7.リヴァーフロント


 そのナイトマーケットはまだ新しく、自生的なナイトマーケットを観光向けに集約しようとしたいくつかの失敗の後に、チャオプラヤーの川沿いの一画を、開発資本が本腰を入れて倉庫などの建造物を再利用しながら本格的に整備したものだ。

出所不明、行き先不明の怪しいマーケットの魅力を求める向きには不満かもしれないが、旅行先の夜を開放的にのんびりと過ごすには文字通りにお誂え向けの場所だった。


 俺は数あるレストランの中の一つへとナツミちゃんを誘った。

そこはリヴァ―フロントのボードウォーク沿いに位置するそのオープンスタイルのレストランで、バンドの生演奏を聞かせてくれる店だった。

俺はナツミちゃんと一つのメニューを覗き込み、料理を選んだ。

彼女はタイ料理にそれなりに詳しく、あれやこれやと意見を交わしながら料理を決めていくのは楽しかった。

日本の安定走行とは違って不規則で異様な動きを見せる観覧車を俺が背後にする形で彼女と向かい合って座り、ボードウォークを行きかう人々や発着する船を眺めながら、チャンビールで乾杯した。

賑わうナイトマーケットの心地よい薄暗さの中で、彼女は魅力的だった。


 バンドはドラム、ギター、キーボードの3人編成で、ギターの男性とキーボードの女性の二人がヴォーカルも務めた。

数年前にグラミー賞を獲得したLady Antebellumのカヴァーをメインとするバンドらしく、いくつもの曲を聞かせてくれた。

カントリーを基調とする洗練されたポップスを作りだすそのバンドを元から俺は気に入っていたが、その夜を彩るのにふさわしい、楽しくてあたたかい、美しいハーモニーを奏でる音楽だった。

その場所、その空気、その光と影、その音楽、人と水のそのざわめき、その外国語、そしてナツミちゃんとの会話は、俺を完全に夢中にさせた。

過去の失敗も未来の目的も忘れ、今と自分自身を俺は完全に楽しんでいた。

時々俺はバンドのおしゃべりに口を出し、周囲の人を笑わせたりもした。

俺は海老と豚と香菜と果物を食べ、ビールを飲み、息を吸い込み、頭をめぐらせ、言葉を吐き出し、彼女の声を聞き、目に見える景色と体をふるわせる音楽を楽しむのに忙しかった。


 彼女は福岡の人だった。

地図上の位置と名前以外に何も知らないその都市を俺は思い、そこで生きてきたナツミちゃんの二十三年間を思った。

彼女の二十三年間を思う時、俺の脳裏に浮かぶのはすなわち、日本全国の男女に共通の体験、二十二歳までの学校教育の事だった。

バンドが客のリクエストに答えてAdelleやCarole Kingなんかもやってくれ、宴も溜飲を下げ始めた頃、俺は彼女を船に誘った。



 スカイトレインの高架線がチャオプラヤーと交差する船着場駅には、川沿いのリゾートホテルやレスランなどのさまざまなシャトルボートが発着している。

その船着場は夜でもにぎわっていて、暗闇の中からすべるように姿を現す大小さまざまな幻想的なボートに、観光客たちはホテル名や行き先をよく確かめてから乗り込む。

中でも最も大きいのがナイトマーケットのシャトルボートで、百人ほどが乗れるボートが二台、駅とナイトマーケットを往復して客をピストン輸送していた。

俺はナツミちゃんを、このシャトルボートに誘った。

ナツミちゃんはナイトマーケット近くのホテルだったから、このボートに乗る必要はまったく無かったのだけど、きっと楽しい体験になると俺が提案したのだ。


 船着場には次の船を待つ人々の長い列ができていた。

時刻は九時半にさしかかるところだったから、帰る人たちが多いのだろうと思いきや、すぐに到着した船から満員の乗客が降り立ち、たくさんの人たちがまだこれからナイトマーケットを楽しみに来ていた。

