21
部屋へと戻って来て、悪戯した犬の様な目で
「真琴、俺は自分でやれって言ったよな?」
「だって、一人じゃ終らない……って思っ……」
「そんな事、和には関係ないだろ」
「だって、和ちゃんに教えて貰ったらちゃんと優貰えたんだもん」
「だっても、クソも、あるか! もん、ぢゃねぇんだよ!」
「ごめんなさい……」
正座して言い訳虚しく俯いてしまった真琴は、チラリと和に視線を寄越す。
「……先生、その位にして進めないと僕も寝れませんから」
「ったく……下書きしたヤツあんだろ? 寄越せ」
真琴が伊織のその言葉に、弾かれた様に顔を上げて恭しく下書き原稿を両手で差し出す。
「……先生がやるんですか?」
「和君、俺はね、恋人との時間をこいつに邪魔されるのは納得いかないのだよ。こいつがタイピング遅いの知ってんだろ? 待ってられるか!」
「カッコつけて下らない事熱弁しないで下さい」
「残り、半分くらいだろ。こう見えてもプロなんだ、一時間かかんねぇよ」
「能力の使い方、間違ってる気がしますけど……」
「恋人の為なら、出し惜しみする方が間違ってるだろ」
「……一か所訂正します。弟の為ですから、お間違えの無い様……」
「和、打ち終わったら一応誤字チェックしてくれ」
「あぁ、はい……」
多分そうするつもりで来たのだろう。
脱いだジャケットの胸ポケットからブルーライトカットの眼鏡を取り出して、流石プロと言った速さでタイピングし始めた伊織が、弟を放っておけない兄に見えて和はこっそりと笑う。
隣で正座したまま伊織が打っている様を大人しく見ている真琴も、お兄ちゃんには逆らえない弟に見えて来る。
「コーヒーでも、淹れましょうか? 先生」
「あぁ、助かる。ブラックがいい」
「あ、オレ、甘いのが良い!」
「真琴、お前が淹れて来い。人様の世話になってんじゃねぇよ」
「はい……」
キッチンへと着いて来る真琴が、しょげた犬に見えてしょうがない。
「先生、来てくれて良かったね」
「うん、来ると思ってたけどね」
声を抑えた真琴が、ペロッと舌を出す。
「……確信犯なの」
「和ちゃんの所に来たら絶対来ると思ってたんだ。大成功だね」
弟の方が一枚上手だった。
合掌して拝み倒すのも、正座してしょげた振りをするのも、そうすれば自分の思い通りに出来ると言う弟の生きる知恵なのか、と和は肩を竦めて苦笑した。
「真琴、ちょっとこっちに来い!」
「はいっ!」
「何回言えば分るんだ、こう言う時は……」
何だかんだ言いながら、結局はちゃんと教えてしまうのだな、と和は淹れたコーヒーをトレイに乗せて持って行く。
そう言えば、パソコンに向かっている伊織を真面に見るのは初めてで、その仕事をしている様に見える姿に、少し胸が高鳴る。
長い指がなだらかにキーボードの上を走るその様は、何作も何作も打ち込んで来た証で、あの一作で終わった訳じゃ無い証明だった。
どんな作品を書いているのか、和はあの【符牒】と題されたあの一作しか読んだ事が無くて、伊織が描く世界をもう一度読みたいと思ってしまう。
「まーどーかー?」
「え、はい?」
「何でそんな難しい顔してんの?」
「……いや、別に何でもないです」
「
「……言いたくないなら、別に良いですけど……」
聞いて、また予想もしない角度から話が突き刺さって来ても困る。
「別に隠してるつもりもないけど……オダフミって作家知ってるか?」
「えぇっと……BL小説で人気のある先生だったかと……」
「そう、それ。
「はぁ……? 筆名がもう一つあるって事ですか?」
「うんまぁ……
「高校の時男と付き合って色々調べた事が飯の種になるって、書き出したのがBLだったんだよね? オレは伊織の小説読んで男同士のやり方知ったもん」
真琴は得意気にそう言って笑う。
「真琴、黙れ」
「あっ……ごめん……和ちゃん。あの、伊織はそのっ……オレがいたからお金が必要で……」
「いや、全然気にしてないので大丈夫ですよ」
気にしないでいられるわけがない。
男同士の情事を飯の種にしているなんて、過去の経験がものを言わないはずがない。和はそう思いながらも、それを悟られるのが嫌で笑って見せた。
「和……笑顔が眩しくて怖い……」
「先生はとっととレポート打って下さいね。終わらないと寝れませんから」
「あぁ、はい……真琴、お前覚えてろよ」
一つ、謎が解けた。
織田章と言えば男か女かも分からない年齢も不詳の覆面作家で、書けば売れると言われている人気の作家だ。
そんな仕事を抱えていたら、そりゃ部屋から出れなくなるのも頷ける。
でもそれを読むのは、ミヤとの情事がチラつきそうでそれはそれで嫌だ。
伊織がどんな風に他の人を抱いて来たか、なんて知りたくもない。
「安心しろよ、和。俺のBLは妄想の産物で、願望とは違う。誰かをモデルに書いた事なんて一度もない。お前に読まれたって拙い事は何もないよ」
喋りながら良く打てるもんだ。
そう言う所には本心から感心するけれど、和はそれを読むのは止めておこうとひっそりと心に決めた。
不安になる様な物には、近づかない方が無難だ。
和は冷めて温くなったコーヒーを一口含んで、短く息を吐いた。
