25

 伊織いおりは内臓の炎症のせいで熱を出したり、薬のせいもあるのか度々嘔吐したりして、痛みのせいで夜は眠れずに苦しんだものの、徐々に回復して食事も食べれる様になった。


 宇部うべ真琴まことも仕事と大学の合間を縫って病院へ通って来ていたが、ずっとついているわけには行かないので、身の回りの世話は殆どまどかが見ていた。

 二週間も過ぎる頃には打撲の痛みも殆ど消えた様で、起き上がり院内を歩けるほどにまで回復していた。

 まだ右手のギプスは外れないにしても、動く様になったお蔭で夜も寝つきが良くなり、和も泊まり込む事が少なくなった。


「和、今日は帰るのか?」

「えぇ、家の事もたまにはしておかないと溜まる一方なので、また明日朝から来ますので」

「……そうか」

「淋しがりですか?」

「そうだよ? ダメ?」


 真琴に強請る様な仕草を教えたのは間違いなく伊織だろうと、和は確信した。

 眉尻を下げて、上目遣いに帰ろうとする和を引き留める。


「そんな顔してもダメです」

「冷たい……和、冷たいよ」

「じゃあ、これで我慢して下さい」


 ベッドサイドに腰掛けた和は、薬のせいで乾いた伊織の唇を濡らす様に丁寧に上唇と下唇を順番に食んで、最後に啄んで唇を離した。


「もう少し回復したら、もっと良い事してあげます」

「何それ、ヤラシイ事?」

「それは伊織さんがして欲しい事でしょ?」

「もっかい、キスして」


 困った様に笑って和は「はいはい」と子供をあやす様に口付ける。

 帰り支度をしてコートを着ている和の首筋に、長い指が這う様に滑り込んで来て、慌てて身を引いた。


「ばっ! 何してんですか!」

「えー……ちょっとくらい良いじゃん」

「ダメです」

「ケチ」

「ケチで結構です。もう帰ります。ちゃんと寝て下さいよ!」


 勢いよくドアを開けて病室を出た和は、触れられた首筋から熱が上がる。

 我慢してるのが自分だけだと思っているのか? と訝し気に眉を潜めて病院を後にした。

 和は伊織にそう言う手で触れられたら我慢が利かなくなると分かっているから、この二週間キスさえしてなかった。

 でも、あんな淋しそうな顔されたら、後ろ髪惹かれるどころの話じゃ無い。


「後、二週間……」


 指折り数える退院の日まで、和は伊織に尽くす。

 その為に有給を全部使ってまで休みを取り、べったり傍に付いているのだ。


「明日は出汁巻持って行こうかな……」


 たった一つ、思い出せた伊織の好きな物。

 そんな事しか知らない自分が、情けなく思えたあの日、唐突に訪れた喪失のリアル感を思い出すと、今でも背筋に震えが走る。


 大丈夫、大丈夫、上手くやれる。


 自分に言い聞かせる様にそう繰り返して、年明けから殆ど帰っていない自宅へと帰った。



                     *



 退院を翌日に控えたその日。

 ギプスも外れて右腕のリハビリに行った伊織の病室を片付けていた。

 この一ヶ月、ここで伊織と過ごした時間は、身体を繋ぐ事は無かったのに、担当になって初めて会ってから数か月間の中でも一番濃厚だった。

 ギプスが外れてからは、病室にノートパソコンを持ち込んで片手で仕事を始めてしまった伊織の左手をマッサージしてやったり、身体を拭いてやったり、傍に居てしてあげられる事があると言う至福に満ちた一ヶ月だった。


「和、ただいまぁ……」

「あ、お帰りなさい。リハビリお疲れ様でした」

「はぁ……疲れた」


 ベッドに横になった伊織に、和はお茶を淹れて差し出した。

 動かない腕を伸ばされるだけで激痛が走る。

 伊織は疲れたとは言うけど、嫌だとか辛いとか、そう言う言葉は一切口に出さない。

 弱音を吐かなくなったのは、距離が縮まった証拠だろうか……。

 そう思うと、和は少し淋しい気もした。


「荷物、纏めてくれたのか?」

「えぇ、そうしておけば明日すぐ帰れるでしょ?」

「出来た嫁さんで助かるよ」

「……嫁じゃないですけどね」


 真琴が伊織の家から持って来た明日着る服をハンガーに掛け、視線を逸らした。


「和、回復したら良い事してくれるって言ってたの、してくれないの?」

「……そう言う事は良く覚えてますよね」

「何してくれるのか、楽しみにしてたもん。明日退院だし、今日それして貰えるんだろ?」


 和はチラリと時計を見て、午後の回診も終わり、夕方五時半に運ばれてくる夕食まで時間がある事を確認して、病室のスライドドアのレールにハンカチを噛ませて開かない様に細工した。


「何がお望みですか? 何でもしてあげますよ」


 更に用心の為にカーテンを引いて、ベッドサイドに腰掛けて扇情的な視線で伊織を見た和は、横になった伊織に覆い被さる様に手をついた。


「どうしたんだ? えらく積極的だな……」

「こう言うのは、お嫌いですか?」

「まさか……」

「それは良かった」


 和はゆっくりと口付けて、久しぶりに触れる伊織のものへと寝間着の上からそっと手を添えた。

 ゆっくりと育てる様に掌で撫でながら、寝間着の釦を一つ一つ外して、唇を首筋からどんどん下へと這わせる。


「ちょ、待てって……和?」

「今日は全部僕がしてあげますよ。先生は黙って横になってて下さい」

「何、お前ホントどうしたの?」

「我慢してるのは自分だけだと思ってましたか?」

「したいと思ってくれてるのは嬉しいけどさ……。何と言うか、調子狂うって言うか……」

「こんな僕はやっぱり嫌いですか?」

「ちっがうよ! そうじゃないって!」


 伊織の左腕に引き寄せられて、和は胸元に頬を摺り寄せた。


「和、俺のお願い聞いてくれるか?」

「何でも……」

「なら、して欲しいって、言ってくれ。お前が望めば、俺は何だってしてやる。お前に欲しいって言われたいんだ」

「伊織さん……して。いっぱい、して下さい」


 ほら、こうやって言わされる。

 和は結局、伊織に甘えられたらNOと言えない自分を知っていて、それを嫌だと思わなくなった時点で負けているのだと思い知らされる。

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