3.肥沃な大地、そしてメルティングポッド


 二年前、ブルース・スプリングスティーンのライブを見に行こうとトシが決心したとき、その地にニューヨークを選んだことに、明確に意識的な理由はなかった。

ただ、トシの念頭になんとなくあったのは、ニューヨークが現代世界の中心に位置するのではないか、という予感めいた思い込みだった。

東京に生まれたトシが、ここより他の場所に行ってみようと思ったとき、単純に優位を求める未熟な上昇志向で世界を見渡せば、候補に挙がるのは海外でしかありえなかった

そしてその中でも、その選択がニューヨークになるのは当然のことだった。

世界中の「おのぼりさん」が集まってくるところとして、トシが思い描くニューヨークはあった。

そして、あれから二年が経った今でも、トシは完全な自信を持って言い切れるのだった。

ブルース・スプリングスティーンのライブを見るのにニューヨーク以上にふさわしい街は無いし、人生に大きな期待を抱いたロマンティックな二十歳の青年が訪れるのにニューヨーク以上にふさわしい街は無い、と。


 実際、それも当然のことだとも言える。

というのは、人生に大きな期待をするという発想自体、現代的自我に特有の現象であると言える。

そしてこの現代的自我を体現している国が地球上にあるとすれば、それはアメリカ以外にはありえない。

「ドリーム」という一語は、まさにアメリカのためにある。

二十歳の青年の前に広がる、どこまでも無限の可能性を秘めた、底抜けに自由の、まさしく彼のために用意された、未知なる肥沃な人生の広野。

それはそのまま、無限に広くて肥沃なアメリカ大陸そのものである。


 そのアメリカ大陸は、実際にアメリカを熟知した人の頭の中に描かれるアメリカではない。

たとえば一八〇〇年のヨーロッパで、とてつもなく広いけれども渡るのは不可能ではない大西洋を挟んだところから、ただ噂で聞いただけで好き勝手に思い描くアメリカ大陸である。

そして、大西洋を渡り、未開の処女地へと向かおうとするおびただしい人々が、まず始めに踏んだ土地、それがニューヨークなのである。

これから、肥沃な土地を切り開いて、豊かな人生を自らの手でつくり上げていこうという期待、それはつまりフロンティアを求める思考である。



マンハッタン。

未知なるもの、驚きへの扉でいっぱいの島。

ワンダーアイランド。

ジャングルランド。

大西洋を挟んで眺めるアメリカが、人生の肥沃な広がりを感じさせるのと同じように、川を挟んで対岸から眺めるマンハッタンは、空に散りばめられた星のように膨大なきらめきに満たされた、半無限の可能性を秘めた島に見える。

それらすべてのビルの無数の窓は金色にきらめき、それらの窓の一つひとつに、人生がありドラマがあり物語がある。

アメリカという国が世界中の人々に語り、世界中の人々を惹きつけてきた物語だ。

その物語の本物の舞台がそこにあり、今からあなたはそこに降り立ち、物語の登場人物になる。


 政治も、経済も、ビジネスも、学術も、ファッションも、アートも、建築も、演劇も、映画も、音楽も、ダンスも、料理も、工芸も、この街には本物の、世界一級のチャンスへのアクセスがふんだんにある。

この舞台を目指して、才能豊かで前途有望な者たちが世界中から集まってくる。

肥えて調えられた土がそこに用意され、あなたはこれからそこに降り立って芽吹くことになる種だ。

あなたはこれから、あなたが咲かせるまだ見ぬ花と、芳醇な果実を、この肥沃な土地で、あなた自身の手で育てることになる。


 象徴的な意味でのアメリカという土地はまっさらの処女地で、無限の可能性を秘めているから、青年として当然に期待するのは、素敵な異性との出会いである。

アメリカという土地がかきたてる「めぐり合い」に関するイメージがある。

そのイメージとはつまり、まったくかかわりの無い別の土地から流れてきた男女が、運命的な出会いをするというものだ。


 青年の目の前には、広大で肥沃な土地が広がっている。

その土地で、青年はたくさんの大きな喜びを得るだろう。

しかし、知恵と経験のある人ならば誰もが知っている通り、どんな大きな喜びも、誰かと分け合わなければ無に等しいのである。

青年は、まだその知恵に到達するほどの経験を重ねているわけではない。

しかし、わずかながら蓄積してきた経験と、文化的に受け継がれてきた知恵を掛け合わせて、直感的に悟っているのである。

これからの人生のフロンティアにおいて得られる、もっとも貴重な財産とは、人生を分け合うことができる誰かとの出会いなのだ、と。

さらに加えて、キリスト教的死生観においては、来世は現世と直接につながっているから、この人生で大切なめぐり合いを果たしておくことの恩恵は非常に大きい。

あらゆる物質的財産は、適切に他人に与えることによってしか天に積むことはできないが、愛はそのままで積めるのである。

そして、すべては主の思し召しであるから、めぐり合うべき男女は先験的に決まっている。


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