22

 翌朝、スマホの着信を知らせる震動で目を覚ました。

 暖かい布団の中から腕だけを伸ばしてスマホを確認したまどかは、そのディスプレイに出た名前に驚いて、飛び起きた。


「……もしもし」


 伊織いおりを起こさない様に布団から這い出して、受話口に片手を添えて声を落とす。


『和、久しぶりだな。元気にしてるのか?』

「はい……お久しぶりです。つかささん」

『朝早くに悪いな。寝てたか?』

「いや、大丈夫……もう起きる時間だったし……」

『正月は帰って来れるのか?』

「すみません。多分仕事で……無理だと思います」

『そうか……。電車ですぐなんだから、たまには帰って来いよ。菜月なつきも待ってるから』

「はい……」


 久しぶりに聞いた声に、緊張してスマホを切った途端に大きな溜息が漏れた。

 帰れるわけないだろ……。

 そう独り言を零して、スマホをテーブルに置いて座り込むと、後ろから伊織に抱き付かれる。


「わっ!」

「司さんって誰?」

「お、起きてたんですか? おはようございます……。ちょっとした知り合いですよ」

「ふぅん……。その割には、コソコソしてた」

「起こしちゃ悪いと思って……すみません」


 右肩に埋められた伊織の顔に、早朝から熱が出そうな程過剰反応する和は、カーテンの隙間から覗くベランダへと視線を逸らした。


「お前は何にも教えてくれないよな」


 耳元で囁かれて、抱きしめた腕の力が強まる。

 別に、話した所で良い話でも無い。

 気を遣わせてまで、知らせる様な事でもない。

 知らなくたって伊織との関係に支障は無いのだ。

 寧ろ、一つ開示すれば色々と暴露せねばならない事が芋づる式に出て来て、和にとって都合が悪い。


「話す程の知り合いでもないですよ。昔お世話になった方です」


 笑っていれば、疑われない。これ以上、詮索されたくない。


「そうやって下手な作り笑いするほど、隠したい事なのか?」

「下手なって……僕が笑うと、突込みがいつも厳しいですね。そんなにオカシイですか?」

「笑ってねぇだろ」

「笑ってますよ」

「こっち見て言えよ」

「朝から絡まないで下さい。仕事あるんで、朝ご飯作らないと……パンで良いですか?」


 伊織の追求から逃れる様にその腕を擦り抜けて、キッチンに立った。

 それ以上、伊織が司の事を聞いて来る事は無かったが、納得してないと言う空気を抑える気は無かった様で、微妙なまま家を出る。


 帰り際に「俺はあんまり好かれてないよな」と耳を疑う様な一言を零して、颯爽と黒い愛車に乗り込む伊織に、和は否定する間も無く、発車した車の排気ガスをもろに被っても暫くそこから動けなかった。



                    *



 それから食事を作りに行っても仕事部屋から出て来ない伊織に、弁解の余地もないまま二週間が過ぎた。

 もう明日はクリスマスイヴだと言うのに、こんなに長く顔を見れなくなるとは思っていなかった和は、返事すら怪しい仕事部屋に籠った伊織にどう対処したら良いのか、もはや万策尽きていた。


 真琴からはあの後すぐに家のパソコンに真琴から提出完了の報告と、携帯番号が書かれたメールが届いていて、返信する時に自分の携帯番号を書いて返した。

 それから時々電話が掛かって来る様になったが、内容はもっぱら試験やレポートの事で、人の懐に入るのが上手い真琴は、絶妙な間隔で連絡を寄越して来る。


「もしもし……?」

『和ちゃん、明日何時くらいに来れそう?』

「あぁ……でも、先生忙しそうだから僕は良いよ」

『何言ってんの! 伊織との初めてのクリスマスなのに!』

「いや……僕も仕事が読めなくて、行けるかどうか定かじゃないから……」

『えー……そうなのぉ? せっかく楽しみにしてたのにぃ……』

「ごめん。行けそうだったら、行くから」


 和は懐いてくれる真琴をバッサリと断る事も出来ないが、逃げ道が欲しかった。

 会いたくない訳じゃ無いし、寧ろちゃんと顔を見て話がしたい。

 どう言ったら良いかはまだ分からないけど、今のままじゃダメな事だけは分かっていた。それでも、ノックしても声を掛けても短い返事が仕事部屋の扉の向こうから返ってくるだけの二週間が、和を逃げ腰にする。


