3 朝来る人たち

 『ナップタイム』は午前10時に開店である。アタシは朝9時には店に出てくる。その意味では、OLだった頃とあまり変わらない。アタシが辞めてからその会社はフレックスタイムを採用し、10時出社になったと聞いているから、むしろその会社の出社時間より早いことになる。ただ、今は『ナップタイム』の近所に部屋を借りているので通勤時間は徒歩3分程度で済むし、ラッシュもない。何より、5分や10分遅刻したって誰もうるさく言う人はいない。アタシの店なんだから。


 9時30分くらいになると、高木くんか佳奈ちゃんが来てくれる。もちろん2人とも来れない時もあるし2人とも来れる時もある。で、本格的に準備にとりかかるわけだ。


 一番準備が大変なのは、ケーキだ。開店までに全部が全部焼いてあるというわけにはいかない。人気のあるメニューを中心に焼いておくことになる。佳奈ちゃんがいる日はほとんど佳奈ちゃんがやってくれるのだが、彼女がいないとアタシの担当になる。何度も言うけど、アタシ料理苦手なのだ。必死で佳奈ちゃんの猛特訓を受けて、なんとかケーキはマシになってきたものの、ちょっとでも油断すると恐ろしいものができ上がる。こないだなんか、そのおかげで高木くんのつまみ食いを発見した。あたしがオーブンの温度を数えていたら突然、高木くんが世にも恐ろしい叫び声をあげたので、びっくりして振り返ったのだ。高木くんは片手で口を押さえたまま、目を見開いてケーキを指さしている。


「なぁに? どうしたの?」


あきれるアタシに、高木くんは口をぱくぱくさせて何か言おうとするが声が出ない。ようやく、なんとかこれだけ言った。


「こ、これ……なんかマズイと思いますけど」


「さてはつまみ食いしたわね? それにしてもマズイとは失礼な」


と言ってアタシも一切れ口に放り込む。んがっ。


「ぺっぺっ、何これ!」


マズイとかいう問題ではない。殺人的だ。アタシはさっさとそれをごみ箱に放り込んで、事件を闇に葬った。後でこっそり調べたら、キッチンに置いてある磨き粉が一箱の半分くらい減っていた……それが原因だとは思いたくないが。


 まあ、もちろん普段からそんなものを作って店に出しているわけではない。この事件以来アタシは磨き粉をオーブンのそばには置かないように気をつけているし、開店前にかならず高木くんに毒味を命じている。一応、今まで、深刻なクレームを受けたことはない。……はは、大丈夫、大丈夫。たぶんね。


 まあ、ケーキ以外にも朝の準備は山ほどある。お湯を沸かし、紅茶を整理し、日替わりの紅茶を倉庫から出してきて、食器を整えるといった感じで、1時間がたつのはあっという間だ。10時になるのを見計らって、「OPEN」の札を裏返す。


 ところで、OLだった頃には、喫茶店が10時開店というのが不思議だった。繁華街の喫茶店が7時開店というのはまだ分かる。会社に行く前に立ちよって、コーヒーを飲んだりモーニングセットを頼んだりするサラリーマンがいるからだ。だが住宅街の真ん中の紅茶屋が10時に開店して、ホントに意味があるのか、心配していたのである。


 だから『ナップタイム』も開店当初は11時開店だった。早めのランチタイムくらいかな〜と思っていたのだ。ところが、店の準備をしていると、10時を過ぎた頃から、結構お客さんが来るのですよ。追い返すのも悪いので、客が来たら開店ということにしてしまっていたのだが、そのうち11時前に開店している日の方が多くなってしまい、結局10時開店ということに決めてしまった。


 開店時間直後にやって来る客の大半は、爺さん婆さん、特に婆さん連中である。都会の年寄りは仕事もないし、子供や孫ももう手を離れている。そのくせ朝6時くらいにはぱっちり目が覚めてしまい、あれこれと時間をつぶしたあげく、10時頃になると喫茶店へ来て「うちには居場所がない」とか「嫁が邪魔者扱いする」とかこぼしているわけだ。だから日によっては、午前中、店は婆さんたちの社交場と化す。アタシは、祖父母が特に厳しい人だったし一緒に暮らしていなかったので、どうも年寄りが苦手だ。高木くんは年寄りに好かれる性格らしく、店がヒマな時など、テーブルに座り込んで可愛がられていたりする。ある時など、アタシがテーブルのそばを通り過ぎると、高木くんと婆さんたちのこんな会話が聞こえてきた。


