14

「あ、そう……」

「僕が誰かに似ているから、僕の事をその人と勘違いしてるんじゃないですか……?」

「何だって……?」

真琴まこと君が言ってました。先生が僕を構うのは誰かに似てるからだって……そう言う事なんでしょう? 僕は先生の玩具になるつもりはありま……」

「うるせぇな! 似てねぇよ!」


 突然声を荒げた堂舘どうだてに、凄む様な目を向けられてまどかはそれ以上声が出なかった。


「俺はお前が言う様なこの世にいない人間をずっと想う様な出来た人間じゃないんだよ! 他の誰かを好きになっちゃダメなのかよ! 愛してるって言われて死なれた人間は、ずっと、縛られて生きて行けって言いてぇのか!」


 お前の言う憧れの人になんて、俺はなれねぇんだよ――――……。


 掠れた様な小声で零れた最後の言葉が、和の中に砕いたガラスを押し付けられる様な鈍い痛みを持って響く。

 堂舘どうだての書いた小説の中に出て来たウヴェヨオリと言う暗号は、UVEYOOLIと書かれたローマ字のアナグラム。


 並べ替えるとI LOVE YOUとなる。

 あれは、フィクションじゃなかった……?

 

 香織は最後にその言葉を解読し、香織の満足感は読んでいた和のそれと重なって、多幸感に満ちた爽快とも言える読了だった。なのに……。

 

 和の家の近くまで来て、堂舘は道路脇に車を止めた。

 鼓膜の内側まで響く沈黙に車の外の雑踏さえ聞こえない。

 その沈黙を躊躇いがちに破ったのは、堂舘だった。


「俺の母親は俺を産んですぐ死んだ」


 フロントガラスの向こう、見えているものが何なのか分からない程遠い視線だった。


「真琴は親父が再婚した二人目の母親の連れ子だ。それも再婚して一年もしない内に二人共事故で死んじまった。八つも離れた血の繋がらない弟と爺さん婆さんと一緒に暮らせたのだって十五の時までだ。高校入って男と付き合い出して、世間から受け入れられなかろうと、俺はたった一人ミヤが大事だった……」


 僅かに、堂舘の手が震えている。

 それを、どうする事も出来ずに和は自分の手を膝の上で握りしめた。


「でも、ミヤは段々おかしくなって行った……」


 伊織が右手の甲を唇に押し当て震えを噛み殺そうとするその間が、和の胸を握り潰す程重い。


「嫉妬、束縛、詮索、俺は疲れて……それでも大事にして来たつもりだったよ。俺にはミヤしかいなかったから……でも、あいつの親にバレて、あいつは精神が病んでるって理由で病院に放り込まれた。俺は、俺がいなければあいつも普通に戻れると思って別れるって言ったんだ。そしたら、翌日病院の屋上に呼び出されて目の前で……」

「もう良い! もう良いです! 先生……すみません……。僕……何も知らなくて……」

「どうだって良いよ……もう……」


 小説の中の香織の恋人は、病院の屋上から飛び降り自殺していた。

 疲れた様に項垂れた堂舘の顔が、伸びた黒髪に隠れて見えない。

 いつも傍若無人で人をからかっては楽しんでいる四つ年上の堂舘が、酷く頼りなく見える。


 宇部が弱音を吐いた所を見た事無いと言うのが、何となく分かった気がした。

 親、兄弟、近ければ近い程言えなくなる類の事がある。ずっと堂舘と真琴の傍に居た宇部には言えなかった事なんだろうと。

 自分の一番柔かい所は、遠い距離にいる人間の方が言いやすかったりする。


「あの作品は俺のエゴだ……。せめて小説の中でくらいは一途に想っている俺をミヤに残してやりたかった。そう出来ない事が俺には分かってたから……最低だろ」


 泣きそうな顔で笑われて、堂舘の中にある膿を想像し、和は涙を堪えきれずに俯いた。

 香織は堂舘の分身。何も知らなかったとは言え、酷い事を言い続けていた。

 あんな風に人を好きになれたらなんて、フィクションだから言える事だ。

 生きていたって失う事も拒まれる事も恐ろしくて手を伸ばせない和からしたら、この世にいない人を想い続けるなんて死んだ方がマシだと思わされる。


「理想のカッコいい作家じゃ無くて、悪かったな……」


 和は首を横に振って応えた。声を出せば、震えてしまう。


「泣くな。さっきは怒鳴って悪かった……。確かに、佇まいと言うか雰囲気が似ていると思った事はある……お前が最初うちに来た時……亡霊かと思って驚いた」


 そう言えば、あの時アイスクリームを足元に落としていた。


「でも、知れば知る程似てないよ。和は素直じゃないし、意地っ張りだし、俺に甘えようとはしない……でも、俺はお前の事好きになっても良いか……?」


 ――――許してくれるか?


