3 少女の祈り

「……ふぅ」


 一つ大袈裟に大きく息を吐いて、背丈の倍程はあろうかという大きな扉を押し開ける。

すっかり立て付けの悪くなった木製の扉は、ぎいという不協和音を奏でながらあっさりと来訪者を受け入れ、次いで眼前にがらんとした聖堂が広がった。

相変わらずのこの閑散とした風景は、どこか寂しげではあるが同時に得も言われぬ慈しみを感じさせた。


 聖堂の中央には礼拝者の為に据え付けられた長椅子が中央の通路を挟んで等間隔に並んでおり、聖堂の入口からは真紅の絨毯、いや、きっと当初は鮮やかな赤を纏っていたはずの朱色の絨毯が最奥の祭壇に向かって真っ直ぐに伸びている。

四方の窓にはステンドグラスが嵌め込まれているがその殆どは既に割れ落ち、床に敷かれたそれと同じ様に当初はさぞ純麗だったのであろう景観も今では見る影がない。

それでも年季の割には丁寧に手入れされその人型を辛うじて保っている祭壇の聖女像は、今にも崩落しそうなこの教会が決して人々に捨て去られた場所ではないということを明白に主張していた。


 それに、先程は気付かなかったが、聖堂内を見渡すと室内の燭台全てに火が灯されていた。

蝋の減り具合から見て、夜明け後すぐに信徒の者が訪れていたのだろう。

この肥溜めのようなみすぼらしい街にも、まだ敬虔な信徒が少なくとも一人以上は存在しているらしい。

かつて愚昧な人間達を導いたという古の聖女様とやらも、きっと草葉の陰で歓喜の涙に頬を濡らしていることだろう。


 尤も、外目から一望しただけでは単なる廃屋とそう大差のないこの教会――実際には内方も廃墟と形容しても差し支えないのだが――に礼拝の見返りとして得られる対価を期待出来るとはとても思えない。

しかし、街外れにあるこの古ぼけた教会での礼拝が、いつの間にか私の日課になっていた。


 いつもそうしているように何の躊躇いもなく、けれど少しばかりの敬意を込めて祭壇の偶像に向けて歩みを進める。

足を踏み出す度に、床に散乱した硝子片がまるでボロ布のような絨毯に食い込んでぎしぎしと不快な音を立てた。

そうして祭壇の前まで歩みを進めると、像の前に片膝を突いて跪き、両手の五指を交互に絡めて祈りの姿勢を形作る。

今この瞬間から朝陽がその顔を完全に覗かせるまでの僅かな時間だけが私の数少ない安息の時だ。


 この礼拝も元々は、忌々しい半身の呪縛に苛まれていた私を見兼ねた『彼女』の勧めで渋々始めたことだ。

最初は話半分に聞き流していた。

本当に彼の聖女が伝承通りの博愛主義者なのであれば、ロンデニウムこの街をもう少しにしてくれたって罰は当たらないはずだ。

それとも幸運、幸運とすら呼べないごく当然の平運ですら平等ではないというのであれば随分と選民思想の聖女様もあったものである。


 だが、痛みに眠れない夜が三十を数える頃には、そんな下らない意地の防波堤も呆気なく決壊した。

誠に不本意ではあるが、結果だけ見れば『彼女』の言い分を聞いてやったのは正解だった。

少なくとも、毎晩のように悪夢に魘されることは無くなったし、絶え間なく続く苦痛からも少しは解放されたのだから。


 本当に『彼女』に約束を守る気があるのかどうか、そもそも守ることが出来るのかどうかさえ私には分からない。

しかし私には、そんな吹けば飛ぶようなか細い希望に縋る以外の選択肢は無かった。

どのみち、今この厄介な同居人の加護を失えば、まず間違いなく私は終末を迎えるだろう。

肉体が滅びるのが先か、発狂するのが先かという違いはあるだろうが。


 決行の日は近い。

幸いこの数年で十分な数の武器が集まった。

慢性的な食糧不足を抱えるこの街の人間では兵の練度という点で不安が残るが、短期決戦であれば士気の高さでいくらでも誤魔化せるはずだ。

これまで、それこそ十分過ぎるほどの努力と準備を重ねてきた。

そろそろ報われても良い頃だろう。


 そう自分自身を鼓舞し長い長い祈りからようやく腰を上げた刹那、背後でぎいと扉を押し開ける音が聞こえた――

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