24

 伏せられた瞼が開くのだろうか? と本気で疑いたくなる様なその姿に、触れる事すら出来ない。

 もし触れて、冷たかったら、これ以上立っていられない様な気がした。

 和はベッドから少し後退り、誰も座っていないパイプ椅子に足を引っ掛けて床に座り込む。


「無理だ……こんなの……」


 座り込んだ床は冷たく、また和の体温を奪って行く。

 例え伊織が目を覚まして、いつもの調子で喋ったとしても、何度もこんな恐怖に耐えられそうにない。

 和にとってそれは、自分が死ぬ事より恐ろしい事に思えて、俯いたまま唇を噛む。


 懐の玉を奪われ、髪に挿した花を嵐に散らされたかの様な悲しみに……。


 和は雨月物語の青頭巾にある一説を思い出した。

 見目麗しい小僧に恋した僧侶が、病で小僧をうしなった。

 その時の悲しみが、こんなに美しいものだったはずがないのに――。


 だって僧侶は悲しみのあまり小僧の屍を食べて鬼になってしまった。


 大学でこの物語をやった時には、なんて風情のある悲しみだと思ったのに、と和は自虐的に笑う。

 伊織の言った通り、死にまつわる美談なんてフィクションの中にしか存在しない。

 もしも、この事故で伊織がこの世から去っていたらと考えるだけで、立ち上がる気力さえ奪われる程の脅威が和の全身を覆って来る。


「和ちゃん……?」


 宇部へ連絡を入れに行った真琴が戻って来て、心配そうに覗きこんで来る。


「あぁ……ごめん。ちょっと気が抜けたら腰が砕けちゃって……」

「大丈夫……?」

「うん……平気」


 和は差しのべられた真琴の手を握って、何とか立ち上がりパイプ椅子に腰かけた。


「武史も今から店を閉めて直ぐに来てくれるって……和ちゃん、それまで一緒にいてくれる?」

「うん、先生の目が覚めるまでは僕もここにいるよ。会社には明日の朝、連絡入れる」

「良かった……一人だと、怖いから……」

「うん」


 真琴は空いていたパイプ椅子を触れる程近くに持って来て、和の隣に腰を下した。

 それから一時間もしない内に宇部が病室へとやって来て、箍が外れた様に真琴は泣き出す。


 あれでも我慢していたのだろう。

 宇部の姿を見るなり、堪えていたものが噴き出したと言わんばかりに声を上げて泣く真琴を、伊織を気遣って宇部が病室の外へと連れ出した。

 落ち着いて戻って来てからも宇部の傍を離れようとしない真琴を、可愛いと思いながら和は冷たくなった両手を自分で握りしめる。

 夜が更けて行くにつれて段々と疲れが出て来たのか、真琴は宇部に凭れて眠ってしまった。


「秋芳さん、眠らなくて大丈夫か?」

「あ、はい……多分、眠れないので」


 隣に座った宇部が確かめる様に顔を覗き込む。


「君がいてくれて、助かった……本当にありがとう」

「え……?」

「真琴が一人で病院にいるのかと思って、慌てたんだが……君がずっと一緒にいてくれたと真琴が言っていたから……」

「いえ……別に、何もしてませんから……」

「君も辛いだろうに、気丈な真似をさせて悪かったな」


 宇部の大きな分厚い手が和の握りしめた両手の上に置かれて、その暖かさに自分の手の異常な冷たさを知る。


「こんなに冷たくなって……」

「あ、いえ……冷え性なだけです……」


 その宇部の優しさから逃れる様に顔を背けた和は、握りしめた手が震えない様にと力を込めた。

 それから気遣う様に、伊織の昔の話をし始めた宇部の声に耳を傾けながら朝が来るのを待ち侘びた。

 伊織が目を覚まして、声を出して、生きている事を証明する瞬間を今か今かと待つ時間は、二十四年の人生の中で最も長い夜だった。


 宇部に言われて怪我をしてない伊織の左手を握ってみる。

 人肌の温もりを擁している事に、気付かれない様に安堵の溜息を漏らした。



                    *



 いつの間にか願う様に両手で握りしめ、額を付けた伊織の左手がピクリと動いた。


「……先生?」


 確かめる様にそう声を掛けた和は、伊織の眉間に寄せられた皺に瞼が開くのを黙って待った。


「……ま……どか?」

「っ! 先生……」


 和の声に、伊織が目覚めた事を察した宇部と真琴がベッドに駆け寄って来る。

 目が覚めた事を医師に伝えて来て貰い、真琴はまた泣きそうな顔で伊織の傍から離れられない様子だった。

 あまり近くにいては邪魔になると、一歩引いた所でその様子を見ていた和は、力なく笑ったり、痛みを堪える様に顔を引き攣らせる伊織の顔を、ベッドを仕切るカーテンの陰に隠れるようにして見る。