 好きになると相手の事が分からなくなる病気なのかも知れないと、本気で考える程度には考えた。

 あの高校の時の初めての相手以来、そんな気持ちを味わった事は無かったのに、伊織が何を考えているのか全くと言って良い程分からない。

 和は仕事が終わると同時に何かプレゼントを見に行こうと街へ足を向けた。

 会いに行くかどうかも決めかねているのに、もしかして喜んで貰えるかも、と言う期待が和を街へと誘い出す。 

  

 飴の様な電飾が街中に飾られていて、今まで無縁だった世間のイベントでも、伊織の事を考えているだけで味わった事のない高揚があった。

 社交辞令じゃ無い、伊織の為に何かしたいと言う純粋な気持ちが街中のイルミネーションを華やかに見せて、和は着古したダッフルコートの襟元を気恥ずかしさに直す。


 普段は会社と家の往復か、息を切らして駅までダッシュして電車に乗り込み伊織の家まで行っている故に、こんなにゆったりと街を歩くのは久しぶりだった。

 クリスマス商戦真只中のショーウィンドウは、リボンの掛けられたギフトボックスがそこかしこに飾られていて、腕を組んで歩く恋人達がいつもより三割増しで目につく様な気がした。


 そんな中を一人で歩きながら和は首を傾げた。

 伊織が装飾品を付けているのを見た事が無い。

 見た事あるのは眼鏡くらいで、ほぼ自宅警備員の様に籠っている伊織が腕時計を付けているのも見た事が無い。

 香水を使っているのは知っているが何処のブランドのものかなんて、香水を使わない和には分からない。煙草も吸っているのを見た事が無い。

 服のサイズも、靴のサイズも、漠然としていて何一つ確実にこれと分かるものが無かった。


「……ヤバい。本当に、何あげたら良いのか分からない」


 考えながら勢いで口を突いて出た独り言に、思わず片手で口元を覆う。

 振り返ってみてもそれらしき情報が一つも出て来ない。

 和は付き合う様になってから片時も伊織の事を考えない時は無かったと言うのに、何も知らない自分に呆れて溜息をついた。


 俺はあんまり好かれてない――――伊織にそう言わせてしまったのも、頷ける。

 自分の保身ばかりで、何一つ彼の事を知ろうとしてなかった。

 和はそう考えると自分の残念さ具合にほとほと嫌気が差して、入ろうとしたデパートの入口から踵を返した。


 たった一つ、伊織の好きな物を思い出して、腕時計をチラ見した。

 まだ間に合う、と走り出そうとした時、スマホが鳴って足を止める。


「真琴君……?」


 ディスプレイには真琴の名前が出ていた。


「もしもし? どうしたの?」

『ま、和ちゃん!』


 息を切らした真琴が、次の言葉を探す様に押し黙る。


「な、何……? どうかした?」

『い……おりが……事故って……』

「え……?」

『どう、しよう……どう……』

「ま、真琴君、落ち着いて。今、どこ? 先生の状況は?」

『分かんない……さっき、連絡あって……坂之上救急病院に運ばれたって……』

「坂之上救急病院だね?」

『た……武史にも連絡着かなくて……オレ、オレ……どうし……』


 涙を押し殺し、痙攣を起こしたかの様な浅い呼吸がスマホを宛がった耳元に響く。


「真琴君、僕も今から病院に向かうから……落ち着いて。とにかく病院で落ち合おう」

『うん……うん……ごめん、和ちゃん……』


 相手がテンパってると冷静になると言うのは本当らしい。

 気が動転している割に、迷わずタクシーを拾って救急病院へと急ぐ。

 タクシーに乗っている間に指先から熱が引いて、氷の様に冷たくなって行くのを握り締めながら堪えた。

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