【第三部】 二〇一一年 二十四歳 トシとイチ

1.コール


 トシはキャンパスへ行くのが非常に下手な学生だった。

しかし、苦手ながらもどうにか遅々として前に進めているのは、調子のいいときには連続して講義に参加できていたからだ。


 ときは二〇一〇年代初頭の十月の始め、後期日程のちょうど中ごろ。

トシは少しずつ連続してキャンパスに行くペースをつかみ始め、単位を集めていく流れを見つけたのかもしれないと思い始めたころだった。

その日もトシは、午前中の読書を、少し不真面目ながらも形にまとめ、いよいよ十三時半からの二コマの講義に向けて、正午を目安に家を出発しようとしているところだった。


 電話が鳴った。

画面には、イチの名が表示されていた。

去年の十二月に買ったアイフォン4S。

買った二週間後に彼女にフられた原因の一部は、こいつにもあるのではないかとトシがいぶかしんでいるやつだ。

しかし、トシの人生における大きな損失の片棒を担いでいるかもしれないにしろ、二〇一一年の大学生活には、不思議とぴったりフィットする。

それで、このスマートフォンを意外と嫌いになれないのだ。


 「今日、これから空いてます?」

この一言だけで、意志は傾いた。

イチと会えばいつだって、独特の肯定感が得られたからだ。

「君は、講義は?」

「あ、木曜日は午前だけなんです。早めに終わったんで、五時からバイトなんですけど、それまで吉祥寺行こうかなと思って」

「ふーん」

「トシさん、どこっすか? 自宅?」

「うん、まあ。これから学校行こうとしてるとこ」

「あ、じゃあいいんです。トシさん空いてたら、ちょっとしゃべろうかと思っただけで」

「まあなー、それなんだよな」


 ここに、罠があるのを知っている。

キャンパス、講義、そして単位へとつながる一定のリズムは繊細で、乗り始めたなら、手放してはいけないのだ。

一度降りたら、再び乗るまでには、また同じだけの準備を必要とする。

 罠? 

たしかに、単位を取り、卒業するという目的合理的に見れば、それは罠だ。

しかし、我は単位のために生きるにあらず。

その日にもっともしたいことをすること、それすなわち人生であり、生きることではないのか。

ましてや、今日キャンパスに行かずとも、単位を取る可能性が決して消えるわけではなく、それぞれの両立は可能だという条件であるならば、なおさら。

云々。


 あっという間の深い逡巡。

この逡巡が、すでに単位へのリズムを乱しつつあると知りながら。

「空いているという概念が難しいところなんだよな。講義あるから、その意味では空いてないんだけど、しかし、別に行かないことによる不都合があまりにも小さいから、その意味では空いてると言うこともできる」

「最近、ちゃんと行ってるんですか?」

「あー、うん。けっこう行ってるんだよね。わりと、行けてる」

「じゃあ、今日も行ったほうがいいですよね」

「よくご存知で」

「どっちでもいいっすよ。ぼくは、トシさんが来てくれれば嬉しいけど、でもちゃんと卒業もしてほしいし」

「そうねー、悩みどころ。君とも、久しぶりだしね」


 どちらも、それぞれに捨てがたい。

理詰めでは答えが出ないから、どちらかに決めてしまうしかないのだ。

「ですね。まあいいです。ぼくは今とりあえず市ヶ谷にいて、これから吉祥寺向かうんで、来るなら教えてください」

「いや! いいよ、行く。大学は、大丈夫。ちゃんとやるよ」

「えー、無理しないでいいっすよ」

「いいのいいの。モヤモヤするのもあれだしね。決めちゃう。そのほうが今後のためでもある気がする」

「そうっすか、まあいいですけど」

「もう電車乗る感じ?」

トシは、市ヶ谷から吉祥寺までの所要時間と、自宅から吉祥寺までの所要時間を計りながら尋ねた。

「そうっすね、ちょうど授業終わったところです」

「そうか、じゃあ俺もこれから出るから、ちょうどいいぐらいかな」

「ぼく、ちょっとだけ用事あるんで、それからでいいっすか」

「じゃあ一時ぐらい目安に集合する?」

「そうっすね、それで、はい」

「じゃ、とりあえずそれで。また連絡するよ」

「はい、じゃあまたあとで」

「はーい」

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