「そうなの。それじゃ大変ねぇ」


「そうなんですよ。最近の若い人はホントに掃除が下手でねぇ」


若者とは思えないため息をつくのは高木くんだ。それから声を低めて


「ココの弘美さんも……」


こらこら。声を低めてもしっかり聞こえてるってば。


「まあ、それじゃお店の掃除はあなたが?」


「ええまあ……(うなだれる)」


「あら。しっかりした人に見えるのにねぇ」


「い〜え。それが全然なんですよ。この間も……」


あんたはアタシの姑かっつーの。


 こういう「婆さん華やかなりし」時間帯に、普通の若い男の人が来たりするのはたいへん珍しい。大学生はまだ眠っている時間だ。普通の社会人なら会社に行っている時間である。1度くらいなら「まあ有給休暇でもとってのんびりしに来たのかなぁ」と思うのだが、頻繁に来るようだと「この人は一体何の仕事をしてるんだ」ということになる。


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「今日もあの人、来てますねぇ」


開店してまもなく、佳奈ちゃんがキッチンに戻ってきて言った。


「あ、ほんと。毎日よく来るわねぇ」


お客さんにンなこと言っちゃいけないのだが、ホント、毎日来る人なんてあんまりいない。


「何のお仕事してるんでしょうね?」


佳奈ちゃんは興味津々といった感じだ。。


「なんか、あんまし崩れた感じじゃないし、割とキチンとした職業なんじゃないかなぁ」


「うんうん、割と真面目な感じですよね〜」


アタシと佳奈ちゃんが話しているのは、とある男性のことである。カジュアルなシャツに割とおしゃれなズボンで、大きめのかばんを抱え、店にやってくる。玉の丸い目がねがよく似合う。ちょっと赤みがかった短い髪の毛だが、染めているわけではないらしい。温厚で、人のよさそうな顔をしている。で、ダージリンを飲んで帰っていく。大学生にしては歳が合わない。普通の会社員にしてはちょっとカジュアルすぎる感じだ。無職だったら、あんなかばんは持ってないだろう。この人物の職業が、アタシと佳奈ちゃんの最近の関心の的なのである。


「何のお仕事なんでしょうね?」


佳奈ちゃんはうんうんと首をひねって考えている。こういう話題はデリケートだ。本人に直接聞くわけにいかない。仕事について勘ぐられるのを嫌う人もいるし、万一失業中だったりしたらちょっとマズイ話題である。


「弘美さんの特技で分かんないんですか? あの人の職業……」


「そこまではちょっとねぇ」


確かに紅茶を飲んでる人の気持ちくらいは分かるのだが……。困った顔をするアタシに、佳奈ちゃんが首をかしげる。


「前には、『紅茶を飲む人を見ると、住所、氏名、年齢、職業、学歴、配偶者の有無、扶養者の数、浮気の理由や上司の評価なんかがぱっと分かる』って自信満々だったじゃないですか〜」


「佳奈ちゃん……興信所と勘違いしてない?」


いつアタシがそんなことを言ったんだ。


「でも、なんかちょっと小心者っぽいわね、あの人」


「小心者ですかぁ?」


「うん。なんか、追われているのかも」


「追われている! いいですねぇ」


「……えーと? 佳奈ちゃん?」


「ロマンチックな逃避行……いいじゃないですかぁ」


ロマンチックな逃避行だったら、一人では店に来ないと思うが。


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 アタシは、これ以上あの男性の素性が分かるとは思っていなかった。ところが意外なところから情報が入ったのである。


「あ、あの午前中に来る、若い男の人ですか?」


「高木くん……知ってる人なの?」


「いえ、もちろん直接知ってるわけじゃありませんけど、倉地さんって言うらしいですよ。割といい人でしょ?」


佳奈ちゃんが目を輝かせて尋ねる。


「えっ、えっ、じゃ、職業は何なんですか? やっぱり、逃亡者?」


佳奈ちゃん……それは職業じゃないのよ……。


「会社勤めじゃないのは確からしいんですけどね」


高木くんは、テーブルを拭く手を休めてちょっと考えた。


「そこのちょっと先のワンルームに一人で住んでいて、フルネームは倉地 寛さん、28歳くらいだったかな。数年前に都内の大学を卒業してから、しばらくは会社勤めだったらしいんですけど、2年前くらいにその会社を辞めたらしくて」


これじゃアタシよりよっぽど興信所である。


「いったいどこでそんな情報を手に入れるわけ?」


「午前中に来るお婆さんたちが、噂してたんですよ」


ああ、あの婆さん連中……恐ろしい情報ネットワークだな。佳奈ちゃんは、珍しく真剣な顔で腕組みをして考えている。


「ん〜謎は深まるばかりですねぇ。でもこれだけの情報を総合すると……やっぱり逃亡者なんじゃないかしら」


佳奈ちゃん……話、聞いてた?


