23

 車内は暖房が入っていると言うのに、震えが来る程血の気が引いて行く。

 指定した場所が救急病院だった事と、青褪めた和を見越して話し掛けて来る事の無かったドライバーも見かねて声を掛けて来た。


「お客さん、大丈夫です? 真っ青ですけど……」

「あ、はい……。すみません、急いで貰えますか?」


 事故と言ってもちょっと接触した程度かも知れない。

 捻挫程度で大袈裟な、と笑ってくれるかもしれない。

 真琴まことの迫真の演技に踊らされて、ちょっと悪い想像が過ぎるのかも知れない。

 大丈夫、大丈夫。

 命に関わる様な深刻な事態が、そんな日常茶飯事に起こってたまるか。

 まだ、仲直りすらしてないのに――――。


「着きましたよ」


 ドライバーのその声に、弾かれた様に顔を上げて料金を支払うと、足が縺れるのも構わずに飛び出した。

 救急搬送口で、舘田たてだの名前を伝えて中へ入ると、一足先に着いていた真琴が手術中の赤いランプをただ呆然と立ち尽くして見ている後姿があった。


「はぁ、はぁ……真琴君……」

まどかちゃん……」


 ゆっくりと振り返った真琴の目にはギリギリ堪えられた涙が溢れていて、腿の辺りで握り締められた両手が震えている。

 クシャリと寄せられた真琴の眉頭に、和の胸に痛みが走った。

 自分と変わらない背丈の真琴が、幼い子供の様に見えて和は傍に寄ってただ肩を抱いた。


 看護師の話では、直進していた伊織の車に右から突っ込んで来た車との接触で右半身の損傷が酷く、頭も強く打っているとの事だったが、詳しい事は手術が終わるまで分からないと言う。


「真琴君、ちょっと座ろう……顔色悪いし……」

「……うん」


 手術室前のベンチに真琴を座らせて、その隣に腰を下した和は、冷えた右手で真琴の背中を擦る。


宇部うべさんには連絡着いた?」

「店に出てる時は携帯持ってないから……ライン入れておいた」

「そっか……」

「何で……何で……?」


 何で、を掠れた声で繰り返す真琴はその先の言葉が出て来ないと言う風に頭を擡げて項垂れる。

 和は、幼くして両親や祖父母を亡くして、伊織に育てて貰ったと言う真琴の今の気持ちを察する事しか出来なくて、ただたどたどしく背中を擦る事しか出来ない。

 真琴がいなかったら、多分和は床に座り込んで、ポッキリ折れていたかもしれない。

 そう出来ないのは、自分以上に痛みを負っている真琴がいるからだ。


 刻々と時間を刻む腕時計の秒針の音が耳に着く。

 まだ、八時を過ぎたばかりだと言うのに人気のない手術室の前は、怪しい手術中の赤いランプと、廊下の隅でひっそりと光っている自動販売機の灯のせいで、薄暗い死の匂いを漂わせている様な気がして和はそれを誤魔化す様に真琴に寄り添った。

 冷たくなって行く身体で真琴の体温を奪う様に寄り添い、肩を抱く手に力を込めた。


 一瞬、ランプが消えた暗闇に心臓が動き方を忘れた。


 息苦しさに固唾を飲んだ和は、開いた扉から出て来た医者の顔を見た後、ストレッチャーに横たわる伊織の蒼白い顔がスローで見えた。


伊織いおり! 伊織!」

「大丈夫ですから! 落ち着いて下さい!」


 ストレッチャーに飛びつく真琴を抑え込む様に看護師が制した。


「ご家族の方ですか?」


 淡々とした医師が和を見てそう声を掛ける。


「あ、彼が……」


 和はストレッチャーを見送って呆然と立ち尽くす真琴の背中へと視線を向けた。


「真琴君……先生の話を聞こう……」

「伊織は? どうなんですか? 先生!」


 掴みかかる勢いの真琴を、和は慌てて止める。


「ま、真琴君……」


 睨むように見る真琴に、医師は慣れているとでも言いたげにマスクを外して喋り出した。


「大丈夫です。脳に異常は見られません。ただ、骨折と全身の打撲、それから……右肘の損傷が思ったより激しい様です。骨折の方は全治一ヶ月と言った所でしょうけど……」

「右肘の損傷……?」


 和は医師の言葉を拾い上げて復唱した。


「割れたガラスが神経近くに傷をつけてまして、リハビリ次第で動く様にはなると思いますが、少し時間が掛かるかも知れません。命に別状は在りませんが、右手ですからね。仕事への復帰などは時間を要するかもしれません」

「でも、死なない? 死んだりはしない?」


 真琴はそれが一番大事だと言う様に、繰り返して医師に詰め寄る。


「えぇ、大丈夫です。今は麻酔で眠ってますが、麻酔が切れた後が痛むでしょうから、傍に付いていてあげて下さい」

「ありがとう、ございました……」


 真琴の代わりに頭を下げた和は、真琴の背中に手を当てて病室へと促した。


「大丈夫? 真琴君……」

「ん……ごめんね、和ちゃん。ちょっと取り乱しちゃった」


 やっと少し笑う余裕が出来たとばかりに、眉尻を下げて口角を上げた真琴に、和もホッと胸を撫で下ろす。

 舘田伊織たてだいおりのネームプレートのある病室に二人して入って、点滴をぶら下げて横たわっている伊織を見て和は足が竦んだ。


 こんな思い、後何回味わう事になるんだろう。


 大事な人が死ぬかもしれない。

 そんな事今に始まった節理じゃないはずなのに、大事なものを手に入れたらそれと向き合う事が怖くて、さっきまで真琴の前で強がっていた自分が嘘みたいに崩れて行く。


「和ちゃん、オレ武史たけしに連絡入れて来る」


 一頻り伊織の顔を覗き込んで安心したのか、真琴はそう言って病室を出て行った。


「……先生」


 右の頬に大きなガーゼを貼りつけられている伊織の顔は、カーテンの隙間から漏れる月光も手伝っているのか、死人のように蒼い。

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