6 紅茶泥棒
弘美さんはヘンな人だ。それはハッキリさせておかなくてはならない。
いつもいつも僕や佳奈ちゃんだけがヘンなようなことを吹聴している弘美さんだが、自分のことはちっともヘンだと思っていないらしい。
とんでもない。
弘美さんは、まず紅茶フリークである。文字通り、この世界中の何よりも紅茶が好きだ。恐ろしい人だ。学生時代は、貧乏だったのもあって、紅茶だけで過ごしていたらしい。紅茶は贅沢品だと言うかもしれないが、弘美さんは食費を削って紅茶に使っていたのだ。食費0で紅茶100ということもあったという。これは、決して僕が大げさに言ってるのではなくて、本人がさらっとそう言うのだ。
「いやぁ、あの頃は貧しくてねぇ」
飲み屋のカウンターに座ったおっさんみたいな口をききながら、ぐいっと紅茶のカップをあおる。この人は普段お洒落にカップの口をぬぐって上品なフリをしているが、実はこうして一気にあおるのが一番好きなのだ。ポットのお茶がどんどん減って行く。下手するとポットからラッパ飲みしかねない勢いだ。
「うっかり2ヶ月ぶんの紅茶を買っちゃったら、お金が全然残ってなくってさぁ」
酔っぱらったみたいにゲラゲラ笑う。紅茶を飲んでいる時が一番機嫌がいい。ホントに酔っているのかもしれない。酒も、弱い人ほど楽しい気分になるのが早く、酒好きになるという。きっと弘美さんもカフェインに耐性が無いのだろう。
「仕方が無いから、2週間くらい、紅茶だけで暮らしてたのよ。いやぁ……おいしかったなぁ、紅茶料理。いろんな調理法を開発してさぁ」
いくらポットを傾けても紅茶が出てこないのに気付いて、フタを開けて残ってないのを確かめる。
「なんだ、もう終わりか……」
チッと舌打ちしながら、空になったカップを名残惜しそうにのぞきこみ、ひっくり返して最後の1滴を舌の上に落とす。まるっきり酔っぱらいである。
「んでもさぁ……紅茶以外何も食べなかったら、2週間後にふらふらして倒れちゃって。んで、病院に担ぎ込まれてさ」
ゲラゲラ笑う。
「今、紅茶料理は医者に止められててねぇ。『体に悪いから』って……しかしこれがやめられますかっての。今晩も紅茶の煮込みステーキを……」
とまぁこんな調子である。この一件だけでも、いかにタイヘンな人であるかお分かりいただけたはずだ。
タイヘンと言えば、弘美さんの倉庫もタイヘンな場所である。商品の数もむちゃくちゃ多い。店に必要な量より遥かに多い量が蓄えられているのだ。国家備蓄量なみである。僕も佳奈ちゃんも、バイトとして雇われた時まず覚えなければならなかったのは、倉庫の地図だった。
僕がバイトに入る日、弘美さんがニコニコしながら、何やら紙を渡してくれた。そこには、たくさんの四角と、丸と、色鉛筆のマークが色とりどりに描かれていた。
「えーと。抽象画の批評はちょっと専門外で……」
「誰が抽象画の批評を頼んだのよっ」
弘美さんは僕の手から紙切れをひったくって、僕の前でその抽象画の説明を始めた。
「ここが入り口」
「これが? 入り口?」
「入り口に決まってるじゃないの」
「はぁ……」
見たところ、確かに何か入り口らしい。黒サインペンで“入り口”と描かれているんだから、きっと入り口なんだろう。
「何の入り口ですか?」
「うちの倉庫」
「倉庫?」
「商品の紅茶の置いてあるトコよ。商品の出し入れとか、いろいろあるじゃないの。覚えてもらおうと思って、徹夜で描いた地図なのよ」
僕はもう一度そいつを眺めた。地図としては、独創的だ。弘美さんの説明によると、どうやら色とりどりのマークは紅茶のメーカーを示しているらしい。丸や四角は紅茶缶の形だ。
「弘美さん……この重なっているところなんですけど……」
「ああ、それ。紅茶缶が重なってるの。縦に」
「はぁ……」
重ねてマークを描いたら読めないくらい考えないもんだろうか? しかもこの色からすると、5つか6つは重なっている……。
「この隣接してるのは何ですか? トイレ?」
「何言ってるのよ。このお店に決まってるじゃないの」
「え? この四角が、このお店なんですか?」
倉庫だけで、店の倍は面積がある。たしかにナップタイムは大きな店ってわけではないけれど、それでもこの倉庫はずいぶんでかい。
「あ、それから。このラインからこっちは危険地帯だから、踏み込まないように」
「危険?」
「そう。ここから先は、侵入者対策に警報と罠が仕掛けてあるから。うっかり踏み込むと危ないわよ」
「……何か大事なものでもあるんですか?」
弘美さんは、目をキラキラさせながら答える。
「そりゃもう、エリック&スミスの創立50周年限定ブレンドとか、バリオン・シャードにブレンドしてもらったオリジナルの紅茶とか……」
