはYesと取っていいのだろうか。
「なりたいわけじゃないのか?」
1つ小さなため息が聞こえた。それはどこかあきらめたようにも思えた。
「別に、なりたいわけではないけど、決してなりたくないわけでもないわ」
要するにどちらでもいいということだ。陣内は自分の進路に自らの意思はないらしい。
「それでいいのか?」
「それでいいのよ。その方が幸せだから」
その幸せは誰の幸せなのか。陣内なのか、母なのか、はたまた両者なのか。
「その幸せって誰の幸せなんだよ」
俺はボソッと本音が出てしまった。それを聞いてピタッと陣内の足が止まる。
「……わ、私の幸せよ」
苦し紛れにそう言ったが、顔はずっと俯いたままだ。
その時急に後ろから否定的な言葉が叫ばれた。
「違うよ!」
その声の方を振り返ると、そこにはなぜか
「なんでお前らがここにいんだよ」
俺がジト目を向けると桧倉と西城はおろおろし始めたが、すかさず後輩である新島の彼女がフォローを入れた。
「今から女子会するつもりだったんですよ~。私の家で」
「ねっ」っと桧倉と西城に目配せすると、2人もうんうんとうなずいた。
「そ、そーなんだー。最近、
「ちょ、ちょっと、るり先輩! マジなこと言わないでくださいよ!」
嘘をつくとき信ぴょう性を持たせるためには多少の事実を入れるといいとよく言うが、急に爆弾を投下されては新島の彼女もたまったものじゃない。あれ? 別れたならもう新島の彼女じゃなくない?じゃあ、俺の中であの子はただのビッチな後輩だな。
西城とビッチな後輩がわめいているとその隣でまじめなトーンがやけに響いた。
「話、勝手に聞いてごめんね。でも、それって、違うと、思うだよね」
ゆっくりと自分の思いを桧倉は1つ1つ区切るように言った。桧倉が真剣なまなざしで見つめるのは陣内だ。陣内は居心地が悪そうに視線を逸らす。
「その、幸せってのは、もっと、こう、あー、なんていうのかな……」
うまく言葉が見つからないのかなかなか続きが出てこない。それでも必死に桧倉は何かを伝えようとしていた。
「で、でも、今、
そういわれて陣内は余計に顔を俯かせた。夕日の逆光のせいもあって誰一人陣内の表情は窺えない。そんな陣内の顔を上げさせたのは桧倉が歩み寄り、手を握ったからだ。
「沙彩花はどんな時が幸せ? その時と今って全然違うと思うんだ。表情も感情も」
この世にこれほどの笑顔があるだろうか。そのくらい桧倉の笑顔は優しく温かかった。
「私に、幸せなんて……」
そこで陣内は言葉に詰まらせた。桧倉は少し悲しそうな顔をしたが、またにこっと笑顔を見せた。
「
桧倉は自分の思いを告げてゆっくりと握っていた陣内の手を離した。
「みんなして何なの。これは、私も納得していることなの。みんなには関係ないじゃない」
消え入りそうな声で陣内はそうつぶやくとその場から去って行った。
***
12月上旬。陣内が指定校推薦で薬学部に受かったことは瞬く間に学校中に広まった。陣内は結局そのまま進路を変えなかった。これは陣内の人生だ。これが陣内の選択なら俺たちに否定する権利はない。
そして、センター試験まで約1か月だ。しかし、追い上げの時期だというときに学校内はなぜか異様に騒がしかった。それは職員室からするものらしい。
なに、三宅先生がドジしたのかしら。そんなどうでもいいことを考えていると慌てた様子で
「りょ、燎太! 大変だよ!」
「どうしたんだよ」
「陣内さんが、西城さんの親と喧嘩してる!」
「は?」
俺は間の抜けた声を出してしまった。だって、意味が分からん。どうしたらこうなるんだ。
「それ、どういうことだよ?」
いつの間にか新島も話に参加してきた。
「なんか、西城さんの親が学校に来ててそれで西城さん呼び出されてたんだけど、そこになぜか陣内さんまでいて……」
加西も詳しく知らないのか自分の知っていることを必死に伝えてきた。
「と、とりあえず、止めないとやばいかも!」
確かに、加西の言う通り陣内が喧嘩をしているのだとしたら、陣内の場合は誰振りかまわずに鎌を振るうような性格だから問題は大きくなりそうだ。
「様子だけでも見に行ってみるか」
俺たちはその問題が起こっている職員室に向かった。多くの野次馬をかき分けながら職員室の目の前までたどり着いた。そこにはもう桧倉もいた。
「あ、燎太たちも来たんだ」
「何があったんだ」
ちらっと横目で職員室の中を見てみると三宅先生が間を取り持っていたがほとんど意味をなしていなかった。
「なんか、るりのお母さんが芸能活動を続けてることに怒ってるみたいで……」
「と、止めなくていいのかな?」
「これ、俺たちが行ってどうにかなる問題か?」
最初は止めに入ろうと思っていた新島もこの実際の状況に圧倒されているらしい。でも、確かにこれは俺たちが口をはさんでいいとも思えない。陣内の時同様、これは本人とその家族の問題だ。しかも、その母親が今、目の前にいる状態で俺たち赤の他人が何か言っても聞く耳を持たないだろう。ここは頑張って三宅先生にけん制してもらうしかない。
しかし、その思いとは逆に事態は悪化していた。
「あなたは、西城さんに理想を押し付けているだけではないからしら」
一歩前に出て言い放ったその言葉が西城の母親の癇に障ったらしい。
「はぁ? あなた、急に現れてなんて失礼な子なの! 学校はどういう指導をしているんですか!
