14.夜を包む風


 トシとイチは、アーケードの下から駅前のロータリーに出た。

ずっと屋根のあるところにいたから、ロータリーの上に広がる空がずいぶん広く感じられて、開放的な気持ちになる。

右手には四階建てほどの高さの駅舎と高架線路がずっと続いていて、夜空の下に輝きながら、自らこそが街の中心であることを誇っていた。

その駅舎の下からは無数の人々が次々と途切れなく吐き出されていた。

ロータリーにはバスが大きな円運動を描きながら滑り込み、長い列に並んだ人々をたくさん乗せてまた道路へと出て行く。

バスは何台も見えたが、いくつもあるバス停にできた列にはあとからあとから人が並んでいくので、いつまでも長いままだった。


 それらの家路をたどる多くの人々、あるいは夜の仕事に出勤する少数派の人々にまぎれて、トシとイチも駅に向かった。

「トシさんと話すと、明日から何をすればいいかわかってくる気がします。心にドライブをかけてくれるっていうか、向かう先が見える気がします」

 駅舎の手前の横断歩道に向かいながら、イチは言った。

「そうか。何よりだ」

「焦りだけがあって、することがないってのはキツいですよ。あてもなく続けるのは辛いですから」

「わかるよ」

「女のコといても傷つけ合うだけだから、トシさんと一緒にいるほうがずっといいと思えてきますね」

「そうだな」

 傷つけ合いながらも一緒にいるしかないのだろうとトシは思いながら、それを口には出さなかった。しかし、一緒にいる方法は選べるはずだ。

「人とのかかわりの中に義務だけがあって倫理は無い、この時代は狂ってると思うからな。俺たちは人と深く関わるよりまず、人間性の良心を活かす方法を身につけることから始めたほうがいいんじゃないか」

「そうですね」

 トシとイチは、明るい駅舎の前の道を、改札へとつづく階段に向かって歩いた。

「君は自転車でしょ。どこに置いてるの?」

「あ、駅の向こう側なんで、このままで大丈夫です」

「そうか、じゃあ俺はこっちから電車乗るよ」

「はい」

 すぐ先を右に曲がって駅舎に入ると、そこに階段がある。

「じゃあ、元気で」

「トシさんも、卒業がんばってください」

「ああ、やりとげるよ。お互いにな」

「では、またいつか」

「うん、いつかわからないけど、いつでも。じゃあね」

「じゃあ」


 イチは背を向けて、交差点のほうに歩き出した。

そのまま道をわたり、右に曲がって線路をくぐり、映画館の前を通り過ぎて行くだろう。

トシはその場を右に曲がり、駅舎の中に入って、もう一度右に曲がったところにあるエスカレーターで上階に上がった。

そこには駅舎改装中に仮設された中央改札口があった。

 その改札口の前には、いかにもプレハブ風の軽そうなアルミサッシの窓があり、その窓のところに背中でもたれかかって、さきほどの女子大生二人組みがスマートフォンを見ながら何かを話していた。

ときどきふり返って窓から外を眺めながら、昼間に見たときと同じように明るい雰囲気で、楽しそうだった。


 トシはその偶然に驚きながら、二人の前を通り過ぎて改札口を通った。

トシとイチが街をめぐり、レストランで会話していた数時間のあいだ、あの二人組みもどこかで時間を過ごしていたのだろう。

今日の午後を、かなり似たような形で過ごした同年代の異性の二人組みが、この街には、いたのだ。

だからどうということもないが、その偶然が面白かった。

 

階段を上り、プラットフォームから吉祥寺の見慣れた明かりを見ながら、トシはこの話をイチにしたいと思った。

この世界で唯一、この出来事に同じように驚いてくれるイチに話したいと思った。

トシとイチもきっと、傍目から見たら楽しそうな二人組みに見えたに違いない。

勝手知ったる街を自由に泳ぎまわる、年若き二人の青年の姿を想像するとき、そこに翳りは見当たらなかった。


 そう思うと、ロータリーをゆっくりと回っていくタクシーのなめらかな動きだとか、点滅する青信号に向かって走っていく人影の揺れ方だとか、ここからは感じられない風に撫でられているビルの屋上の角っこだとか、そういう景色の一つ一つがとても良いものに思えてくる。

 実際には、トシはこのことで特にイチと連絡を取らないし、次に会ったときにはこの出来事を忘れているのだろう。

しかし、今日の締めくくりに、この出来事と今の気分はふさわしいとトシは思った。


 イチの言っていたこと、今のイチの気持ちは、トシにもたぶんよくわかった。

トシも、明日からの日々を、来月を、来年をどんなふうに生きていけばいいのかわからなかった。

日々はとてつもなく繊細で崩れやすく、絶妙なバランスを取りながら歩みを進めていかなければならないにも関わらず、それらすべてが単なる悪い冗談でしかないようにも思える。

かつて愛した人がいたこと、その人が今は自分のそばにいないこと、これからの日々のどこにもいないこと、それらすべてが嘘みたいに軽く、とても本当とは思えないほど希薄に感じられる。

それでいて、それほど重要なことは他に何もないのだ。


 残された時の中で、少しでも楽しいことを見つけて、少しは誰かの役に立てればそれでいいと、多くは望まずに生きていくつもりだ。

それでも、人生に多大な期待をかけようと、ささやかな望みで満足しようと決めていようと、どちらにせよゼロはゼロで、虚空のむなしさに何か変わりがあるわけではなかった。

むなしさに飲まれそうになったとき、トシは自分を支えるいくつかの言葉と、今日のような日の記憶を頼りに生きていくはずだ。

歩みとは強いられてするものであり、強いられてするものであろうとも自分の旅にすることはできる、と。

姿も見えず声も聞こえないどこかで、時も空間も隔てたどこかで、イチや、その他の人々もまた、同じように歩んでいるのを、心で感じながら。



第三部 二〇一一年 二十四歳 トシとイチ

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