要するにレアものの置いてある区画らしい。後から知ったのだが、うっかり赤外線警報を踏むと、5分以内にセキュリティ会社から社員が急行してくる。ある床のタイルを踏むと、催涙ガスが噴出する。別の床は抜けるようになっていて、底まで3メートルはある落とし穴だ。凶悪なのは、倉庫の天井全体が釣り天井になっていることだ。もし誰かがそのスイッチを踏んだら、倉庫の紅茶もろとも全滅である。
「最終防衛線よ。盗まれるくらいならいっそのことと思ってさ。改装工事やってくれる会社に頼んだの」
弘美さんはそう言ってにっこり笑った。……一体どうやって改装工事の責任者をまるめこんだのか、それが不思議だ。かくも弘美さんは紅茶を愛し、紅茶泥棒を憎む。
一度だけ、この罠が作動したのを見たことがある。
といっても、もちろん釣り天井ではない。あれが作動したら、ナップタイムは在庫を失って店じまいである。作動したのは落とし穴だ。
店にサングラスをかけた、ちょっとヘンな客が入った時のことである。弘美さんが妙にニコニコとして、僕をキッチンに呼んだ。
「あのお客なんだけどさ」
「今ダージリン頼んだ、サングラスの?」
「そうそう。あれ、泥棒だわ」
「え?」
「お茶飲んだ時に、考えていることが分かったの」
弘美さんが一番ヘンなのは、お茶を飲んでいる人間の考えが読めることだ。特技とかいうレベルではない。ほとんど超能力だ。僕の意見では、きっと紅茶すき焼きの食べ過ぎでそうなったんだと思う。
「うちの倉庫を狙っているのね。セキュリティが厳重だっていうのをどっかで聞きこんできたらしくって。警備会社から情報が漏れたみたい。今度注意してやらなくっちゃ」
「って……弘美さん、ど、どうするんですか? 捕まえます?」
「バカね、何もされてないのに捕まえられるわけないじゃないの」
「だって、放っておけないじゃないですか」
「ダージリンに自白剤を盛って洗いざらい白状させるって手もあるけど……」
「なんで自白剤なんか持ってるんですか……でもそんなの使ったら、きっと後でバレてマズイことになりますよ」
「そうよね……今晩来るつもりみたいだだから、待ち伏せして現行犯で捕まえようか。店終わった後もちょっと残っててくれる?」
「警察に知らせた方がいいんじゃ……」
「こんな曖昧な情報じゃ、警察が信用してくれるかどうかわからないし。それに、あいつは倉庫に金目のものがあると思ってるみたい。万一取り逃がしても、紅茶を持ってくつもりはなさそうね」
「じゃ、佳奈ちゃんも残しておきますか?」
「いや、佳奈ちゃんはいいわ。女の子だし……」
弘美さんはため息をついた。
「それに、佳奈ちゃんがいたら騒々しくってきっと待ち伏せにならないわ」
僕もため息をついた。
「そうですね……。逆に、佳奈ちゃんには秘密にしておかないとマズイかも……でも、僕らだけで捕まえるなんて、無理じゃないですか?」
僕が心配そうに言うと、弘美さんはニヤリと笑った。邪悪な笑み。
「あいつが知ってるのは、赤外線警報装置だけよ……残りの罠を全部避けられるかどうか、見てみようじゃないの」
僕らはいつも通りに店じまいをし、電気も消して泥棒を待ち伏せた。鼻をつままれても分からないような暗闇の中、僕はすわってそわそわしていた。弘美さんは真っ暗な中手探りでお湯を沸かし、お茶を入れ、のんびりくつろいでいる。勘でポットやスプーンの場所が分かるらしい。紅茶の場所は、匂いでかぎ出すのだろう。弘美さんならやりかねない。
「ちょっと弘美さん……紅茶なんか沸かして、気付かれたらどうするんですか」
「その時はその時でいいじゃないの。別に損しないんだし」
「自分から待ち伏せしようって言ったくせに……」
「しっ。来たみたいよ」
たしかに、倉庫の方から物音がする。どうやら倉庫の窓を開けて侵入したらしい。一人だ。物音がする。抜き足差し足歩いているのが、ドアごしに店の方で待っているこちらに聞こえてくる。
「赤外線はなんとか触らないですむとしても……」
弘美さんは楽しくてたまらないといった様子で、ドアに耳を押しつけている。と、次の瞬間。
ズバン!と床が抜ける音がして、アアウ!とくぐもった叫びが聞こえた。
「かかった!」
弘美さんが叫んで、倉庫のドアを開け、電気をつけた。パッと明るくなって、倉庫の中が照らされた。僕と弘美さんは、その“危険区域”に近付いた。はたして、床がぽっかりと空いて、3メートル下の床に、泥棒がなんとか壁を上ろうと四苦八苦していた。
「なぁんだ。一番最初の落とし穴に引っかかったじゃないの。だらしないなぁ……」
弘美さんはがっかりしたように言った。
「こ、これは一体なんだ! どうなってるんだ!」
