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 まどかが忽然と姿を消して二年が過ぎた早春、大学を卒業して光出版へと就職を決めた真琴まことからの電話に、伊織いおりは耳を疑った。


『あの新刊の事で伊織に会えるかって言ってる……秋芳あきよしって人がいる』


 真琴が言うには、その秋芳と名乗った男が和では無い事は確かだが、和に関係のある人間かどうかは定かじゃ無いと言う。

 たまたま同じ苗字だと言う事もあるし、伊織はその教えられた秋芳と言う男の連絡先に電話をするのを躊躇った。


 あの退院の前日。

 伊織が目覚めた時には和の姿は無かった。

 翌日、退院の時にも姿を見せない和の事を不思議に思いながら、携帯に電話を入れて異変に気付いた。


 和の携帯番号は解約されていて、職場である光出版に問い合わせたら、退職したと言われた。

 和が住んでいたアパートはもぬけの殻で、伊織は計画的に和が自分の所から去ったのだと思い知らされて、それから数ケ月は何も手に着かなかった。


 去年大学を卒業した真琴は、和の事が分かるかも知れないなんて理由で在学中から光出版にバイトに通い、そのまま入社を決め、それでも唯一事情を知っていると思われる編集長から和の事について何一つ聞き出す事は出来なかった。

 ただ、和の退職届は伊織が事故った翌日にはもう提出されていて、一ヶ月病院に通う間は有給消化している様な状態だったらしいと言う事だけは分かった。

 退院して来たその日に、荷物を持ち帰ったボストンバッグの底から一通の手紙が出て来た。




 すみません、先生。急にこんな手紙を残して去る事を許して下さい。

 誰のせいとか何が理由とかでは無いんです。

 確実に言えるのは悪いのは僕だと言う事です。

 楽になりたい。憎んでくれても構いません。幻滅させると分かっています。

 また貴方を傷つけてしまってごめんなさい。

 好きになってくれてありがとうございました。




 その短い手紙は、頼りなく細い筆跡で秋芳和あきよしまどかの名が最後に書かれていた。

 あいつらしい、端的で素気ない手紙だと思った。

 それでもあの退院の前日の情事の熱が、何故、どうしてと、伊織の中で和の事を責める。


 伊織はあの日、確かに自分を好いてくれている和を抱いた筈だったのに、翌日にこんな簡素な手紙一つで忽然と姿を消した和の事が分からなくなっていた。

 何も手につかない伊織はリハビリも思う様に進まず、右手の不自由は続いた。


 それを見兼ねた真琴が、和の事を書いてみないかと言い出したのは丁度和が消えてから一年経った頃だった。


「和ちゃん、伊織の新刊読みたいって言ってたじゃん……。新刊出れば宣伝もするし、売れたら話題にもなる。どっかで和ちゃんの耳にも入るかも知れないだろ……?」


 伊織は凝りもせず、また未練がましいエゴで作品を書くのかと思いながらも、何もしないよりはよっぽどマシだと真琴に罵倒されて、【手紙】と題した新刊を一年かけて書き上げ、この早春に堂舘伊与どうだていよの筆名で発表したばかりだった。


 手紙を残して去ってしまった恋人を探す。

 ミステリーが書けなくなった伊織はそれを恋愛小説として書き上げて世に出した。

 疾走したヒロインの名はマドカ。

 未練と言うより、その作品自体が手紙の様な物だった。

 伊織は自分の中に溜まってしまった澱を吐き出す様にその作品を書き上げ、どこかで和がその作品を読んで、戻って来てはくれないかと願う。


 どうだって良いなんて思ってないのに、堂舘伊与の名で出したのは、堂舘伊与の名前に和が気付いてくれる可能性に縋りたかったからだ。

 そんな矢先に、その秋芳と名乗る男が現れたのだ。


 伊織は自分の足で去って行った和の事を知るのが怖いばかりにその秋芳と言う男の連絡先をテーブルに置いて眺め、ただ何時間も躊躇っていた。

 何を思って、あんな用意周到に姿を消したのか、もうこれ以上傷つけば大人としての自分を保っている自信は無かった。


 何もしないよりはマシだ!

 あんなに小さかった血の繋がらない弟に、掴みかかって罵倒された時、自分の不甲斐なさに泣けて来た。

 ミヤの時は、子供だったせいもあるだろうがミヤを嫌って幼児返りしたみたいに良く泣いていた真琴が、和の事では呆けてリハビリも満足にしない伊織に食って掛かった。


「そうやって死人みたいに転がってても、和ちゃん戻ってくるわけないだろ! 馬鹿兄貴!」


 でも、去って行ったのは和の意志だ。

 忘れられたらどんなにか楽だろう。憎んで良いなんて、簡単に書きやがって……。

 憎めるなら、こんなに寂寥と戦う必要もない。


「電話、しないのか……?」

武史たけしか……」

「電気も付けないで、こんな薄暗い中で……」


 部屋の明りを点けられた途端に、伊織は眩しさに瞼を伏せた。


「俺はもう、ミヤの時みたいにお前の傍には居てやれないぞ」

「何だよ、それ……別にあの時だって頼んでないだろ……」

「真琴が秋芳さんは昔のお前に似ていると言ってた……。あの時のお前は、ミヤから逃げたよな」

「逃げた……? 俺が……?」

「ミヤの事好きだったのに、手放す事で自分が楽になろうとしてた」

「そんな事は……」

「俺は別に責めてる訳じゃ無い。逃げてくれて良かったとすら思っている。お前には俺も真琴もいた。でも、秋芳さんも一緒なんじゃないかって、俺は思う。あの人の傍に誰かいてくれたとして、お前はそれで良いのか?」


 伊織は楽になりたいと書かれた和の手紙を思い出して、ハッと我に返る。

 ミヤの事が好きだから離れようとした。それは嘘じゃ無かった。

 UVEYOOLIと言うあのミヤが残した暗号は、見てすぐに分かった。

 元々、作家を目指していたのはミヤで、暗号の作り方なんかを熱心に話してくれていたから、それがアナグラムで、両親にバレない様にそうやって残したのだろうと言う事も。


 ただ、人殺しと罵られて死んだ恋人を想い続ける自分を演じる事に疲れたのは、事実だ。嫌いになったわけじゃ無いけど、出逢って恋に落ちた瞬間のミヤと狂ってしまったミヤを同じ様に愛するには伊織はまだ子供過ぎた。


「真琴がさ、秋芳さんが見付かるまで俺とは結婚しないって言い張るんだ」

「……俺のせいかよ。恨むなら法律を恨め」

「兄貴が幸せになるまでは自分だけ幸せになるわけには行かないんだとさ。だから、こんな所で手を拱いていられても困るんだよなぁ、

「そんな事言って、一生見付からなかったらどうすんだ? 見つかったとして、今でも俺を好きだって保証は無い! もしかしたら、ミヤみたいに……死んで……」

「伊織……」


 伊織はずっと口に出せなかったその言葉を最後まで吐露することが出来なくて、苦虫を噛む様な顔で武史から顔を逸らした。

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