5 夏のメニュー
『カフェ・ナップタイム』が空前の利益をあげたことがある。いやいや、佳奈ちゃんがバイトに入った時の、いわゆる『佳奈ちゃんラッシュ』ではない。あれとは別に、素晴らしい利益をあげたことがあるのだ。しかもその原因となったのは、我らが疫病神の高木くんだったのだ、と言ったら……果たして信じてもらえるだろうか?
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アタシたちはその時ちょうど、夏のメニューを作っていたトコロだった。
「弘美さん、アイスのメニュー増やしましょうよ〜」
高木くんがめずらしく自己主張した。彼がメニューの内容に口出しするのはめったにない。自他共に認める味オンチだからね、キミは……。でも、アイスのメニューを増やすというのは、悪くないアイデアかもしれない。アタシ自身があまり冷たいものを飲まないので、『ナップタイム』のアイスドリンクはアイス・レモンティー、アイス・コーヒー、オレンジジュースしかないのだ。考えてみると、3つというのはすごく少ない。これから暑くなろうという時期に、これは問題かもしれない。
「でも、何を作ったらいいのか、正直アタシよく分からないのよね」
「拙者、妙案がありますゆえ。しばしの御猶予を戴ければ、必ずや……」
高木くんが神妙に答える。昨日、時代劇でも見たな、こりゃ。
「ん〜苦しゅうない。試しに作ってみよ」
それまでキッチンにいた佳奈ちゃんがフロアに入ってきて、手を上げながら発言した。
「あっ、は〜い、あっしもアイスで作りたいものがあるでげす」
江戸っ子か?
「んむ。ならば、佳奈姫も作られるがよかろう。雨の降った日の午前中にでも、試食会をいたそう」
「は〜い」
ある雨の日の午前中、アタシたちは『ナップタイム・夏の新作発表会』を開始した。高木くんと佳奈ちゃんが商品モデルで、アタシはお客だ。
佳奈ちゃんがまるでトップモデルみたいに着飾って、デザートの皿を持ってしゃなりしゃなりと歩いて来た。アタシの目の前でくるっと回転し、ピタッとポーズをとる。うん、打ちあわせ通り。高木くんはバタバタやって来て、グラスを机の上にコン、と置いた。ノリが悪いなぁ、もぉ。
「アイスの品評会なのに、高木くんたら飲物を用意してるんですよぉ。アイスでいざ尋常に勝負勝負〜」
佳奈ちゃんは口をとんがらせた。どうやら、アイスクリームの品評会だと思っているらしい。
「ま、いいじゃないの。夏向きの飲物と夏向きのデザートの品評会ってことで」
あたしは2人の顔を交互に見ながら言って、溶けないうちにと、まず佳奈ちゃんのアイスを食べる。
「あ、すごくおいし〜い。フルーツソースとバニラがすごくいい感じ」
佳奈ちゃんはもう一度モデルっぽいポーズをとって、エヘン、と威張った。うー、いつ見ても愛嬌があるねぇ、佳奈ちゃんは。
「さ、高木くんのは?」
アタシは高木くんのグラスをストローでかき混ぜた。ミルクココアらしい。
「あっ、意外とおいしい」
「意外と?」
「あ、いやいや。大変おいしい」
アタシは慌てて訂正しながら言った。ヤツは意外とプライドが高い。佳奈ちゃんは一口飲んで「苦い」と顔をしかめている。佳奈ちゃんは大の甘党で、コーヒーも全然ダメなのだ。ココアでさえダメらしい。料理学校に通う佳奈ちゃんの専門はお刺し身だが、もしこの世に苦いお刺し身があったら、たとえ仕事であっても、佳奈ちゃんは料理することを拒否しただろうと思う。いや、それはともかく、このココア、高木くんにしてはおいしい。
「友達が教えてくれたココアの作り方なんですよ。シナモンをちょっぴり削って入れるんです」
「いいじゃないの。両方とも採用。それじゃ……」
「それじゃ、次はコレ」
高木くんはにっこり笑って、どこから取り出したのか、別のグラスをテーブルに置いた。
「え?」
一目見て、アタシは硬直した。それは何か危険な色をしていた。なんというか……ねっとりとした、濃い緑。
「コレ……も、アイスドリンクの候補?」
「そうですよ」
アタシには、アイスドリンクじゃなくて、低温保存された宇宙生物の血液のように見える。心なしか、液体の表面がゴボゴボ言っているような気がする。新しいカビ取り用洗剤です、と言ってくれた方がよかった。
「コレ……も、友達が教えてくれたメニューなの?」
「いいえ」
高木くんは満面の笑みを浮かべて、否定した。
「僕が考えてみたメニューなんですよ」
……アタシは、冷や汗を流しながら、何気ない風を装って佳奈ちゃんに尋ねた。
「佳奈ちゃん……」
「あ、はい」
気付くと、佳奈ちゃんは3メートルくらい向こうに遠ざかっている。に、逃げたな?
