2 フュミー・マリアンヌ・ド・ガリア=フランカ

 丁寧に舗装された道を転がるかたかたという馬車の車輪の音が、荒れ果てた街道のせいで不規則な不協和音に変わってしまった頃、ようやくなだらかな丘の向こうに街境の関所が姿を現した。

この距離であれば、もう幾許かのうちには目的地に到着するだろう。


 ルティーティアから発った直後はまだ辺りは深い夜の帳に包まれており、手綱を引く御者 ぎょしゃの手元に握られた松明の灯りだけが目的地へと続く街道を煌々と照らしていたが、今やすっかりと夜も明け山々の隙間からは待っていましたと言わんばかりに、朝焼けの光を伴いながら太陽が徐々にその全容を覗かせんとしている。


 昨晩は酷く冷えた。

その冷寒はすっかりと夜が明けた今も無遠慮にこの場にとどまり続け、今なお飽きもせず私を煩わせ続けている。

吐き出した息が瞬く間に白に染まり、忌々しい寒空へと立ち昇っては消えていった。


 ふと車を引く馬に目を向けると、なるほどその口元からは私と同じように白々とした吐息が小刻みに漏れ出していた。

獣も寒さを感じるのだろうか?

少なくとも、身体の芯まで冷え切ってしまいそうなこの状況下で愚痴の一つもこぼさずに黙って黙々と荷を引く彼(牝馬かもしれないが)のほうが、支配者気取りの我々人間よりもよっぽど寛容で肝が据わっているのかもしれない。


 その時、がたん、という一際大きな音と共に車体が大きく揺れた。

ロクに整備もされていない街道には、所かまわず大小様々な石塊が転がっている。

大方、そのうちの一つにでも乗り上げたのだろう。

御者が慌ててこちらを振り返り、申し訳無さそうに頭を下げた。

私が構わないという風に軽く右手を上げると、彼は再度深々と頭を下げる。

そして、一瞬だけ心底安心したような表情を浮かべると、そそくさと手綱の掻い繰りを再開した。


 それにしても酷い街道だ。

いや、寧ろ獣道と言ったほうが近いかもしれない。

移動に馬車を選んだのは決して最善ではなかったかも知れないが、それでも徒歩よりはよっぽどマシだろう。

それに、どうせ関所ここから先は歩くほかないのだ。


「有難う。ここで結構よ」


 私はそう言って、座席に立て掛けていた愛用の長物を左手でしっかりと握り締めてから、右手で外套のフードを目深に被った。

そうして馬車から滑り降りると、懐から取り出した銀貨を御者に手渡した。


「御代はこれで。余りは好きにして頂戴」


 聖鋳銀貨二枚。

路銀としては十分だろう。

少々色を付け過ぎている気もするが、別に見栄を張っているわけでも、ましてや権威を誇示したいわけでもない。

こういう手合いこそ、軽んじると後で手痛いしっぺ返しを食らうのだと、私は経験で知っている。

どれだけ保険を掛けても、掛け過ぎるということはない。


――隙を見せるな。誰に足元を掬われるか分からぬ。


 幼い頃から何度も父様に叩き込まれた言葉だ。

父親としては最低の人間ではあったが、彼の話には得も言われぬ説得力があった。

おおよそ楽しい思い出とは言い難いが、今でもふとした時に私の行動を縛り支配するのである。

それはある種、洗脳のようなものかもしれないが。


「へ、へえ。どうも……」


そんな私の胸の内を知ってか知らずにか、顔中にだらしなく不精髭を蓄えた痩せっぽちの男は、笑顔を作ることに慣れていないのか下手糞な愛想笑いを浮かべ、へこへこと何度も仰々しく頭を垂れた。

そんな彼の奇妙な笑顔を眺めながら、私はただ『保険になりそうにもないな』と、何だか冷めた気分でそう自嘲した。



「失礼ですがここから先、馬車の通行は禁止です」


 こちらも御者の男に負けず劣らずといった具合の細身の衛兵が、私のほうへ歩み寄りながらさも面倒臭そうに言った。

背は私よりも頭一つ分ほど大きいだろうか。

華奢な身体付きのせいか、はたまたこけた頬のせいなのか、実際の上背に反してこちらにどこか粗末な印象を抱かせた。

こんな辺境の関所に入用の人間など、数日に一人か二人いれば良いほうだ。

きっと一言も言葉を発さない日が少なくないに違いない。

彼の頬が随分とこけているのはきっとそのせいだろうと私は分析した。


「勿論、承知しているわ」


外の街から関所の先ロンデニウムへ武器の類を持ち込むことは禁じられている。

以前はそこまで厳しい取り締まりは無かったのだが、何処かの不届き者が積荷に大量の武器を隠して持ち込んでいたことが明るみになって以降、荷車の通行は全面的に禁止され、人の出入りにも事前の許可か通行証が必要となっていた。


