9. 猫のナップタイム
最近、「ナップタイムでは猫を飼い始めた」という噂が流れているらしい。うちの常連の女子高生でさえ「弘美さん、猫飼ってるんでしょ? どこどこ?」と言い出す始末である。まことに由々しき問題だ。うちの店員が「ちょっと今いないみたい」とか「あっちの陰にいるよ」とか答えているのは、ただ純粋に場所を答えていだけで、別に「飼っている」と言った覚えはないのよ、ホント。
そもそも、喫茶店に猫がいるはずはないのだ。猫のような不衛生な生き物が飲食店に入ってきては営業にならない。そうでしょ? ナップタイムが猫の侵入を阻止することこそあれ、諸手を挙げて猫を歓迎するなんてことが、あるはずはないのである。ないのである。ないのだ。うん、ない。おっと。餌の時間だわ。
まあ待て。たしかに、とある野良猫に首輪をつけた事はある。それは認めよう。佳奈ちゃんがペットショップで買ってきた、赤の、かわいい首輪だ。でも首輪をつけたからといって、必ずしも「飼っている」ことを意味するわけではないでしょう。だいたい、我々がそいつに首輪をつけたのは、ヤツの侵入を防ぐためなのだ。ヤツは何度もナップタイムに現れ、こっそりと内部に侵入しようとする。アタシたちはその都度ヤツを外に連れ出さねばならない。なんとか、侵入にすぐ気付く方法はないものか? 答えは簡単、“猫の首に鈴”である。そういうわけでその猫は鈴付きの首輪をつけている。いわばそれはヤツにとって呪わしいくびきであり、刑罰を受けていることを示す囚人服なのだ。「ナップタイムが飼っている」などというのは事実無根。ええ、まったく。一応、誰がつけたか明示するという意味で、ナップタイムの名前と電話番号が書き込まれてはいますよ。一応ね。
それからヤツに餌を与えたことがあるのも、認めよう。でも、それはまったくやむをえない事情からなのだ。ヤツはナップタイムの回りをうろつきまわり、「餌をくれなければ一晩中鳴き明かして近所にお前らの無情を宣伝してくれる」と脅迫してきたのである。少なくとも、アタシはそう受け取った。ヤツが甘えた声でミャーミャー言いながら、店の前をコロコロ転がっているのは、遊んでいるかに見えておそろしい脅迫なのだ。そうに違いない。うん。それでナップタイムの悪い噂が広まったら、営業に影響があるかもしれぬ。それで泣く泣く、ナップタイムの外にキャットフードだの、まぐろ缶だの、ミルクだの、いろんなものを提供しているのだ。あくまでも脅迫に屈したのであって、飼っているわけではない。ピートは……木くんが名付け親だ……れっきとした野良猫であって、別にうちで飼っているのではないのである。だから保健所の飲食店衛生課がうちに電話をかけてきて「おたくの喫茶店、猫飼ってるんじゃありません?」と聞いても、アタシは別になんらやましいトコロはなく、「いえ、猫なんて飼ってないですよ」と返事をするだろう。うん、当然。もっとも同じ保健所でも野良猫狩りをしたりするいわゆる“動物保護”の係が来るようなら、ピートをすぐに隠してしまわねばならない。もしピートが野良猫狩りにつかまったりしたら、化けて出るかもしれないからだ。そうなったらうちは化け猫カフェになってしまう。それで仕方なく、かくまっているわけである。もし保健所が気を利かせて「猫に脅されて嘘をついてるんじゃありませんか? 正直に言ってくれればお力になります」と訊いてくれれば、こちらも対応しようがあるというものだが、あいにく保健所がそんな言葉をかけてきたことはない。
そんなわけで、ピートは今日もナップタイムの店の前に我が物顔でミャーミャーのさばっている。おっと、もう餌の時間か。
「佳奈ちゃん、佳奈ちゃぁん、ピートに、餌やっておいてくれる〜?」
「はぁい」
「昨日みたいにパインケーキはやめてよ? ちゃんとしたネコ缶ね〜?」
「……」
「ちょっと、返事は〜?」
「はぁい……ちぇっ。ピートぉ、ひどいよね、弘美さん。お前にはパインケーキくれないんだって」
油断すると、佳奈ちゃんが何を食わせるかわかったもんではない。
そもそも、ピートがなんでうちに住みついて……もとい、とりついてしまったのかというと、それは高木くんのせいなのだ。
「あら。高木くん。今日シフト入ってたっけ?」
「いえ、弘美さん……ひとつお願いが……」
「なぁに? 今どき前借り?」
「いえ、そうじゃなくて……」
彼の抱えているものが、みゃぁと鳴いた。
「なになになになに? 猫? 今、猫の声がしたでしょ?」
佳奈ちゃんがキッチンから飛んできた。高木くんの抱えている子猫を見つけたとたん、ひったくるように奪う。三千里を越えて再会を果たした親子のように、ひしと抱き締めた。
「かぁいいかぁいいかぁいいかぁいい! ネコですよ〜ネコネコ。ネコネコネコネコネコ!」
すっかり言語能力が退化してしまった佳奈ちゃんをよそに、あたしは高木くんに向き直った。
「……こいつね?」
「はぁ……後をつけられまして……」
後をつけられたからって、抱えて店に入ってくる道理はない。結局高木くんは情にほだされてしまったのである。そもそもこの男、動物に弱い。動物園で一日スケッチしたりして日を過ごすこともあるらしい。
「……実家はダメなのね?」
「うちはネコはどうしても……僕以外、一族郎党みな猫を嫌ってるんですよ。なんでも、先祖伝来の因縁だか怨念だかがあるらしく……」
あんたんちはネズミの家系か?
