第4話
人魚姫の絵本はその日から、毎日欠かさず擦り切れるまで何度も見たが、最終的にページを束ねる糸が切れ、バラバラになってしまった。
仕方なく、手頃なダンボール箱に閉まって部屋の押入れに閉まってからは、存在すら見てもいなかった。
突然の訃報だったが、
あぁ、やはり。
という現状の深い受容はあった。
なぜだか肩の荷が下りたように感じている自分自身を知った時、その場で喉元を掻っ切ってしまおうかと思えるくらいの殺意を一寸、自らに覚えたが、すぐにそれは、嘲笑ともつかない小さな苦笑いとして消化された。
人魚姫の劇を見たのはつい先程の話だ。
コンクールを明日に控えた部活を、私は仮病を使って抜けてきた。
体調管理が一番重要なのに....すみません....とうなだれて見せる私を、誰も責めなかった。
部長と顧問は、少し慌ててすらいた。
当然だ。
文句も不平も漏らさず、愚鈍なまでに勤勉な私に、今まで体よく甘えてきたのだから。
デンマークのハンス・クリスチャン・アンデルセン作の童話、人魚姫。
泡となって消えた人魚姫のその後は、日本ではあまり知られていないらしい。
叔父さんはどんな女性に、いったいどれくらい深い愛を抱いたのだろう。
女っ気がないのは、幼い私からも、見ればわかるようなものであったし、彼は、どんな人間にも染めることのできない白さを、持っている人でもあった。
それでいて、父と母から漏れ聞く話として、女性に対して多少だらしないというか、もっと明け透けに言うなら、不特定多数の女性と気ままに関係を持っては海外に逃げる、という彼のやり口は、子供ごころにも薄々察するところではあったので、ぼんやりと知っていた。
私のためにくる日本であり我が家だと、彼は言い訳のようにたまに言ったが、日本に来る理由が、それだけではないことも、我が家に寄る理由が、それだけではないであろうことも、私は薄々気付いていた。
それでも嬉しかったのが叔父の来訪であり、私の6年という人生の中では最大の幸福であったので、子供だったから、という訳ではなく、今思っても、叔父のそういった一面については、特にこれといった感情は催されない。
叔父の訪問は最早災害に近いと、父がふざけて言っていたのは、なぜだか強く覚えている。
佳代さん佳代さん、と叔父が私の母のことを呼ぶ時の、少し跳ねるようなテンポと、時折、隠し切れない様子で細められる目、いとおしそうな声音。
男性だった。
愛する女性を目の前にした、男性の姿がそこに、あった。
彼は私の母を、彼にとっては義理の姉を、実の兄の妻に、恋をしていた。
私がそれに気付いた時。
以前から多少はあったその猜疑的な疑念を、確からしいものとした時。
それは、6歳の誕生日の、その暑い夏の日のことだった。
一度そう思えてしまえば、全てそれに関連付けて、穿った目で見てしまう。
それは人がやってしまいがちなあやまちであるが、たぶん、そうなのであろう、という根拠のないなんらかの勘も、6歳だった私にもいっちょまえに備わっていたようである。
私の顔は母似だが、鼻が高いとか、彫りが深いとか、そういった日本人離れしたいわゆる造形の派手さは、叔父によく似ていると幼少期から常々言われていた。
父の顔は平凡で、叔父とはあまり似ていない。
叔父は彼らの祖父の生き写しのようなひとだったという話を、数年前の親戚の葬式で誰かがしていた。
自分の出生に関して、私が母と叔父の不貞を疑うのは、至極自然な流れであった。
母にそのような、大きな隠しごとができるとは到底思えなかったし、叔父さんの人格を考えても、そのようなことはたぶん、しないだろう、とも思った。
思いたかったから、は両者に対してある。
父の血液型はA、母の血液型はB。
劇を見る前に立ち寄った、今日17歳を迎えた私の、生まれて初めての献血によると、私はAB型だった。
叔父さんの血液型は、O型だった。
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