12.エンプティネス


 最後にハナから電話がかかってきた時、トシはロックフェラービルの屋上で強風に吹かれていた。

翌朝十一時の飛行機で、日本に帰るところだった。

「最後の見納め」をしていたのだ。

日暮れ直後のマンハッタンの空中から、景色を眺めるための透明アクリルパネルに額をつけてセントラルパークの暗がりを見つめている時、ハナからの電話が鳴った。

電話の表示を見たとき、トシは「ああ、ちょうどいい」と思った。

いささか驚くべきことではあるが、その瞬間までハナのことを忘れていたのだ。

ハナを忘れていたというより、日本に帰る前にハナに連絡しなければならないかもしれないということを思いつきもしなかった。

それでちょうどいいところに電話をかけてきてくれて助かったという気持ちで、トシは電話に出た。


 「今何してるの?」と聞かれたのでトシが現状を説明すると、ハナは「えーなんで帰るの」と言った。

「なんでって、家に帰るだけだけど」。

そう口に出してみて、トシは自分の話している内容のおそろしく筋がとおっている事に驚いた。

確かにトシには日本に帰る理由はこれといって別に無いが、帰るのに理由がそもそも必要ないのだ。

出発するときにも、ニューヨークで時間を過ごしていても、自分が日本に帰るということについて考える事はほとんど無かった。

そんな事は忘れていたのだ。

それなのに、いざ帰ると決めてみると、誰かに何も説明しなくても当たり前じゃないかと言い張れるほどに、筋のとおった話なのだ。

来たんだから、そりゃ帰るよ、と。

そして、それがハナに対して何の説明にもなっていないだろうとも感じていた。



 あの日、Q‐ティップのDJプレイを聞いた後、ハナとトシは深夜に店を出た。

およそ午前三時といったところだった。

カナルストリートから地下鉄を待ってもよかったが、その晩の二人はもう少し歩いていたかった。

チャイナタウンの中を通りたくはなかったので、カナルストリートをまずは西に向けて歩き、大通りに出たところで右に折れて、ミッドタウンへと向かった。


 深夜のダウンタウンは、さすがに人影が少なかった。

たまにクラブや賑やかなバーの外には何人かがたむろっていたり、それらの店から帰るのだろう集団が道を歩いていたりした。

それらはたいてい若者達で、すっかり今夜を楽しんだらしく嬌声を上げていたり、酩酊しすぎてフラついていたりした。

あるいはこれよりずっと落ち着いている、二人や三人組で歩く大人たちもいたし、どこへ向かっているのか一人でさっさと歩いている人もまばらに見かけた。

つまり、路上には何かと人の姿が見えて、人が減ったといっても、やはり街としてはちっとも眠っていなかった。

そんな街が地面からうなるように立ててくる心躍らせる振動と、たたずむ重厚なビルたちが森の木々のように発散している静けさとを感じながら、ハナとトシはいくつもの街灯や窓の光を通りすぎ、すれ違うクルマたちをわき目に見ながら歩き続けた。


 ウェストヴィレッジのハナのアパートにたどり着いた時、トシは今夜を素晴らしく楽しんだ事を告げた。

ハナも同感だと答えた。

それはどんなに控えめに言っても、楽しく美しい夜だった。

じゃあねと別れを告げて、相変わらず歩いて駅に向かっている時に、トシはなんとなく帰ろうと思った。

考え得る限り最も魅力的なニューヨークの生活を、もうこれ以上続けたいとは思わなくなっていた。

日本に、帰ろうと思った。



 ハナからの電話を切った後、宙に浮かんだ目だけになって、すぐそこに見えるエンパイアステートと無数のビル郡が織り成す光のじゅうたんが風にたなびくのを見つめながら、トシは少なくとも自分には帰る場所があってよかったと思った。

そうでなければ、どこにも行くあてがなくなって路頭に迷っていただろうから。

しかも、ただ迷うだけではない。

自分がどこにいるかだけでなく、どこに向かうのかすらわからない迷子になっていただろう。

それで、トシが最後に見たマンハッタンの夜景は、少し悲しいものになった。

自分には何も無いという事に気づいたからだ。


「何も無い」と言って、「何も持っていない」というだけなら、まだよかったかもしれない。

しかしトシは「何も持っていない」だけでなく、「何も欲しくない」のだった。

これは、ひどくあやういことだった。

それでトシは帰る場所がまだあったことをありがたく思いながら、日本に帰ることにしたのだった。

それ以来、トシは外に出ていない。

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