7.渋谷


 イチとフミが初めて一緒に出かけた週末、二人は渋谷で催されていた企画展を目当てに出かけた。

スクランブル交差点の、ハチ公からは対角線上のビルの下で二人は待ち合わせた。

休日昼の渋谷の人ごみはすさまじく、イチは前に立ってなんとか人をかきわけてフミのための進路を確保しながら道玄坂のほうへと向かい、109の前で道が分かれるところでは右に進んだ。


 渋谷はその名のとおり起伏に富んだ街で、道もさまざまに曲がりくねって入り組んでいる。

そのおかげで垂直にも水平にも、直線で解釈できる通路がほとんど存在しない。

無秩序に雑然と波打つように立ち並んだ商業ビルやレストランなどの多種多様な建築物の間を、大小さまざまな通りが気まぐれにうねっている。

それでこの街を歩く人々はいつでも行く先を見通すことができず、不意に現れる予想外の景色や到着地点に混乱させられたり喜んだりするのだ。

ある通りは人々に埋め尽くされてお互いにかきわけながら前に進むような有様なのに、角を曲がると人通りは絶えて閑静な通りが待ち受けていたりする。

大通りを歩くうちは片手側からは商店の呼び込みや売り込みの騒音にさらされ、別の手の側からは自動車やバイクのクラクションで追い立てられたりするのに、

一本わき道に入ると細い通りの両脇から、趣向を凝らして提示されたショップやカフェが一軒ずつ静かに語りかけてきたりする。



 109の前を右に向かうと遠くの正面に堂々と見えるデパートがある。

展覧会が開かれていたのは、そのデパートの裏手だった。

デパートと同じ建物にありながら、裏手にあるその入り口はじゅうたんや門柱などで少し荘厳に設えられている。

ここで、演劇やコンサートやレストランや展覧会を楽しむ事ができるのだ。

この日、イチとフミが見たのは十七世紀のオランダを中心とした絵画の数々だった。

会場はよく賑わっていたが、見るのに不自由なほど混み合っているわけでもなかった。

適切に空調が効いた少し薄暗い室内に、ちょうど眩しくない程度の光に明るく照らされた絵画が数百点ほど壁に並べられて飾ってあった。

自然と調和した当時の人々の生活風景や花瓶などの小物を描いたそれらの絵は写実的で、素人目にも美しさのわかるものだった。

曲がり角や絵が途切れる空間など、一息つけそうなところには椅子が置いてあり、絵の時代背景や画家の生い立ちなどについての記述を読む事ができた。

イチとフミは感想や意見などを思いつくままに口に出して言葉を交わしつつ、ゆっくりと会場内を進んでいって、その展覧会を味わった。


 そうして、二人で休日の時間を分け合っている事が、まずイチには嬉しかった。

それに、フミのような愛らしい女のコを目で見ているだけでもイチは気持ちよかった。

だから、いつでも視界に入れられる位置にフミがいるというその状態が、とても贅沢で好ましいものだった。

しかも加えて、イチとフミの間には、さしあたって友情とでも呼べるような信頼関係があり、気のおけない仲間としてお互いの気分や意見を言い合って遠慮せずにくつろいでいられるのだった。

これらの条件が重なっているという事をかんがみたとき、究極に言って、これ以上の他に何か望めるものがあるだろうか。

イチにはとても思いつけそうになかった。

イチはまったく現状に満足していた。



 展覧会場を出た後、フミの姿をながめ、声を聞き、おしゃべりをする事にイチは深い満足を覚えながら、二人は渋谷の街をゆっくりと歩いていった。

二人は駅のほうに戻るのではなく、駅に対して横方向になんとなく目的地も決めないままのんびりと歩いていた。

陽射しは強くて街は騒がしかったが、影に覆われた静かな通りを選んで歩いた。

二人が選んだ小道はゆるやかに左に曲がりながら少しだけ上っていて、やがて次の小道と合流した後に少しずつ下り始めた。

その下り坂の両側には、さりげなく流行を取り入れた小さなレストランやカフェがいくつも並んでいた。

なんかいい雰囲気のところだね、などと言い合いながら、イチとフミはそれぞれのお店を一つずつ点検するように、道をジグザグに歩いては、お店のセンスの良さに感嘆するのだった。

