10 ゲームは時間の無駄 前編

◾️時間の無駄?


「ゲームで遊ぶのは時間の無駄だ」と、何度も言われたことがある。


 ゲームに費やす時間を勉強や他のことに使っていれば今頃は……などと平然と口にする連中がいる。


 昔はゲームを遊んでいたヤツですら、やめた途端に似たようなことを言い始める。ゲームやるのって時間の無駄だと気付いたんだよ、とかなんとか。


 初めて言われた時はただ腹が立つだけだったがそのうち聞き流すようになった。


 何度も言われるうちに感情的な否定ではなく、疑問を感じるようになった。


「ゲームは時間の無駄」なのだろうか?


 理屈抜きにすれば無駄とは思えない。

 だが、本当に無駄ではないのか?

 もしかしたら本当は無駄ではないのか?

 認めるのがイヤだから、私は感情的に否定しているのではないか?


◾️そもそもどうしてゲームで遊ぶのか。


 他人の心情は推し量ったところで正解はないので、私のパターンで考える。私は何故ゲームで遊ぶのか。


 初めてゲームを遊んだ時のことはもう覚えていない。物心つく頃にはファミコンが家にあったし、文字の読み書きよりも早くクッパの倒し方を覚えた。

スーパーファミコンを買って貰ったことですら、いつの出来事だか覚えていない。


 ゲームに関する最も古い記憶は兄が遊んでいる「さんまの名探偵」で文珍さんが殺されるOPを見て怖がっていたことだ。大人になった今改めて見返してみたがやはり怖い。


 我が家にはファミコンの他にスーファミ、ゲームボーイ、そしてPCエンジンシャトルがあった。父はゲームどころか機械全般に触らない男だし、母は子供たちがゲームで遊ぶことを嫌う当たり前の大人だったから誰に買い与えられたのだか不明である。しかし幼い頃からゲームは常に身近にあるものだったし、当たり前のように遊んでいた。


 親にはゲームを一日一時間と制限されていた。外で野球やサッカー、ドロケイや缶蹴りをして遊ぶこともあれば家で本を読んで過ごすこともある。ゲームは好きだったが、好きな遊びのひとつにゲームがあるだけで、アウトドアもインドアもどちらにも偏らないごく平均的にバランスの取れた子供時代を送っていた。


 ゲームを夢中で遊ぶようになったのは高校に入ってからだ。バイト代は本とゲームにすべて注ぎ込んだ。社会に出て働き始めゲームに使える時間が少なくなると、むしろ少年時代よりもゲームに費やす時間は増えて行った。


 多くの時間をゲームに費やした。そうした時間はすべて無駄なのだろうか?


◾️本当に「時間の無駄」なのか検証もした。


 ゲームを遊んでいる時間を他のことに使えば、有益なのか? 


 考えるだけでなく実際に試してみた。

 何年か前に一年だけゲームをやらないことに決めた。ゲームを遊んでいる時間を執筆に当てたらもっと多くの小説が書けるのではないかと思った。


 実際に書けた作品の数は、前の年よりも少なかった。


 今までゲームを遊んでいた時間をパソコンへ向かうことに使ったが、ただパソコンに向かっているだけだった。まったく集中できず一時間、二時間、調べ物と称してネットサーフィンばかりする毎日。集中できなければ何十時間パソコンに向かっていようと意味がない。結局、その年はまともな作品が出来なかった。


 黙々と仕事を続けるより、実作業時間が減っても休憩や雑談に興じる方が効率が良くなるのはどんな分野でも同じだ。私の場合は執筆をする為にゲームを遊ぶ必要があるのだと気付いた。


 私は再びゲームに没頭する日々を送った。そして再び考えた。


 私はやはり時間を無駄にしているのだろうか?