「よし、出来た。十一時ジャストか。まぁ、こんなもんだな。和、誤字チェックしてくれ」
「あ、はい」
伊織が打ったその原稿は綺麗で、誤字も無い。
格好良過ぎて腹が立つ、と和は口を尖らせた。
「完璧です、先生」
「そう、良かった。真琴、これ持って今すぐ帰れ」
「えー……伊織送ってよ。寒いし、こんな時間じゃ電車も無いよ」
「知るか。
「まだ仕事中だよ」
「店に行って飲んでたら良いだろ。ほら、さっさと帰れ」
「お兄ちゃん、酷い」
「お兄ちゃんが酷いなら弟君はズルいよなぁ? 和の所に転がり込めば俺が来るって分かってて来た癖に。これ以上俺を使い物にする様なら、次からは和禁止令出すからな」
やっぱり兄の方が強いのか……。
渋々鞄に原稿を詰め込んで部屋を出て行こうとする真琴を玄関まで見送って、少し可哀想な気もして和は千円札を握らせた。
「ここから大通りに出てタクシー使えばワンメーターくらいだから。夜中だし、寒いしね」
「和ちゃん……優しぃ……」
悪気が無いのは分かっているのだけれど、抱き付く癖はどうにかして欲しい。
和は背後から感じる伊織の視線に、真琴を引っぺがして早々に送り出した。
「あんまり真琴を甘やかすなよ。すぐ調子に乗るんだから」
「お兄ちゃんほど甘やかして無いと思いますけど……」
座ったままの伊織に手招きされて傍へ寄ると、そのまま手を引かれて腕の中に囚われる。
「うわっ……!」
「あぁ……落ち着くわ……」
肩の辺りに鼻先を埋められてくすぐったくて肩を竦めた。
「先生、今日泊まって行きますか?」
「何、追い返す気なの? 和ちゃんは鬼なの?」
「いや、僕の家には客用の布団なんて無いので……シングルのベッドで良ければ……」
「和がいれば床でも良いよ」
……そんな科白、どこで覚えるんですか。
そう言えば初めてした時にそんな事言われた気がする、と思い出して一人熱が上がる。
「早く風呂入って来いよ、まだなんだろ?」
我が物顔でシングルベッドに片肘をついて寝転んでいる伊織が、意味あり気に見上げて来る。
「あ、はい……でも、今日は……」
「しないんだろ? 分かってるよ」
「え?」
「家は嫌だとか言ってただろ、この前。その位は覚えてるよ」
「すみません……」
「何謝ってんだ? 俺は盛りの付いたガキじゃねぇんだ。お前が嫌な事はしないって言っただろ?」
「ありがとう……ございます」
「でも抱き枕くらいにはなってくれるだろ? チューは? ダメ?」
「ダメです。僕は床で寝ますから、先生はベッド使って下さい」
言い捨てて風呂場へと足早に逃げる。
伊織が自分のベッドで寝ていると言うだけで落ち着かない和は、烏の行水よろしくシャワーで済ませて部屋へと戻った。
不貞腐れてしまったのか、壁の方を向いて布団に蹲る様に潜り込んで、既に規則的な寝息を立てている伊織の背中に、僅かに安堵した。
布団から覗く項に零れる黒髪に、触れたくなってグッと拳を握りしめる。
和はベッドサイドに静かに腰を下して、寝顔だけでも見ようと覗き込んだ。
別にしたくない訳じゃ無い。触れられたくないなんて思ってない。
ただ、一人で居る時に思い出したり、もしも別れた時、ここでの情事が忘れられなくて苦しい思いをしたりする事が怖いだけだ。
覗き込んで寝顔を見ているだけで、きっと今日の事を思い出す日が来て、その時自分がどんな心境でいるのかを思うと、息苦しくなる。
「捕まえた」
不意に目を開けた伊織の長い手が、和の項に掛かる。
「なっ……」
「なぁ、一緒に寝てくれない? 俺が淋しい。和を抱いて眠りたい」
「……」
「何て顔してんの。そんな泣きそうになる程嫌なの? それとも、俺の事が嫌なの?」
「違います! そうじゃ無くて……そうじゃないんですけど……」
「何が嫌なの? ちゃんと教えてくれ。聞くから」
「その……思い出すのとかが……嫌です」
「あぁ……あの時俺にあーんなことされてこーんなことされて、すっごい気持ち良かったーって?」
「言い方……」
「お前はさ、どうしてそう悪い方に考えんだよ? 俺はお前の体温とか、寝息とか、寝てる時のアホ面とか、勿体なくて寝れないくらい知りたいよ。そう言うのがあるから、気持ちが育って行くんじゃねぇの?」
「アホ面って……」
「そこかよ。人の話ちゃんと聞けよ!」
「先生にだけは言われたくないです」
「二人の時は先生禁止」
「……伊織さんだけには言われ……んっ!」
唐突に唇を塞がれて、震えてしまう。
嫌な事はしないとか言いながら、結局は自分の思う様にするんじゃないか、と憤った後にいつも困る。
「寒いじゃん。一緒に寝ようって」
「……寝るだけ、なら」
「分かった。絶対しないから」
そう言って額に軽く口付けられて、和は恥ずかしくなって俯いた。
背中を抱く様に纏わり着いて来る伊織の体温に、氷柱の切先の様に尖っていた神経が、溶ける。
項に当てられた唇から洩れる湿り気を帯びた寝息に僅かに身じろいだ。
くの字に重なった膝や大事に包む様に握られた掌が、和の
和はシンと静まり返った耳鳴りの煩い静寂の中で、暖められた至福に落ちた――――。
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