リゾートの夜は長いのだ。

行列が動き出した時、たくさんのリゾート客に連なって暗い川に乗り出す船に乗りこむことに俺は浮き立ち、ナツミちゃんの手を取った。

景色もおぼろな異国の夜に、未熟な子供同士みたいに手をつないで、さまざまな国籍の外国人たちの群れに紛れ込むのはうっとりするような体験だった。

チャオプラヤーの十五分間のナイトクルージングは、期待に違わず美しいものだった。

鈍く黒光りする水面の向こうには、木々、レストラン、高層のリゾートホテル、暗くてなにやらわからないたくさんの建物などがでたらめに現れた。

大きくカーブする川は、それらの景色を出し惜しみするように順番に見せてくれた。


 ナツミちゃんはその日、バンコクに着いたばかりだった。

ホテルに荷物をおいて、ガイドブックを開き、近くにあるからという理由でナイトマーケットに出てきたところで、俺と会ったのだ。

初めて訪れる街の景色とは、夜に出会うのがいい。

夜は人の気を惹く術を心得ているかのように、街をぼんやりと隠す。

見える景色が、見えない景色への想像を掻き立て、その異国の幻想的な眺めにうっとりとさせる。

暗闇はこれから起こるであろう未知の体験や出来事への暗喩となり、旅の刺激の予感に胸がふるえる。


 十五分の幻想的な船旅を終えて駅に着くと、俺は橋を渡ろうと提案して、ナツミちゃんをスカイトレインへと誘った。

夜のスカイトレインのプラットフォームは、それ自体が一つの展望台で、川の上流を遠くまで眺める事ができる。

俺はナツミちゃんにスカイトレインの乗り方や、どこにつながっているかを説明しながら、景色に見とれていた。

やがてプラットフォームに滑り込んできたスカイトレインに乗り込んだ俺はナツミちゃんを手招きし、二つ並んだドアの窓の下半分(広告のラッピングに邪魔されずに外をのぞけるのはそこだけなのだ)にお互いの顔を寄せて外を眺めやった。

右に大きくカーブする川の上流が少しずつ見えてくる。

川の両岸には暗く沈みこむ森の中に無数のビルやホテルが林立し、それらが水面に映りこんで輝いていた。

その先に、王宮や寺院がもうすぐ見えるはずだと二人で意気込んで待っていたが、見つける事はできなかった。

それで結局、これは明日のお楽しみ、ということにした。


 帰りのシャトルボートは人がだいぶ少なくなっていた。

さっきよりもずっと静かな船内で風に吹かれながら、俺はナツミちゃんと寄り添った。

彼女は顔や体や服装が素敵なだけじゃなく、性格、つまり俺との相性も申し分なかった。

俺がもっとも大切にしていたのは、お互いがお互いを楽しむこと、二人の時間を素晴らしいものだと二人ともが感じることだ。

そのためには素直さだとか、感情表現、相手の気持ちを探る技術、思いやり、発想力や機転、経験と成熟などが必要とされる。

それに加えてもちろん、ナツミちゃんの無防備な首すじは、俺を魅了してやまなかった。

船が揺れるたびに、彼女の溶けそうにやわらかい尻が俺の太ももに当たるのを感じた。


 船を下りると、もちろん俺はナツミちゃんをホテルまで送っていこうと申し出た。

ところが彼女はそれを優しく拒否した。

道に迷う事はないし、俺が帰るのが遅くなってしまうのが心配だと主張したのだ。

船の外には長蛇の列ができていて、一度船から下りたら帰るのが何時になるかわからないという彼女の言い分は、強い説得力を持った。

ホテルは本当にすぐそこなのだという彼女が船から下りるのを、俺は手を振りながら見送って、船に残った。

俺は帰りの船の席に座りながら景色を眺め、この短い別れにずいぶん切なくなっている自分を感じていた。

やはり、ホテルまで送っていくべきだったと思った。

外国の夜に女性を一人で歩かせるものではないという当たり前の恐怖が、俺を締め付けた。

明日会えたら、この気持ちをナツミちゃんに伝えようと思った。

そしてそれは、彼女を口説く上でも効力を発揮するだろうということを思いつくと、少し元気が回復してくるのを感じた。

女を口説くとき、本当のこと、自分の気持ちに正直な事しか言わないというのが、俺の主義なのだ。

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