 医師が診察をしている合間に、気付かれない様に病室を抜け出した和は、会社へと電話を入れた。


「えぇ、そう言う事ですので今日は病院に付き添います。それから編集長、お願いがあります」


 もうすっかり陽が昇っていると言うのに、冷えると思ったら窓の外には雪がチラついている。

 ホワイトクリスマスか、と独り言を零してスマホをポケットにねじ込んだ。

 振り返ると病室から出て来た宇部と真琴が待っていた。


「俺達は一旦戻って入院の準備をしてくるよ。秋芳さん、昼頃までここにいて貰えるだろうか?」

「えぇ、今しがた会社には休むと連絡入れましたから、大丈夫です」

「伊織が待ってるから……早く行ってあげて、和ちゃん」

「ありがとう、真琴君」


 待っていると言われて、恥ずかしげに眉尻を下げた和は、恐る恐る病室のスライドドアを開ける。


「和……?」

「……はい」

「こっち来て。顔、見せて」

「……怒ってたんじゃないんですか?」

「怒ってない」

「でも、避けてましたよね……」

「頼むから、俺動けないから……こっち来てってば」


 カーテンの陰に隠れるようにしてもう一歩が踏み出せない和は、その隙間から右手に巻かれたギプスが伸びて来るのを黙って見ていた。


「ごめん……。まさかこんな事になると思ってなかったから、お前が折れるまで口利いてやるもんかと思ってたんだが……、俺が悪かった。だから、こっち来て顔見せて。抱きしめたい」


 和は眼前にあるカーテンを握り締めて顔を埋める様に縋り付いた。

 堪えていたものが、溢れて来る。

 誰もいなくなった病室で、伊織の声を聞くだけで簡単に崩壊してしまうそれは、鼻先の痛みを堪えようとすればするほど熱を上げてしまい、喉の奥から嗚咽に似た息苦しさが込み上げた。


「いった!」

「っ! 大丈……」


 痛みを訴える伊織に思わずカーテンを開けてしまった和は、そのまま伊織の左腕に囚われて胸に飛び込まされた。


「捕まえた」

「……何です……か……それ……」


 エタノールの匂い。暖かい心臓の音。いつもより少し掠れた声。

 ベッドのリクライニングを起こして上体を預けていた伊織は、長い片腕で器用に和を抱いた。


「良かっ……」


 最後まで言葉にならなかった和は、伊織の細腰に両腕を回してその胸に顔を埋める。


「ごめん……心配かけたな。それから、ありがとう、和」


 旋毛に口付けられて、その胸に擦り寄る。

 不意に力が入った伊織に、慌てて身体を起こすと打撲で青痣の出来た右脇を捩って堪えている。


「……ごめんなさい」

「大丈夫だ……。麻酔が切れてるから痛むだけで、打撲なんてすぐ治る」

「骨折は一ヶ月かかるって先生が言ってました」

「骨もそのうちくっつくから、大丈夫だ」

「……」

「右腕の事、心配してんのか?」

「リハビリ次第で動くんですよね……?」

「もし最悪動かなくなったとしても片手が動けば小説は書けるし、有能な編集が口述筆記してくれるってのもアリだろ? 一番困るのは片手だと和を満足にイカしてやれない事くらいか?」

「バカなんですか?」

「ははっ、でも、大事な事だろ?」

「動かせる様になって貰わないと困ります」

「やっぱり両手でアソコとアソコを同時に……」

「ちっがう! そう言う意味じゃ無いです!」

「わーかってるよ。いつか、お前の望みも叶えてやらないとだしな」

「僕の……望み……?」

「読みたいんだろ? 俺の新刊」


 どうしてこの人は、こういうタイミングで優しいのだろう。

 何も考えて無いようなふりをして、いつだって誰かの事を考えている。

 何も出来ない振りをして、何だって一人で出来てしまう。


「先生は……ズルい……」

「二人の時は先生禁止って言わなかったっけ?」

「伊織さん……」

「ふはっ……素直」


 それから和は編集長に願い出た通り、溜まりに溜まった有給を消化して一ヶ月病院に通い詰めた。

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