泥棒は狼狽して叫んだ。昼間、サングラスで来ていた男だ。
「あんたが昼間、店に来た時から怪しいと思っていたのよ。観念しなさい」
弘美さんは勝ち誇ったように言った。男はがっくりと首を垂れた。と、その時。
突然、落とし穴の内壁に穴が開き、そこから何か黒いものが泥棒の上に降り注いだ。僕は呆気にとられた。紅茶だ。紅茶の葉っぱが穴の中に流れ込んでいる。泥棒は不意打ちをくらって、面食らった。
「ペッペッ。なんだこりゃぁ!」
「あっ。いけない」
弘美さんは、おでこをパシッと叩いて、思い出したように言った。
「生き埋め装置、まだ作動させたまんまだわ」
「生き埋め?」
僕と泥棒の声が重なる。次の瞬間、落とし穴のフタが閉じて、泥棒を床の下に閉じ込めた。くぐもった絶叫。
「うわあああああ。出してくれ、頼む、出してくれ〜〜〜」
「ひ、弘美さん……早く止めないと」
「ん〜やっぱ殺しちゃまずいわよね」
「だいたい、なんでそんな物騒な装置をつけたんですかっ」
「だってさぁ……ムカつくじゃん。人の紅茶を盗もうなんて……二度とそんな事ができないようにしてやろうと思ってさ」
「いいから早く」
「えーっとねぇ。スイッチスイッチ……どれだったかな。これは槍だし、こっちは高圧電流……今度ちゃんとシールつけておかないとダメね……」
「早くしないと……」
「助けてくれ〜〜〜〜! 殺される〜〜〜〜」
弘美さんがムッとして言い返した。
「失礼ね〜〜。今こっちが助けてやろうとしてるのに。だいたい盗みに入っておいて図々しいわよ。殺されたって文句が言えた筋合いじゃないでしょうに。なんだったらこのまま闇に葬って……」
「だ、だ、ダメですよ弘美さん!」
「わかったわかった……あ、これかな」
弘美さんがスイッチをひねると、床の下から聞こえていた低い振動はゆっくりと静かになった。奇妙な沈黙。
「……死んだかな?」
「まさか……」
共犯になるのだけは勘弁して欲しい。弘美さんが、落とし穴の開閉スイッチをひねる。と、ゆっくりと穴のフタが開いた。僕が恐る恐るのぞきこむ。泥棒は、生きていた。ただし……白目をむいて、失神していた。首だけ出して、あとは紅茶にぎっしり埋まっている。流れ込む紅茶は彼のあごの先まで流れ込み、もう少しで彼を窒息させるところだった。
「思い知ったか、正義の力」
弘美さんが鼻でふんと笑った。
……この泥棒、翌日になって警察に引き渡されたが、極度の紅茶恐怖症にかかっており、紅茶の匂いをかぐだけで震えあがるようになったとか。二度と喫茶店に入ることはないだろう。
弘美さんはかくも紅茶を愛し……紅茶泥棒を憎んでいるのだ。
あとから佳奈ちゃんに「自分たちだけ楽しんで、ズルイなぁ」と散々言われたのは言うまでもない。
今日もナップタイムに客は来ない。佳奈ちゃんは今日は来ないシフトだ。弘美さんはひとりで紅茶をぐびぐび飲んでいる。泥棒のことを思い出していたら、ふと、疑問が浮かんだ。店が急に続けられなくなったら、弘美さんはどうするんだろう?
「ねぇ、弘美さん?」
「ん? 何?」
「いつか泥棒が入ったじゃないですか」
「え? ああ、あいつね」
「もしあの時、あの泥棒が釣り天井を作動させていたら、どうするつもりだったんですか?」
「どうするって?」
「だって、釣り天井で倉庫まるごとつぶしちゃったら、店が続けられないじゃないですか」
「ああ……でも、釣り天井のスイッチはちゃんと切ってあったのよ。それに、もう一方の倉庫があるから……」
「もう一方?」
「あれれ、知らなかった? 倉庫もう一つあるから、釣り天井使っても営業は続けるよ」
「もう一つ……倉庫があるんですか? これと同じような?」
「同じって言えばそうなんだけど、でもあっちの倉庫はねぇ。あたしの部屋の近くに借りてあるの。こっちの倉庫みたいに狭くなくって、3倍くらいの広さでさぁ」
「さ、3倍……?」
「そう。もう紅茶ぎっしり。あたし、休日は一日そこで過ごすの。もう最高に幸せだわよ。あ、だからさ。こっちの倉庫がつぶれたら、あっちから在庫持ってくるから、店は続けられるわよ。そろそろあっちの倉庫の床が抜けそうだから、もっと広いところを探してるんだけど。これがなかなか広くて近い場所ってのがなくてねぇ、波止場の倉庫を借りようかと思ってるんだよね……」
……その夜、僕は倉庫いっぱいの紅茶に生き埋めにされる悪夢にうなされた。紅茶の山の上では弘美さんが高笑いをして叫ぶのだ。
「見たか、正義の力を! ハーッハッハッハッハッハ……」
かくも弘美さんは、紅茶を愛している……。
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