4 タケシとたけしの挑戦状

■たけし


 仮面ライダーは本郷猛。

 ジャイアンは剛田武。

 そして世界の北野武。


 たけしとは英傑の名だ。

 だから私も数々の著名人にあやかり、ペンネームにタケシの名をつかっている(諸説あり)


■伝説のクソゲー。


 1986年にタイトーから発売された「たけしの挑戦状」を知っているだろうか。


 タレントのビートたけしが全面監修した「たけしの挑戦状」は今なお語り継がれる、伝説とまで呼ばれたクソゲーだ。


 何をしたら良いのかわからず、何をすべきかわかってもクリアできず、ひたすらさまよいながらヤクザを殴り警官を殴り時々主婦やサラリーマンも殴る。


 私が今日、主張したいのは「たけしの挑戦状は本当にクソゲーなのか」ということだ。


■本当にクソゲーではある。


 本当にクソゲーなのか、と言ったばかりだが本当にクソゲーだ。この話を書くにあたりiOSアプリ版を購入して遊び直したのだから間違いない。


 本当にクソゲーだ。ファミコンのコントローラーと違って操作しにくいせいか、当時は感じなかった操作性の悪さにまでストレスを感じる。


 ゲームが始まると、主人公はいきなり放り出される。何をしたら良いのかわからない。目的を教えてくれる王様もいなければ、部屋を出るまでに操作を試行錯誤する機会もない。とにかく本当に放り出される。


 仮に何をするかわかっても正解まで辿り着けない異常な難易度。襲い来るヤクザと主婦。いや主婦は襲って来ないが、妻と子供は襲って来る。ついでに宝の地図をくれた恩人は殴り倒しておかないと後で主人公を殺しに来る。目的地もゴールもわからないままただひたすらに町民を殴り倒す世紀末サラリーマン伝説、それがたけしの挑戦状。


 文句なしにクソゲーなのだが、少なくともたけしの挑戦状には明確な制作上の意図を感じる。


 つまり、無茶苦茶な難易度はプレイヤーを困惑させようと意図されたものだ。暗中模索するプレイヤーをあざ笑うかのように詰め込まれた無数のフェイクとトラップ。そして、それを楽しませるための退廃的でシュールな世界観がしっかりと練られている。


■たけしの挑戦状は文字通り挑戦している。


 スタッフの反対を押し切ってたけしがアイディアをねじ込んだ結果、鬼畜難易度の悪魔の出来になったとも聞いたことがある。


 だがたけしの挑戦状が発売されたのは1986年。まだファミコンが発売されてから3年しか経っていない。家庭用ゲームはまだまだ試行錯誤の段階で、ビートたけしの無数のアイディアをプレイヤーに楽しませる方法が見つからなかったのだと思う。

 そんな時代に「誰もが楽しめるRPG」として先陣を切って大成功を納めたドラクエがどれだけ偉大だったことか。ドラクエ大好き。


 さておき、目的不明でうろうろしなければならないことはゲームの中で大きなストレスだ。


 ストレスはやがてそれを乗り越えることでカタルシスを得られるが、乗り越えられないからただストレスのまま終わる。


 徒労感を募らせるだけの無駄な作業。

 だからこそクソゲーだと感じてしまう。


 だけど、私はたけしの挑戦状が好きだ。


 あのバイオレンスでシュールな世界観は病み付きになるマズさがあるし、随所に笑わせようとする工夫がある。背景のパチンコ屋がわざとパの字がずれていたり、トラベルの文字が傾いてトラブルにしか見えないようになっていたり。パチンコ屋で玉が出ないことに文句を言い、襲って来るヤクザを返り討ちにするというアイデアも面白い。


 子供の頃はあれがクソゲーと呼ばれていることも知らず、友人と交代で遊んでは無意味にマップをうろうろして通行人を殴り飛ばしていた。


 素行を疑われるかも知れないが、ゲームで通行人を意味もなく殴り飛ばすというのは楽しい。ジャンプができるRPGで住民の頭に飛び乗った覚えはないだろうか。壺を持ち上げられるゲームで住民にぶつけたりしなかっただろうか。誰だってグランドセフトオートで無意味に通行人を殴ったりするはずだ。するよね? しない?