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 翌日も、開店してすぐ倉地さんはやって来た。


「逃亡者さん、今日も来てますねぇ」


佳奈ちゃんは嬉しそうだ。もうすっかり逃亡者と呼ぶことに決めたらしい。


「おはよ〜。なんだか嬉しそうね」


「わ、樫山さん。また窓から入ったのね」


「人を猫の子みたいに言わないでくれる? ちゃんとドアから入ったって」


なんでこの人の時だけドアの音が聞こえないんだろうな。びっくりするじゃないか。


「そぉいえば、樫山さんも、朝早くに来るお客さんですねぇ」


と佳奈ちゃん。まあ樫山さんはいつでも来ている。この人の場合、外回りもあるし、会社がルーズだからな。


「うん、家も近いし、事務所も近いし。ライターさんも近くに住んでるしね。今も、ライターさんのトコに立ち寄ったんだけど、出かけちゃってたのよ。捕まるかな〜」


と、話していた樫山さんの目が、倉地さんと合った。


「あああっ、倉地さんこんなトコにいたんですか〜〜」


樫山さんは大声を上げて店の奥につかつかと歩み寄っていく。


「あ、あ、どうもすみません。まだちょっと……」


「んも〜。お茶はいいですけど。今日中になんとかしてくださいね」


「か、樫山さん、お知り合い?」


彼女はくるっと振り向いた。


「うちでお願いしているライターの倉地さん。エッセイストかな。ここ2、3日なかなか捕まらないと思ったら、こんなトコにいたのね〜」


「いや〜なかなか原稿が進まなくて」


と、頭をかくのは倉地さんである。


「今日中ですからねっ」


「……はい」


ぺこぺこと頭を下げる倉地さん。なるほど……追われているとは思っていたが、追っ手は樫山さんだったのか。佳奈ちゃんが、ぽつりと言った。


「愛の逃避行って、大変なんですね……」


……このどこに愛があるんだろう?


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 結局、それ以来倉地さんが午前中に来ることはなくなった。というのも、樫山さんがうちの常連だと悟ったからだ。逃げ場としてはうちとは別に、新しい喫茶店か何かを開拓したらしい。代わりに、樫山さんが午前中に顔を見せる回数が増えた。そんな時、彼女は必ず「倉地さん、来てない?」と言う。あたしたちは3人声をそろえて「来てないってば」と返事する。午後のお茶の時間、ライターの仕事が一段落した後には、倉地さんも純粋にお茶を飲みに来てくれる。


 佳奈ちゃんはあれ以来「愛の逃避行って大変なんですね……」とため息をついてばかりいる。彼女が一体この顛末のどこに「愛」を見たのかアタシには全然分からないが、彼女なりに現実とロマンスのギャップにショックを受けているらしい。おかげで佳奈ちゃんは仕事が手に付かず、お皿を割る回数が増えた。佳奈ちゃんファンの子たちの間には「弘美さんが佳奈ちゃんの人気を妬んでイジメている」という噂が飛び交っているらしい。かわいがりこそすれ、あたしが佳奈ちゃんをイジメるわけないじゃない(高木くんはイジメてもいいけど)。いったいドコからそんなデマが流されているのやら。朝っぱらからアタシがため息をついていると、フロアの方からこんな声が聞こえてきた。


「ええっ、それ、本当ですの?」


「そうなんですよ。こないだも、佳奈ちゃんがグラスを割る回数が多いって……」


「まあ。それじゃ、弘美さんが佳奈ちゃんをイジメてるってのはあながちウソでもないのねぇ」


「いい人に見えますけど、心の中では何を考えているかわかりませんからねぇ。皆様も、お気をつけになった方が……」


……高木くん。君は、店に来たお婆さんたちを相手に、いったい何を話しているのかな……?

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