このような世界がどこかにあるとは話に聞いたりメディアで見たりして知っていたものの、その実物に出くわすのは二人ともこれが初めてだった。


 たとえば二人が最初にのぞいてみたのは、白い両開きの木戸が外側に大きく開け放たれ、そこにサンルーフを出し、

白く塗られた木製のチェアとテーブルを置いて、店内から統一された調度品で開放的な雰囲気を出したカフェだった。

次にその店の向かいを見てみると、一階が同じようにオープンテラスになっている。

その横にある小さな階段にもぐりこむように登ったところには、木々や花の鉢植えの置かれた日当たりがよくて気持ちのよい小ぢんまりとしたレストランが隠されている。

それら全体がツタに覆われて街に溶け込んでいるかのような建物だった。


 そうして、二人は一軒ずつの建物と店舗を点検するように、少しずつその通りを進んでいった。

ある店舗では、たまたま出てきた店員が、二人に優しく声をかけてくれた。そこはとおりに面した庭の向こうに大きなガラス窓が天井から床まで広がっているカフェだった。

やがてその下り坂はだんだんと急勾配になると共に騒がしくなってきて、最後は道玄坂の大通りに当たって終わりになっていた。

せっかくだから、喉も渇いたことだし、勇気を出してあのお店のどれかに入ってみようと言い合ったイチとフミは、先ほど店員が声をかけてくれたカフェまで戻った。

イチが先頭に立って庭の横を抜け、白く塗られた建物の横まで進んだところにある扉を開けて店内に入った。

調度品からフローリングも天井板も深い木目色で統一された、温かい雰囲気の店だった。

テーブルはほぼ満席で、席についた男女のうちの何人かが、入ってきたばかりのイチに目を向けた。

イチは自分よりも年齢層が明らかに高いその客達の視線に緊張し、すぐさま引き返したいような気持ちになった。

しかし、すぐに先ほどの店員が寄ってきて、優しい笑顔で迎えてくれたので、イチは救われたと思った。

カウンターキッチンに近い奥のほうに唯一空いていたテーブルに通され、イチとフミは荷物を置いて人心地ついた。

イチはチーズケーキと紅茶、フミはガトーショコラとコーヒーのケーキセットを頼んだ。

少し背伸び気味の洒落た店内でも無理することなく、馴染んでくつろいでいる事への満足感が、二人を上機嫌にさせた。

ケーキセットを食べ終えた後も、店員がグラスに注いでくれる水を舐めながら、二人はその店に座っている事に満足し、際限の無いおしゃべりに興じていた。



 やがてさすがに、どんなに居心地の良かった席にも、疲れが忍び寄る。

二人は店員にお礼を言って、明るく送り出されながら店を出た。

外に出てみて初めて意識に上ったのは、すでに夏の初めの長い日ですら暮れかけて、通りが暗くなり始めている事だった。

イチは先に立って店の庭を抜け、道に出たところでフミをふり返って待っていた。「暗くなっちゃったね」と声をかけながら、庭から通りに出るフミを迎えるように手を差し伸べた。

イチにとって、庭を抜けてくるフミが、当然のように自分の連れとして自分に向かって歩いてくるのが愛しかったのだ。

今日という一日をここまで二人で過ごしたのだから、お店から出てくるフミがイチと連れ合ってこの後も歩いていくのは当然といえば当然ではある。

しかしその時のイチには、フミが自分に向けて、自分だけに向けて歩いてくるのが奇跡みたいに特別なことに感じられた。

そうして、自分と、この先も連れ合って歩いていくためにお店から道に出てくるフミのことを、とても健気で愛しく感じたから、イチは自然と手を差し出していた。

フミは自然にその手をとって、二人は手をつなぎながら道玄坂のほうに下っていった。


 イチはその行為が、今後の二人の進み行きにとって効果的なことにすぐに気づいたし、それが自分にとって望ましい展開である事にも即座に気づいていた。

そういう完全に適切な行為を、自分がいつの間にかとても自然に振舞えたことに満足していた。

たとえばもしも、もっと意識しながら緊張して手を差し出していたならば、フミはその手をとる事を警戒してためらっていたかもしれないからだ。

そしてイチはもはや単純に、フミと手をつないで歩いている事に、少し浮かれていた。

フミと手をつないで、道玄坂の並木に覆われた坂道を静かにゆっくりと下っていく事に美しさを感じていた。

ゆるやかにカーブする坂を下っていった先には、眩しい電飾が輝いて騒がしい人々が行き交いまくる交差点と駅前の広場が、遠くに見えていた。

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