その母親は陣内を指さして激怒した。
「すいません! ほら、陣内さんも教室に――」
「私は事実を述べたまでです。それに、そちらこそ理想を押し付けることが正しい教育とも思えません」
三宅先生の言葉に耳も傾けずに陣内は言い放った。
「私が間違っているって言いたいの!」
「ええ。だって、あなたはろくに西城さんの話も聞かずに勝手に決めているじゃない。そんなの、あなたの押し付けでしかないわ」
「私は、瑠莉子の将来が心配なのよ! 芸能界なんて、安定してるわけでもない一時的なものでしょ! 失敗してからじゃ遅いのよ!」
「失敗してもいいじゃない」
「あなた、何言ってるの?」
嘲笑とも見れる笑いを母親はこぼした。
「私は、決して失敗が悪いことだとは思えないわ。失敗を知らない人より、失敗を知り、それを乗り越えた人の方が成長できるもの。もし、西城さんが1人で失敗を乗り越えるのが難しいのなら、その時、あなたが手を差し伸べてあげればいいじゃない」
母親は黙っていた。どんな表情かは後ろ姿では読み取れない。ただ、陣内は目を閉じて一呼吸置いた。
「……それに、あなたに黙ってまで続けているのだから、それなりの覚悟を持ってやっているはずよ。そうでしょう? 西城さん」
陣内に急に話を振られて西城は間抜けな声を最初は出したものの、そのあとは真剣な表情になって母親を見据えた。
「もちろん! るりは本気で芸能界の仕事を続けるつもりだから! だから、だから……」
強く握られた西城の手には決意が見られた。
「るりは進学しない!」
しっかりと西城の目は母親に向けられてとてもまっすぐだった。
「もう……好きにしなさい。私も暇じゃないの。仕事に戻るわ」
これは了承と取っていいものなのかはわからない。ただ呆れたのかもしれない。ただ、それだけを言い残して母親は職員室を出ていった。同時に、野次馬たちも減っていく。
「ありがとう」
西城は陣内に向き直って笑顔で言った。でも、その笑顔も嘘っぽく見えるのは次に西城がこう言ったからだろう。
「正直、沙彩花ちゃんがるりを助けてくれるなんて思わなかった。……でもさ。それって、ホントは沙彩花ちゃんが自分の親に言いたいことでしょ。でも、それができないからるりのママに言ったんだ」
陣内はずっと目を閉じていた。ゆっくりと開かれた瞳は氷のように冷たい。長い髪の毛を耳にさっとかけた。
「西城さんと私は違うわ」
そう言うと颯爽と職員室を出ていった。
職員室を出て俺たちがいることに多少は驚いたようだが、何も言わずそのまま通り過ぎようとした。
「違うって何が違うんだ?」
俺がそう問いかけると陣内は足を止めた。だが、顔はこちらには向けてくれない。
「私と西城さんは明確に違うわ。西城さんが持つ意志も。これまで築きあげてきたものも。そして、母との関係性も」
陣内の声はいつもよりも弱々しく、どこかあきらめているようでもあった。
「それでも、西城の母親に言ったことが陣内の本心なら、何か変えられたんじゃねーのか」
なぜ俺はこんなにも必死なのだろう。返ってくる答えもわかっているのに。それでも、何かが俺を突き動かしていた。
「今さら、変えられないわ」
そう告げると陣内は行ってしまった。たった1人、暗く冷えきった廊下を。
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