12

「あぁ、おかえり」


 座敷でテレビを見ていた堂舘どうだてが当たり前のようにそう返す。

 台所からその声の主が姿を見せるのを固まったまま待っていた。


「あー! 伊織いおり、もう飯食ったの? 俺、何も食べてない!」

「知らないよ。お前、何時に帰るとか言わなかっただろうが」

「オレのは? 無いの?」

「どうだろうなー……つか、眠い」


 床に寝そべる様に横になった堂舘を立ったまま見下す青年は、先日堂舘の車の後部座席で寝ていた大学生らしき男だった。

 チェックのシャツにリュックを肩に掛け、堂舘に慣れた口調で喋りかける。

 その内、まどかに気付いて「……あぁ」と短く零した。


「伊織、あの人……名前何だったっけ?」

「和ちゃん」

「和ちゃん、初めまして! 兄がいつもお世話になってます。で、オレの分のご飯ある?」


 兄……だったのか。

 この家には人気が無さ過ぎて、堂舘の事を勝手に一人っ子だと思っていた。

 それにしても、似て無い。


「え、あ……はい、沢山作ったのでまだあります……けど」


 展開に付いて行けない和は、呆気に取られてそう答えた。週末は自分の家で過ごそうと思って、作り置きに大量にカレーを作って置いて帰るつもりだった。


「あ! それ、梨じゃん! オレ、梨大好き」

「……あぁ、はい。すぐ……」

真琴まこと、お前何しに帰って来たの?」


 引っ繰り返って寝そべったまま真琴と呼んだ大学生風の男を見上げる堂舘は、煩いとでも言いたそうに眉根を寄せていた。


「レポートの添削してくれって頼んだじゃん! オレ、この単位取れないとヤバいんだって!」

「レポートくらい自分で書けよ……」

「そんな事言うなよぅ。伊織だけが頼りなのにぃ……」


 真琴はしゃがみ込んで堂舘の肩に額を擦りつけた後、眼前で手を合わせて拝み倒している。

 真琴がいるとあのだらしなく何も出来ない堂舘がちゃんと兄に見える。

 それ位、無邪気な雰囲気を醸し出している真琴は身長は和と変わらないが、飄々とした美形の堂舘とはちがって、アイドルと言っても良い程可愛らしい顔をしていた。


「あぁ……丁度良いや。あそこに文学部卒の編集のプロがいるじゃないか」

「……はい?」


 真琴のカレーをよそおうと背を向けた和は、慌てて振り返った。床に突っ伏したまま和の方を見遣って指差している堂舘は、悪い顔で笑っていた。


「ホントだ! オレ、超ツイてる!」

「いや、ちょっと! 僕は帰るって……」

「和ちゃんは、俺の為に何でもするんだよね?」


 眩しいものでも見る様な顔で笑う堂舘に、危うく舌打ちが出そうになって和は唇を甘く噛んだ。


「……堂舘先生の為なら何でも。でも彼は堂舘先生じゃないです」


 いつまでも言い成りになってたまるか、と負けじと言い返す。


「え――――……。伊織にだけ優しいとか、和ちゃん酷いよぅ」

「べ、別にそう言う意味では無くてですね。僕はっ……」

「ちょっとだけ! お願い!」


 そうすれば良い事を知っている。

 まさにそんな感じでまた手を合わせて拝み倒す真琴に溜息が漏れた。

 飯を食わせて、デザートまで剥いてやって、宿題まで見てやれと……。


「……わかりました。先に食事されて下さい……その間にそのレポート読ませて頂きますので」

「やったー! ありがとう、和ちゃん!」


 憎めない天性の武器を余すことなく発揮して、人に好かれそうな真琴は和に大型犬の様に飛びついて来て、ここ最近これまで周りに居なかった類の人間が増えて、困る。

 リュックからレポートの束を取り出した真琴は、食べる時は子供の様に大人しい。

 夢中で黙々と食べているのを見たら、本当に憎めない。


「真琴、武史たけしは?」

「お店終わってから来るんじゃない?」


 堂舘は宇部が来ないのが、淋しいのかも知れない。