「ネコネコネコ? ちょこけぇき! にゃあにゃあにゃあにゃあ! 弘美さぁん、この子、飼いましょうよぅ。もう仲良しになっちゃったもん」
さすがの猫も目を白黒させていると思うのはあたしだけか?
「喫茶店だから、猫はねぇ……」
アタシはシブった。と、樫山さんが口を挟んだ。
「飼ってやれば? いいじゃないの」
「樫山さん……」
と、佳奈ちゃん。
「別に保健所だってそんなに厳しく取り締まってないわよ、大丈夫大丈夫」
「樫山さん……」
と、高木くん。
「あたしが取材した喫茶店だって、けっこう飼ってたわよ?」
アタシはみんなを代表して言った。
「樫山さん……いつの間に来たの?」
「さっきからいたじゃないのよぅ」
そういうわけで、ピートはナップタイムの一員となった……あ、いや、もとい。ナップタイムは猫を飼ってません。
ところが、1週間たったある日、ピートは姿を消してしまったのである。佳奈ちゃんはもう半ベソだ。ショックのあまり、日本語が出てこない。
「ネコネコぅ。ネコネコネコぅ」
「おかしいわねぇ。なんでいなくなっちゃったのかしら」
「やっぱり弘美さんの謎の紅茶料理がマズかったのでは……いろんな意味で」
「な、なによぅ。焼き紅茶はちゃんとした料理よ。熱〜いお湯でいれた紅茶に卵、小麦粉、牛乳と、あとお好みの具を入れて焼く……」
「それよりはパインケーキの方が普通ですよぅ」
「お、おいしいのよ。夜食にもちょうどいいし……ネコまっしぐら……ホントだってば。な、なにその疑わしそうな目は……」
とりあえず、アタシの“焼き紅茶”に対する不信任動議案は先送りされた。ピートちゃん捜索委員会(なぜ行方不明の子供はいつもちゃん付けなのだろうか?)が組織され、ナップタイム全従業員がピート発見に力を尽くしたのである。高木くんはピートの肖像画を徹夜で何枚も書いた。佳奈ちゃんは近所の猫に聞き込みを開始した(これについては、アタシも高木くんも何も言わなかった。なんとなく佳奈ちゃんがホントに意思疎通しているように思えたからだ。信じにくいことだが)。保健所にも一応連絡した。非常事態なので、なんせ秘密にばかりもしていられない。
数日後、いいニュースを伝える電話がかかってきた。近所の猫好きの家が保護してくれていたらしいのだ。さっそく高木くんが引き取りに行った。あたしは、帰ってくるピートのために特製の紅茶料理を作っている。佳奈ちゃんは狂喜乱舞である。
「ネコネコネコネコ〜♪ ネコネコ!」
踊り歌う佳奈ちゃんを、食器を落としたりするんじゃないかとヒヤヒヤしながら見ていると、高木くんがピートを抱えて戻ってきた。
「ネコネコネコ! ネコネコぅ〜」
佳奈ちゃんは飛んでいって高木くんからピートを奪った。ピートもミャアミャアじゃれついて嬉しそうである。
「どうだった?」
「親切な猫好きのおばさんでしたよ。どうも、そこの猫とケンカになったらしくて」
そういえば、ピートの体にはところどころ治療の跡がある。
「じゃ、ピートがうっかりそいつの縄張りに入り込んじゃったのね」
「いや、それがそうじゃなくて……」
高木くんは言葉を濁した。
「どうも、ピートの方から襲ったらしいんですよ」
「襲った?」
「その家の猫がこれまで近所のボス格だったんですって。こいつ……その縄張りを手に入れるために、襲撃したらしいんですよ」
佳奈ちゃんの手の中でのどをごろごろ鳴らしている姿は、まだ手のひらに乗りそうな大きさで、どう見ても子猫にしか見えない。こいつが、ボス。近所の猫を束ねる、新しい親分。
「ここんとこ、姿が見えなかったのは近所の主だった猫を片っ端から襲撃してまわってたみたいで……今日のが最後の大ボスだったんだそうです」
「だって、こんなに怪我……」
高木くんは、首を振った。
「相手の猫を見たら、あっちに同情しますよ」
アタシはピートを見た。ふとピートと目が合う。みゃあと鳴くその顔に、何か凄惨な笑みが浮かんだような気がした。こ、こいつ……意外と油断できないのでは……。
「弘美さん弘美さん、ピート、おなかすいてるんだって」
「あ、ああ、じゃ、これを……」
「なんです? これ?」
「これぞ! 秘伝“焼き紅茶”よ。帰って来たら出そうと思って用意してたの。なにせ、ピートの家出の原因なんて疑惑を晴らさなくっちゃぁ。熱いお湯でいれた紅茶に卵、小麦粉、牛乳と、あとお好みの具を入れて……」
「なんだか変な……色といい香りといい……」
「た、高木くんのくせに、し、失礼な」
「パインケーキの方が普通ですよぅ」
「まあまあまあ。すべてはピートに食べてもらって、それで決めましょう」
自信満々、アタシは焼き紅茶をピートのごはん皿に移した。ピートは嬉々としてごはん皿に駆けより、鼻をくんくんさせ……ぷい、とそっぽを向くと、店から出ていった。
「……」
「……」
「あ、ちょ、ちょっと待って待って、今のなし。今のなし。ピート、待って、待ってってば……」
(おしまい)
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