◾️疲れてもゲーム


 歳を重ねて自分の為に使える時間が減ろうと、ゲームを決してやめたりしなかった。何があろうとゲームで遊ぶ時間は確保した。疲れ果ててヘトヘトでも、少しでもゲームをやろうとした。


 どうしてこんなにゲームを遊ぶのか。

 スプラトゥーン2を遊んでいた時、ハッと気が付いた。


 夢中でゲームを遊んでいる間は、ゲーム以外の何もかもを頭の中から締め出している。スプラトゥーン2をやっている私はすでに人間ではなくイカである。手にはコントローラーではなくヴァリアブルローラーフォイルを握っている。没入している。五感の全てがゲームに一体となる錯覚。まるで瞑想だ。無我の境地にいる。無心。昨日の苛立ちや今日の怒りや明日への不安の何もかもを忘れている。


 そうして我に返った時、心を塞いでいた不安や怒りが消え去っている。私はゲームに没入し何もかも忘れることで、自らを癒していた。


 生き辛いこの時代で、誰もが日々の仕事で心を擦り減らす。癒しをペットとの触れ合いや晩酌に頼る人もいる。散歩や旅行も良いだろう。ストレスの発散は必要だ。大げさにいうならばゲームを遊ぶことは祈りと同じだ。神へ祈る為に両手を握るのと両手でコントローラーを握るのと何が違う。荒れた心を安らかにして明日への活力をもたらす。だからどれだけ疲弊しても、むしろ疲弊すればするほどゲームを遊びたい欲求は高まるし、何があろうとゲームを遊んでいる。


 私にとってゲームは生きる糧のひとつで、掛け替えのない趣味だ。


 それでも時間の無駄だろうか?


◾️そもそも時間の問題だろうか。


 ゲームは時間が掛かる。モンハンやポケモンなどプレイ時間が999時間でカンストしてから本番だとのたまうガチ勢がいるほどだ。


 しかし今の50時間、100時間遊べて当たり前のゲームと異なり、昔は一時間もあれば遊べるゲームがほとんどだった。その当時から時間の無駄と言われることがあったのだから、つまりプレイしている時間の長さは関係ない。そもそも平日の仕事が終わったあとや休日に数時間で遊べるゲームは、短期的に見れば掛けている時間が多いとは思えない。


「その時間を別のことに使っていれば」と言われることがそもそも筋違いであるのは自ら実証した。では執筆以外の時間に費やせばなどと言い出せばキリはないけど。


 時間の問題ではないはずだ。

 時間の無駄だと言う手合いは気付いていないだけで別の理由で「無駄」と思っているのかも知れない。


 では家にこもっているから? 身体を動かさない不健康な趣味だから、ゲームを長時間やるのは無駄なのだろうか。


◾️何が無駄?


 しかし私は本を読むのも好きだった。図書室に通い詰めてはたくさんの本を借りて、授業中も教師の目を盗んで読んだ。同じ本を何度も借りて繰り返し読んでいたが、読書を時間の無駄だと言われることは一度もなかった。


 それどころか「若者の読書離れ」だとかなんとか銘打って、私の学校ではわざわざ朝の授業開始前に読書をする時間まで設けてくれた。本を読めと言われるのは好きに遊んでいろと言われたようなもので、大人は本当に馬鹿だなとほくそ笑んでいた。


 読書が時間の無駄ではないなら、ゲームは? オリエント急行殺人事件を読むのは無駄じゃないのにポートピア連続殺人事件を遊ぶのは無駄なのか? 

 むしろ目で追うだけの読書と異なり先へ進むのに自分の頭で考えるゲームの方が脳に良い影響はありそうだが、何故無駄なのだろうか?


 将棋はどうだろう。限りなくゲームに近い、というかゲームそのものな遊びだが将棋に熱中する子供に向かって「時間の無駄」だと言う大人がいるだろうか?


 アウトドアで行われる「釣り」や「登山」を時間の無駄と語る人には会ったことがない。


 何故ゲームは無駄なのか?


 簡単に答えは出ない。


 今日はここまで、では終わらない。3000文字で決着が着く話ではない。後半へ続く。

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