 素行を疑われるかも知れないが、私はそういうこと平気でやる。


■クソゲーってなに?


 クソゲーとはなんだろうか。


 これについて明確な定義はない。作品に対する感想は主観が混じるし、全員が納得する定義なんて出来ない。一度くだした評価が簡単に覆ることだってある。私自身、前回書いたようにFGOをクソゲーだと決め付けていた。


 だから私は個人のクソゲーと公共のクソゲーという概念で考えている。


 個人のクソゲーとは「期待を大きく裏切る」出来の作品。世間の評価はともかく、楽しめる人間も一部いるゲーム。世間はともかく自分の中ではクソゲーだと断定できる作品。


 公共のクソゲーとは「誰がやってもそもそも遊びにならない」作品。バグ満載で遊ぶどころではない作品や、中身が薄過ぎてやることがないゲーム、明らかに工数不足で未完成品を発売したもの。そもそものゲームデザインに失敗してどう遊んでも楽しむ要素のない作品。


 この概念に当てはめるなら、たけしの挑戦状は前者のように思える。なぜなら、たけしの挑戦状は手抜きや失敗でクソゲーになったのではない。


 詰め込み過ぎたアイディアを楽しめるゲームとして落とし込めなかったことで失敗しているのだ。


 あのシュールな音楽と世界観、それから鬼畜過ぎる難易度は遊び手を苦しめるためのものではなく、笑わせに来ていると私は感じた。


 ただあのゲームの場合、笑うのはプレイヤー自身ではない。


 必死でクリアしても「えらいっ」の一言。

 挙句、かくされたメッセージは

「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」


 アホみたいな難易度をくぐりぬけたプレイヤーに浴びせかけられる冷淡な一言。


 プレイヤーは怒り心頭だろう。

 そこまで辿り着けると仮定してだが。


 だが、確かめてほしい。


 ユーチューバーでもゲーム実況者でもいいが、たけしの挑戦状をクリアしている人物がいるはずだ。


 動画を見て欲しい。


 彼、あるいは彼女が必死で正解を探し、怒り、わめき、あきれ、ウンザリしながらたけしの挑戦状をクリアする姿だ。


 もし、確かめたなら教えて欲しい。


 面白くなかっただろうか。


■テレビとゲームの笑い。


 たけしの挑戦状に詰められているのは、あくまでもゲームと、それをプレイするプレイヤーに対しての笑いだ。


 人が真剣になってバカげたことを成し遂げる姿は面白い。良い大人が全力で鬼ごっこをするようなバラエティ番組と同じだ。


 たけしの挑戦状は視聴者がいることを考えるテレビの笑い作りの観念で作られたのではないだろうか。


 そう考えたら、あの失敗を活かして次のゲームが作られなかったのは惜しいと思う。もしかしたら、次は傑作が生まれたかも知れない。


 改めて遊んでもたけしの挑戦状はクソゲーだ。もし、私があれを発売日を楽しみに待ちながら自分の金で買ったなら、確かに激怒するだろう。消火器を持ってタイトーに殴り込んだかも知れない。


 それでも憎めない魅力がたけしの挑戦状には溢れている。


 力のある作品は、たとえそれがマイナス方向であっても人の記憶に残る。だからこそたけしの挑戦状は伝説で、今も語り継がれているのではないだろうか。


 本当にどうしようもないクソゲーは誰かに語られることもないし、人の記憶にも残らない。ああまるでネットで公開してもPV数は一桁の◯野タケシの作品みたいだな、と考えて憂鬱になったところである。


 別に話題にならず記憶に残らない作品だって面白いのたくさんあるから(捨て台詞)


今日はここまで。

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