「コレ……高木くんが作るトコロ、隣で見てたんでしょ?」
「見てたことは、見てたんですけど……」
佳奈ちゃんは高木くんをチラっと見て口ごもる。
「材料については口止めされてるんですよ」
……口止めしなきゃならんもんなのか?
結局その材料が何だったのか、アタシには分からない。ただ、それを飲んだアタシは、その日の午後ずっと寝込んでいたとだけ言っておく。
『ナップタイム』のメニューは高木くんが描いている。なんといってもヤツは器用だし、美術2のアタシが描いてもろくなことにならないからだ。高木くんが来るまではあたしが描いていた。だけど、高木くんを面接して、採用することに決めた途端、高木くんが言ったのだ。
「あのぅ……」
「ん? 何? 何か質問ある?」
「メニュー……僕が書かせてもらって、いいですか」
「は?」
ここで高木くんはメニューを手にとり、ため息をついた。
「これじゃ、ちょっと、寂しいですから……」
フン! どーせアタシは美術2よ! 黒のサインペンのドコが悪いのよ! コピー用紙とビニルケースの組み合わせがシブいじゃないのさ! ヘンだ!
そういうわけで、アタシが紅茶の原稿を書き、佳奈ちゃんがケーキの原稿を書き、高木くんがそれらを編集してイラストを付けてメニューを描く。パソコンに取り込んで、キレイな厚手の紙に印刷してできあがりである。結構、これが評判がいいのだ。高木くんにしてみればひとつの作品であるから、誉められればやはり嬉しいらしい。メニューが芸術的な喫茶店というのも、なかなか珍しいかもしれないな、うん。
こうして夏のメニューができあがった。そこには、アイス・ココアと、佳奈ちゃんアイスと、そしてアタシが作ったアイス・ミントティーやアイス・アールグレイも含めて、いくつかの夏向けの品目が載っていた。中でも一番好調だったのは、高木くんの(正確には、高木くんの友達の)アイス・ココアだった。
絶好調だったと言った方がよかったかもしれない。メニュー毎の月間売り上げとしては過去最高を記録した。最も多く出たメニューだったのだ。口コミで、ココアの評判が広がり、ココア目当ての客が大量に押し寄せた。ファッション雑誌の「この夏、これを飲みに行く!」という特集にも載った。樫山さんも、雑誌に乗せてくれた。とにかく、連日品切れになる日が続くほど売れたのだ。そしてこれが元で、高木くんの商才が『覚醒』したのである。
「弘美さん、ちょっといいですか」
「あ、うん、どしたの?」
「ちょっと考えてみたんですよ。この材料費なんですけど」
高木くんは帳簿を示しながら言った。
「このタルトとこのタルト、メニューから削って、これとこれを材料兼ねるようにすると、材料費が8パーセント減らせるんですよ」
「はぁ」
「佳奈ちゃんにはオッケーもらってあるんで、それでメニュー書き直していいですかね」
「……佳奈ちゃんがオッケーなら、アタシはいいけど」
「あ、それから」
と間を置かずに高木くんは後を続ける。
「内装少しいじりたいんですけど、いいですか?」
「え、内装?」
「そんなにいじるわけじゃなくて、ちょっと絵を置きたいんですよ。知り合いがいい絵を貸してくれるらしいので」
「ん〜まあ、いいわよ」
「じゃ、それに合わせて、椅子の配置をちょっぴり変えていいですか」
「……ま、そりゃいいけど」
「じゃ、そういうことで」
スタスタと仕事に戻る高木くん。だが、なんだか高木くんらしくない。何かがおかしい。だいたい、あんな整然と話すタイプじゃない。それだけじゃなく、何か、こう、大切な何かが足りないような……。
「弘美さん、弘美さん」
佳奈ちゃんが小声でアタシの袖を引いた。
「高木くん、おかしくありません?」
「佳奈ちゃんもそう思う?」
「気付きました?」
「何?」
「高木くん……今日、まだ一度もぞうきんに触ってないんですよ」
ガツン!と頭をやられたような気がした。そうだ。今日の高木くんは、ぞうきんがけをしていない。そんなバカな。毎日、12回くらいぞうきんをかける男なのに。掃除をしない高木くんなんて……。佳奈ちゃんは心配そうに言う。
「宇宙人が用意したニセモノですかね」
また最初からいきなり現実離れした方向性を示すところが佳奈ちゃんらしい。
「でも、ニセモノだったらお粗末よ。掃除しない高木くんなんて、バレバレじゃないの」
「そこはほら、やっぱり宇宙人だから気付かなかったってことじゃないですか?」
宇宙人は掃除をしないのだろうか?
