4.クラスメイト


 「お前はモテていいよな」

と、イチはゼミの友人たちからよく羨まれていた。

一方で、その同じ友人たちが、イチのことをヤリチンの人でなしだと言っているのも知っていた。

そして、そのどちらの言葉も、イチにとっては大して意味を成さなかった。


 たしかに、友人たちがそういうことを言う気持ちも、イチにはわからないではなかった。

なるほど、男としての自分が女のコから良い待遇を受けないというのは、心の土台を失うような辛さがある。

モテるという事実は男たちのあいだで格の高い地位につかせるような力を持っているところがある。

数多くの女のコを抱くのは、それ自体が何かの満足をもたらすのではないかという期待がある。

しかし、それらは実際のところ、誰かに自慢してみる以外には特に役にたたない。

モテようが、たくさんの女のコを抱こうが、その事実自体が何かの楽しみになったり、心の慰めになるということはない。

事実とは客観性であり、客観性それ自体は、心に直接に何かをうったえるということはないからだ。

その事実を、見栄を張ることに使って、いくらかの満足を得ることはできるけれど、見栄は非常食程度にしか腹を満たさない。

見栄は目的に向かって浮世をかき分けるための手段のようなものだ。


 だから、たとえば「モテる」ということについて言えば、ゼミの女のコのうちの一人はイチのことをずっと好きだったが、それはイチにとっては重要なことではなかった。

好きでもない女のコと何かをどうこう するほど、イチの生活はヒマであふれているわけではなかったし、もし仮にどれほどヒマでお手すきであろうとも、その女のコとどうこうしようという気になるとはとうてい思えなかった。

もちろん、イチにとってその女のコが重要ではなくても、その女のコにとってはイチが重要だということは承知していたから、イチはその女のコに対して特に親切にしないかわりに、特に辛くあたるということもなく、他の誰にもするような一般的な態度で接していた。

少なくともその女のコへの態度においては人でなしではない、というのはイチが自覚していることだった。



 ヤリチンだとか女たらしだとかいう評判については、たしかにイチは大学に入ってからこれまで、一人の女のコとの関係を長くつづけてはいなかったし、女のコとの関係がまったく無いという状態が長くつづくこともなかった。

その意味で、客観的に見てヤリチンだと呼ばれることを、イチはまったく不当だとは思っていなかった。

しかし、他人からどう見えようとも、一人ひとりの女のコとの関係はイチにとって真剣な恋愛で、好きでもない女のコと付き合ったことはなかったし、卑怯な裏切りをしたこともないと思っていた。

そういうわけだから、モテるからといって羨ましがられることも、ヤリチンだと非難されることも、どちらの言葉もイチにとっては空虚でしかなかった。



 ゼミの友人たちがそんなふうにおざなりにしかイチのことを見て理解していないとしても、それはイチにとって、彼らとの同窓関係を築いていくうえで障害となるものではなかった。

結局、イチのほうでもそんなゼミの友人たちには大して期待しているわけではなかったから。

その意味では、イチにとって彼らは友人ではなく、単にゼミの同窓生であるというのに過ぎなかったのだろう。


 イチとゼミ生たちを分け隔ていたのはおそらく、自信の作用だった。

誰かに愛されるためには、誰かを愛するためには、まずもって自分自身を愛さなければならない。

誰かと交流するためには、自信を持たなければならない。

自信を持たなければ、自分がどういう人間であるかということを相手に伝えることができない。

相手に伝えることができないので、相手は自分を理解して把握することができない。

理解できないので、相手は自分のことをきちんと扱ってはくれない、というより、扱うことができない。


 ゼミ生の男のコたちのほとんどは、それほどの自信を持っていたわけではなかったから、イチにとってはあまり関心の対象にならなかった。

それでいて、イチは明らかに自信を持っていた。

しかも、その自信はイチの普段の生活に土台を置いていた。

そして、その生活がもたらしたこれまでの日々への満足感もまた、イチの自信の根拠になっていた。

イチにとってそれまでの日々は、生活を自らの望む形でおくることができていたし、求めるもの(女のコからの愛情)も手に入れていた。

その自信があるから、イチはゼミ生の男のコたちから、どのように見られて何と言われようとも気にかけなかったのだ。


 それほど有用なものであるから、自信もまた一つの財産なのだ。

そして他のあらゆる財産と同じように、その功績と利益は持ち主のものだが、その原材料の大部分は持ち主に発しているわけではない。

というのは、自信は敬意を呼び集め、敬意は自信を深めさせるからである。

自信の根源的な一部はたしかにその人自身に由来するのだが、残りの大部分は、他人からその人に与えられたものだ。

イチが自信をもってふるまうからこそ、ゼミ生たちはイチに一目おかざるをえなかったのだし、ゼミ生たちから一目おかれているからこそ、イチはゼミ生たちのあいだで自信をもってふるまうことができた。

自信を持てない人はいつまでも自信を持てないし、一度自信を持つことができれば、その自信は加速度的に増す。

自分らしさとは、自分の何を信じるかにかかっていて、自分らしくあるためには他人の力を必要とする。

そして、自信と敬意は、人間の交流の触媒の一つである。

この尊重が無いところに、交流はない。

イチとゼミ生のあいだには、この違いがあり、差があった。

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