「貴方も私が彼に御代を支払ったところを見たでしょう?」


 そう言って私の後ろに隠れるようにして立ち呆けていた御者の男を見遣ると、元来た街道へ向けて顎をしゃくった。

だが、男は相変わらず薄気味の悪い笑みを顔面に湛えたままその場から動こうとしない。

私は内心で舌打ちをしながら、助力を求めるように衛兵へ視線を向けた。

だが、衛兵はそんな私の期待とは裏腹に、早くしろといった様子で両掌を上に向けながら大袈裟に肩を竦めた。


 どうやらこちらに協力してくれる気はないらしい。

この卑しい男御者の言いなりにならねばならないというのは甚だ癪ではあるが、この場は致し方がない。

ただでさえこれから厄介事に臨まなければならないのだ。

これ以上、面倒を増やされてはかなわない。


 私は不毛な根競べを早々に放棄しもう一枚の銀貨を取り出すと、男の胸元に向けてひょいとそれを放り投げた。


――下種め。


 思わず低劣な言葉を口走りたくなる気持ちを抑え、再び街道の方向へ視線を向けた。

中空を舞う銀貨を覚束ない動きで受け止めた男はそれでようやく満足したのか、踵を返し馬の背に飛び乗ると、手綱を繰ってがたがたと車体を揺らしながら街道を引き返していった。


 今更後悔をしたところでどうにもならないのだが、こんなことならばやはり使用人に手配を任せるべきだっただろうか。

……まあいい。

荷馬車屋の主人も後で大口の顧客を一人失ったことに気付けば、低俗な人間を頭数目的で雇用する己の経営手法を後悔するに違いない。

この件に関してはそれで手打ちにしよう。

そう割り切ると、改めて衛兵のほうへ向き直る。


「これで満足かしら?」


「ええ、結構です。お名前と位をお願いします」


「名はフュミー・マリアンヌ・ド・ガリア=フランカ。位は第三級貴族よ」


 彼はちらりと私の顔を一瞥すると、すぐに手元の紙束に視線を落とした。

そして、恐らく通行名簿であろうその紙束を慣れた手付きで捲りながら、何度か左右に目線を往復させる。


「――本日の通行予定は無いようです。勘違いをなさっているのでは?」


 衛兵は相変わらず目線をこちらに合わせないまま、へりくだった言葉とは裏腹にへらへらとこちらを小馬鹿にするような態度で言った。


「そんなはずはないわ。事前にルティーティアの官吏から通告があったはずよ」


「そうおっしゃられましても。生憎、そういう規則ですので」


「納得出来ないわ。その通行名簿を――」


 言い掛けて、続く言葉を飲み込んだ。

先程、『第三級貴族』という言葉を聞いた瞬間に男の表情が微かに不遜なものに変わったのを私は見逃さなかった。

恐らく、この男は相手を見下して悦に入る類の人間だ。

関所の衛兵という立場を利用して他人を不当に貶めることで憂さを晴らしているのだろう。

その癖、こういった人種は圧倒的高位の相手に対しては媚びへつらう。

つまり私は、標的として手頃な位の人間と評価されたということか。

全く信じ難く嘆かわしいことだが、悲しいことにそういう人間が一定数存在するのもまた事実なのだ。


 あるいは保身だろうか。

確か以前の密送騒ぎの際には、荷車の通行を許可した衛兵も処分されたはずだ。

仮に、私の通行を許した後にロンデニウムで何らかが起これば、彼も五体満足では済まない。

ならば誰にも通行を許可しなければ良いというのは、ある意味で合理的な判断と言えなくもない。


 まあこの男の態度を鑑みると前者なのだろうが、いずれにせよそういう輩には何を言っても無駄だ。

むしろ私自身が虚しい気分になるだけだろう。

だったら、今は意味のある行動をすべきだ。


 私は懐から四つ折りにされた通行証を取り出すと、眼前の衛兵に差し出した。

そう、無駄に時間を浪費せずとも最初からこうすれば良かったのだ。


「何か問題が?」


「……ああ。いえ、滅相もない」


 衛兵は一瞬面食らったような表情を浮かべたが、慌てて元の不機嫌そうな表情を作り直す。

そうして、差し出された私の左手から通行証をひったくると、乱暴にそれを広げ上から下へと視線を走らせた。


 少しの沈黙。

衛兵の視線が下へ下へと動いていくのに比例して、彼の表情がみるみる青ざめていくのが分かった。

何せこの通行証は元老院の印章入りだ。

眼前のいかにも学の無さそうな男は、まさかが元老院に伝手を持っているなどとは夢にも思うまい。


 それにしても、今日はいやに気分を害される出来事ばかり起こる。

どのような要素が、彼等にこのような人を食った振る舞いをさせるのだろうか?

そういえば、以前にも同じような思索をしたことがあった。

あれは果たしていつのことだったか、その時はどういった結論に至ったのだったか。

と、そこまで考えて衛兵の声に思考は中断された。


「高貴なる方がこのような辺境の街に何の御用で……?」


「それは検問の一環かしら? それとも個人的なもの?」


 私の返答に、この期に及んでいらぬ好奇心を覗かせたことを後悔したのか、衛兵は慌てて大きくかぶりを振った。

先程までの尊大な振る舞いとは打って変わった男の殊勝な態度が何だか滑稽で、苛立っている自分が急に馬鹿らしく感じた。

教えてやる義理は無いのだが、別段隠すようなことでもない。


「……人探しをしていてね。大したことじゃないわ」


 言い終えて、自分の声が知らず知らずのうちに怒気を含んでいたことに気付く。

その時、私は自分が無性に苛立っている理由を初めて理解した。

ああ、私はに対して怒っているのだ――と。


「もう行っても?」


 無駄話はこれぐらいで十分だろう。

まだ何かを言いたげに口籠る衛兵の姿を尻目に、私はようやく関所を抜けて歩き出した。


「あ、あの、この度のことはどうか内密に……」


 背中越しに聞こえた男の言葉に、私は大袈裟に肩を竦めて見せた。

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