「とにかく、どうしちゃったのかしら、高木くん」
「じゃあ、じゃあ、宇宙人の作ったニセモノよりはお粗末なんだからぁ、CIAの作ったニセモノですかね……」
CIAは掃除をしないのか?
こうして高木くんは突然、経営に目覚めた。経営の合理化を開始したのである。といっても、ウェイターとしては、あんまりたいした違いはない。今までは疫病神だったからお客がおらず、そのため、掃除ばっかりしていたのである。経営に頭を使うようになってからも疫病神であることには変わりなく、やっぱり高木くんがいる時はお客は来なかった。ぞうきんがけしているか、帳簿をのぞき込んでいるかの違いだけだ。しかし、ナップタイムの経営は大きく変貌した。
高木くんは段階的にメニューのいくつかを削り、いくつかを付け加えた(こっそり例の緑色の飲物をメニューに加えようとしているのが発覚し、それは危ういトコロで差し止めた)。椅子の配置をよりよくし、内装をいじり、お客へのサービスを徹底し、帳簿の処理をキチンとし、しかも品質の向上にもつとめた。おかげで『ナップタイム』の利益はかなりのものとなり、それでいて評判は高く、客は増え続け、アタシたちの仕事も整理されて多少やりやすくなり、何もかもいいことずくめだった。いや、何もかも、ではなかった。
なにしろ、掃除をする人がいなくなってしまったのである。合理化を始めてから、高木くんはぱったり掃除をしなくなってしまった。別に高木くんを雇った時の雇用条件には『掃除をする』ってのは入ってなかったから、とりたてて文句を言うわけにもいかない。アタシと佳奈ちゃんはこまめに掃除を心がけたが、高木くんの恐るべき才能にはかなわない。佳奈ちゃんを雇った時の条件は『掃除の上手な人お断り』だったから、これまた文句を言える筋合いではない。結局アタシたちは、開き直ってしまった。別に、そんなピカピカでなくっても、お茶とケーキはおいしいんだから!というわけだ。
ただ、アタシはもう一つだけ、高木くんの『ある変化』に気付いていた。実際のトコロ、最初に気付いたのはお客さんたちだった。そしてアタシは、例の奇妙な特技によって、お客さんが紅茶を飲みながらその『変化』について考えていることが分かったのだ。ただ、アタシは当然高木くんはそれに気付いているのだと思っていた。だからアタシはずっと何も言わなかった。それは、『ナップタイム』とは無関係の、高木くんの問題だったからである。
ある晴れた日のことだった。
めずらしいことに、高木くんがいるにもかかわらず、女子高生が2人、店に入ってきた。割とよくやって来る顔見知りのお客さんだった。2人は席に付き、メニューを眺めていた。高木くんが、2人のオーダーを取りに行った。2つの紅茶と2つのケーキを頼んでから、女子高生は顔を見合わせると、高木くんに切りだした。
「あのぅ……」
「あ、はいはい、なんでしょう?」
「このメニューって、高木さんが作ってるんですよね」
「ええ、そうですよ」
「どうかしたんですか?」
「は?」
後から聞いたのだが、その2人は美術部に入っているのだそうだ。思うに、2人は高木くんの作品のファンだったのではないか。だからその違いがそれほど気になったのだと思う。だからこそ、ついつい、面と向かってそんなことを言ってしまったのではないか。
「最近、メニューがなんか冴えないから、高木さん、調子でも悪いんじゃないかと思って……」
「だって、前はここのメニューすごいキレイだったし……」
「ね、最近、色づかいもちょっと……だし」
「ね、そうだよねぇ」