 そう思いながら、少し離れて縁側に腰を下して真琴のレポートに目を通した。


「文学部、なのか……」


 テーマは夏目漱石。夏目漱石に関する事なら何でもいいとされているらしい。

 真琴がテーマに選んでいたのはアイラブユーを「月が綺麗ですね」と訳す夏目漱石の意図を組んだ小説に対する自論。

 文才があるとは良い難い真琴の論文は、言いたい事は分かるが起承転結がバラバラな為に、纏まってはいない。

 思い付いた事を、思い付いた順番に書いてみた。そんな感じの論文だった。

 和は原稿用紙に換算して三十枚くらいの短い論文を見ながら、大学時代を思い出していた。


「そのゼミの先生が凄い怖くてさ……。絶対に優くれないって有名なんだ」


 食べ終わったらしい真琴は、手掴みで梨を片手に和の傍にしゃがみ込む。


「もしかして、関下先生?」

「和ちゃん、知ってんの?」

「多分、僕は真琴君の大学のOBだ」

「マジでっ! じゃあ、あの先生の癖とかも知ってる?」

「あー……こうやって眉間を抓むヤツ?」


 皺の酔った眉間を指で抓んで、学の無い生徒に本気で呆れて睨む関下は、学内でも辛口で有名だった。


「そう! それ!」

「相変わらず、嫌われてるんだね、関下先生」

「だって、小学生の作文以下だ! とか怒鳴られてさぁ……」

「あっ……ははっ……」


 確かに、真琴の論文は作文に近い。


「作文と論文の違いが分かりませんって言ったら本気で怒られて、これで優取れなかったら単位くれないって言うんだもん……」

「……ちょっと待って、あの人から優を取らないといけないの?」

「うん……。だから伊織に添削を頼もうと思ってここに来たんだけど……」


 片肘ついてテレビを見ながら転寝しそうになっている堂舘を、二人してジットリと見た。


「じゃあ、まず書いたものを整理してからやり直そうか……」


 和は読むのは好きだったが、自分の内側を暴く様な小説を書くと言う作業が、自分には到底向かない。ただ、書かれている物を直したり整理したり、読み込んで来ただけあって脳内で構築したりするのは割と得意だった。


 とは言え、あの関下から優を獲得するのは至難の業だ。

 真琴に借りた赤ペンで不必要な言葉を消しながら、文章ごとに一、二、三、と番号を振る。


「この番号は何?」


 大人しく隣から覗き込む真琴は、真剣に首を傾げていた。


「一と番号を振った文章を序章に書く。二、と番号を振った文章を次に集めて、最後に三の文章を纏めて書くんだ。論文はね、結論から先に書くと綺麗に纏まるから……」

「へぇ……作文とはやっぱり違うんだね」

「そうだね……。真琴君は何で文学部に入ったの?」


 和はレポートから顔を上げずに聞いてみた。

 どう考えても文学が得意では無い彼の文学部への進学は、選択ミスの様に思う。


「伊織みたいになりたいから。伊織って凄いだろ?」

「小説家になりたいって事?」

「うん」


 驚いて次の言葉が出て来なかったのは、文才が無い真琴の夢が小説家だった事よりも、十六歳の自分と同じ様に堂舘伊与と言う小説家を凄いと言い切ったのが理由だった。


「和ちゃん……そんなムリデショって顔で見ないで……」


 子犬の様な目で情けを請う真琴に、ハッと我に返る。


「あ、いやっ……違うよ! そんな事思ってない」

「ホント……?」

「うん」


 ただ、堂舘を凄いと思う自分以外の青年がいた事に、少し救われた気がした。


「いつか伊織みたいな小説を書いてみたいんだ」

「そっか……きっと、真琴君なら良い話が書けるんじゃないかな……」


 お世辞と言うより、希望と言った方がいい様な科白が和の口から勝手に零れた。

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