5.リスペクト


 ある日の昼、イチは、キャンパスのセンターデッキにいた。

バス停から学部棟へ向かう途中で必ず通る踊り場的な位置で、キャンパスの全体的な構造の真ん中に広い空間を生み出し、変化とアクセントをつけている。

日当たりのよいそのセンターデッキを見下ろすような形で、いくつかの学部棟や食堂が建っているわけだ。

イチが座っていたのは、そのセンターデッキの壁に沿って長く設けられているベンチの一角だった。


 午前の授業を終え、教室から教室へと、あるいは教室から食堂へと、センターデッキを次々と通り過ぎていく大勢の若者達を眺めていた。

スカート、革ジャン、キャップ、スニーカー、ハンドバック、ジャケット、ピアス、サングラス、シャツ。

若者達の外見は千差万別で、およそこの国で考えられる限りの自由な服装の見本がそこにあった。

そして砂の流れのように取り留めもなく、始めも終わりもなく流れていく人波の中に、ちりばめられるようにして輝いている女たちがあった。

女たちは花だった。

そして蜜だった。

女たちは歌だった。

女たちは水であり、魚だった。

女の髪が風に巻き上げられ、ばらけ、たわむれ、落ちてまとまる時、それは危険なまでに奇跡だった。


 向こうから集団になってイチの前へと近づいてくる女たちの、笑い合う口の端や目じりから発せられる喜びの柔らかな光。

イチの前を通り過ぎた後、膝の裏や腰の丸みが教える豊穣の恵み。

何かが明らかに正しくて、正しすぎてもはや歪み始めるほど、正しすぎて鼻の奥から血の鉄の匂いがするほど、強靭な密度と圧力で空気から酸素を奪うほどに、正しかった。

イチはベンチに座り、両膝に両肘をおいて前かがみになり、顔の前で強く両手の指を組み合わせて握り締めていた。

イチは動揺していたわけではなかった。

心拍数は平常で、呼吸も深く落ち着いていた。

イチは、自分がいるべき場所に、いるべき姿でいると感じていた。

何かが、イチの中で準備されていた。



 その日の夕方、夏への入り口に立つ、六月の終わり、試験前の一時期のことである。

三限目の授業が終わり、今日の務めを終えたたくさんの若者たちが、あちこちで仲間同士のまとまりをつくりながら、バスターミナルまでの下り坂をごった返しながら歩いていた。

この雑然とした若者たちの全体が、目前の試験への倦怠と、その後の夏への期待感が共有されているかのようで、とにかく落ち着きがなく騒がしかった。

いくつものかたまりに分かれて坂を下ってくる若者たちの、そのかたまりの中の一つは、イチと、イチが授業において見つけたあの「フミ」という女のコであった。

リュックを背負ったイチと、肩に鞄をひっかけたフミは、親しげに、それでいて活発に会話を交わしながら、坂を下りてきた。

歩調はまったく急ぐことなく、むしろのんびりしていると言っていいぐらいなのに、まるで坂を弾んで駆け下りてくるかのような活発さが二人にはあった。

もっとも、これは二人に限った話ではなく、いくつものかたまりに分かれて叫ぶように会話をしながら下ってくる若者たちのほとんどすべてに言えることでもある。


 イチは始め、フミと話す時に緊張していた。

この女のコを絶対に逃したくないと思って、力んでいた。

イチの言葉のニュアンス一つや、一挙手一投足が、フミのイチに対する印象に影響を与えている事を意識すると、思考が走りすぎて体がこわばるのだった。

しかし今となっては、イチはむしろフミによって自由になっているような気がしていた。

イチはフミと話すのが楽しくて、考えなくても自然に言葉や行動が湧いてくる。

イチがくつろいでいるから、フミとの会話も和やかで上手くいく。

上手くいくから、フミもイチとの時間を楽しんでくれているはずだという手ごたえを持てる。


 ひしめき合う若者たちの群れにまぎれて歩きながら、イチが興味あるのはフミだけだった。

こんなに可愛くて素敵な女のコと一緒に歩いていると、自分が特別な存在だと感じた。

こんな女のコと一緒にいる時、周囲の様子など気にかける必要がなかった。

なぜなら、こんな女のコと親密でいられるならば、それ以上誰に好かれようと嫌われようと、傷つく必要がないからだ。

それでイチはさらに自分に正直に、自由になれる。

しかも、それで高慢で横暴になるかというと、むしろその逆だ。

彼女にふさわしい自分でいたいから、むしろいい人間であろうと謙虚で他人を尊重するのだ。

こんな時、揺るがない自尊心にもとづいた一人の個人として、どんな相手に対しても敬意を持って誠実な応対のできる、一つの理想的な人格ができ上がる。

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