そう、高木くんは経営にかまけるあまり、メニューのデザインをほったらかしにしていたのだ。特にここのところ、合理化のためにメニューの入れ替えが激しく、何度も新しいメニューに変えていたから、どうも次第に質が落ちていったようなのだ。『ナップタイム』としては、メニューは読めさえすれば特に問題ない。だが高木くんにとっては、芸術家としての死活問題である。美術2のアタシに腕が落ちたと分かるんだから、当然高木くんは自覚しているんだと思っていた。そうではなかった。お客はみんな知っていた。佳奈ちゃんも知っていた。通りがかるノラ猫でさえ知っていた。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって知っていた。みんなみんな知っていたんだ。悲しいかな、このお店に来る人のうちで、経営に没頭していた高木くんだけが、自分の腕前が落ちていることに気付いていなかったのである。
だから、この思わぬ指摘に高木くんは青ざめた。
「え……?」
2人は高木くんの顔を見て、ようやく、マズイ雰囲気に気付いたらしい。
「あっ、あ、ごめんなさい。なんでもないんです」
「そうそう、あたしたちの言うことなんて、忘れてください。ははは」
高木くんは、はは、と気の抜けたような顔をして、ふらふらとキッチンに戻ってきた。アタシにオーダーを伝えるのも忘れて、キッチンでメニューを開くと、真剣な顔でにらめっこをし始めた。アタシが見ていると、夢遊病のようにふらふらと立ち上がり、無意識のうちにぞうきんをつかんで、ごしごしとキッチンをこすりはじめた。ぶつぶつと、何か言っているのが聞こえる。
「構図はこれで文句ないし……いややっぱり、もっと動きのある構図の方が……しかしメニューの見やすさとの兼ね合いも……色合いもそうすると……」
ぶつぶつ言いながら、汚れてもいないトコロをごしごしと磨いている。アタシの横から、こわごわキッチンをのぞきこんだ佳奈ちゃんが安心したように言った。
「やっぱり、高木くんは掃除してるのが一番元気でいいですね」
……ときどき、佳奈ちゃんが怖くなる。
その晩、高木くんは徹夜でメニューを描いたらしい。翌日になって、大作を仕上げてきた。それはまさに最高の代物だと言ってよかった。傑作であった。美術2のアタシでさえ、素晴らしい出来だと思った。佳奈ちゃんも、感嘆の叫びを口にした。ただ、同時に、彼が自分を見失っていることは確かだった。いかに美術として優れた作品であっても、『ナップタイム』の戸口から中に運び込むことができないほどの大きさのメニューを、「メニューでございます♪」とにっこり笑ってお客さんに渡すわけにはいかない。佳奈ちゃんが「壁画風に、壁に埋め込んだらどうでしょう?」と言ったが、却下した。季節ごとにメニュー書き換えるんだってば。そのたびに改装工事するんかい。
それっきり、何もかも元通りになった。高木くんは経営に関して考えるのを止めてしまった。新しく書き直したメニューの評判は上々で、高木くんはほっと胸をなで下ろしている。いやいや、ぞうきんを持った手で机をなで回していると言った方がいいかもしれない。高木くんは以前にも増して掃除に精を出すようになり、掃除をしなくて済むようになったアタシと佳奈ちゃんも胸をなで下ろしている。経営の合理化による利益はしばらく続いたが、いつの間にか、もとに戻っていった。何もかも、以前と同じになった。
いや、ちょっとだけ、黒字が増えたような気もする。
今でも、高木くんのアイス・ココアは『ナップタイム』の人気商品だ。……いや、正確には、高木くんの友達の、かな。
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