 そう聞かれた様な気がした。

 そんなの、許可取られても困る。ダメだと言えるはずもない。

 こんな話を聞いて、書いてくれと言えるほど強靭な神経も持ち合わせていない。

 書けない理由がこんな風に出て来るとは思って無くて、書けと言い続けた自分が悪魔にさえ見える。

 仕事は頓挫した上に、保証書も保管用の箱も付いてない宝石をタダでくれてやるからと押し付けられている様な気になって来る。


「……和?」

「僕は……ビビリなんです。怖くなったら貴方から逃げ出すかも知れません……」

「良いよ。また捕まえるから」

「甘えるのも下手です。甘え方知らないですから……」

「そんなの俺が教えてやる」


 ゆっくりと近づいて来る堂舘の顔が涙で滲む。

 怖い、怖い、こんなもの欲しくない――――なのに……。


「口、開けて」

「んっ……」


 和は首筋から顎を包む堂舘の大きな手の感触に、自然と上を向かされて堂舘の甘い舌の愛撫に身体の火照りを感じて身を捩った。

 最近してない上に、心臓の音が煩い。


「せっ……せんせっ……」

「伊織」

「……い、伊織さんっ……ちょ、んっ……待ってっ!」

「何で……キス嫌いか?」


 一旦唇を離した伊織の表情が、見た事のない優しい眸をしていて和はそれに釘付けになった。


「ち、ちがっ……そうじゃない……けど……」


 和は嫌いじゃないから困るんです、とは言えず唇を噛んで顔を背けた。


「お前はそうやって無意識に嗜虐心を煽る様な顔をするよね」

「は……?」

「苛めて下さいって言ってるみたいな……」

「気のせいです。そんな事言われた事ありませんから」

「何それ、俺にだけ見せてくれてるって事?」

「……」


 口で敵う筈なかった。


「したくなるって、言えば? 言ったでしょ、俺エッチ上手いよ?」

「……し、ませんよ……」

「して欲しくて堪らなくなる日が、待ち遠しいね。和ちゃん」

「変な事言わないで下さい!」

「そんなエロい顔して説得力ねぇから。もう少しキスしたら落ちるかな? 顔、こっち向けて」

「なっ……んっ!」


 驚いて見開いた和の目の前で、伊織はワザと目を開けたままニヤリと目線を合わせる。

 さっきまでの伊織は何処へ行ってしまったのか、いつもの調子でからかう伊織に和は内心少しホッとしていた。

 上顎を舌で舐められ、舌を舐められ、堪えていた疼きが下腹の辺りから競り上がって来るのを感じる。


「あっ……」


 伊織の手が脇を撫でて、甘い声が口の端から漏れた。


「和、触りたい……」

「やっ! ダメですっ!」

「なーんで……?」

「ここ車の中! しかも昼間ですよ?」


 キスしてるのだって人に見られたらどう思われるか……。


「車じゃ無かったら、良いんだ?」


 しまった――――……。また、乗せられて……。


「い、家は嫌です……」


 自宅に思い出なんて欲しくない。


「じゃあ、ホテル行く?」

「……」


 コクリと頷かされる。

 この調子でいつも丸め込まれて、いつかきっとして欲しいと言わされる日が来るんだろうと、和はまた唇を噛む。

 でも、いつもと同じ様に落ち着かないのに、逃げ出したいとは思わない。

 演じる暇が無い程に翻弄されて、思考より先に感情を掻き乱して来る。


 欲しくて、欲しくて、堪らなかった、欲しく無いもの。

 怖くて、怖くて、絶対に捕まりたくなかった、怖いもの。


 それが目の前で好きだと言って自分を欲しがる。

 こんな幸福、味わったらもう、失った後の事なんて考えるのも恐ろしい。

 車に乗っている間、ずっと手を離しては貰えなかった。

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