11

 飯を作りに来いと言われて、通う様になって一ヶ月が過ぎた。

 来る頻度が高くなったからと言って、状況が好転した訳じゃ無い。

 寧ろ、悪化している。


「先生……重いです。どいて下さい……」

「えー……ヤダ。今日の飯、何?」


 目の前にカレーの鍋があるのにそう聞いて来る。

 台所に立っている後ろから抱き付かれて、肘から下だけ動かして辛うじて作業を進めているまどかは、肩に圧し掛かって来る堂舘どうだてにももう慣れて来ていた。


「カレーです」

「出汁巻卵食べたい」

「……合わないでしょう?」

「和ちゃんが最初に作ってくれたヤツ、んまかったもん」

「と言うか先生、仕事あるんでしょう? 僕は何の仕事か存じませんが、仕事しないんだったら晩飯、罰ゲームにしますよ」


 和はチリーペッパーの小瓶を翳して堂舘を牽制するが、そんな物に動じる様な男でも無い。


「ひでぇ……けど、俺辛党だから全然平気」

「早く作って帰らないと電車が無くなります」

「明日休みなんだろ? 泊まって行けば良い」

「……バカなんですか?」

「最近、和ちゃんの口が悪い」

「先生が非常識な事ばかり仰るからです」

「車で送って行ってやるから、ゆっくりして行けよ」


 頭を撫でるのは堂舘の癖で、長い指のせいで細い身体の割に大きな手で髪を掻き混ぜられる。

 そう言って身を翻した堂舘が離れて行くと背中の熱が下がって、少し冷える事に気付いた。

 十月も終わりに近づいている。

 堂舘の相手ばかりしていられないので、来るのはいつも夕方で、ギリギリ終電に間に合う様に帰るつもりでいるのに、結局邪魔をする堂舘のせいで帰りは送って貰う事が多い。


 電車代も馬鹿にならないだろうと定期代を与えられたり、そうやって自分に執拗に構う堂舘が何を考えているのかやっぱり和には分からない。

 堂舘はあのキスをして以来、纏わり付いて来たりはするがそう言う恋人同士がする様な特別な事はしてこなかった。

 勿論、一人でしている所を見せろなんて事も言わない。

 ゲイじゃないと言っていたから当たり前なのだろうけど、じゃあ何であの時キスをすると言う選択をしたのだろう。


 あぁ、ほらまた……分からない事は気付かなかった事にしなければ。


 玄関から真直ぐ突き当りにある堂舘の仕事部屋は、一度も足を踏み入れた事が無かった。


 扉の前に立って食事が出来ましたよ、と声を掛けノックをする。

 何度もこの家に通って、仕事部屋以外は好きにしていいと言われたが、仕事部屋への立ち入りは禁じられた。

 仕事が差し迫っていると、仕事部屋から一歩も出て来なくなる。部屋の前に書置きして帰った事も何度かある。

 それでも、人気のないこの家は、淋しさが床下から湧いている様に感じられて、出来るだけ声を掛けてから帰る様にしていた。


 仕事部屋の隣には勉強机が二つ放り込まれた子供部屋が物置の様になっていて、多分書く為に必要だった資料なんかも隙間を埋める様に詰め込んである。

 廊下で隔てた仕事部屋向かいの部屋には、仏壇が置かれていた。

 それ以外は何もない六畳間には祖父母と思われる遺影が穏やかな笑顔で飾ってある。

 あまり見てはいけないと思って、和はその六畳間の障子を閉めた。


「和ちゃんも一緒に食べようよ」


 仕事部屋から出て来た堂舘は、柱に寄り掛かり腕を組んで下から覗き込むように首を傾げた。


「いえ、僕は……」

「……けち」

「淋しがりですか?」

「そうだよ? 和ちゃんが来る様になったら武史たけしのヤツ来なくなっちゃって薄情だよね」


 ……それは、考えて無かった。

 宇部うべのポジションを奪ってしまったのかも知れない。


「じゃあ、僕じゃなくて宇部さんに来て貰ったら……」

「あいつも忙しいからな。ほら、一緒に食おうって」

「……」


 僕も忙しいんですけど。

 和はそう言いたくなって口を噤んだ。

 書いて貰う為に常識の範囲内で何でもすると言ったのは自分だ。

 前進しないけど、止めても他の方法は思い付かない。


「ん、これ旨いな」

「それは良かったです」

「頼りなさそうに見えるけど、和ちゃんはしっかりしてるよな」

「先生が何も出来なさすぎるんですよ」


 和の仕事が忙しくて三日も空ければ、空き巣に入られたのかと疑いたくなる始末だ。

 洗濯ものも溜めっぱなしだし、カップラーメンなど食べようものなら汁が入った容器がシンクにそのままの状態で放置される。


「ご両親に教わらなかったんですか?」


 いつも言われている言葉を、そのまま返してやる。


「ご両親、いないからね」

「……すみません」

「いいえー。もう十五年前の話だし、お気になさらずに」


 祖父母の遺影しかなかったので、健在なのだと思っていた。


「親父がちょっとした著名人の息子だったから、位牌とかは親父の実家にあるよ。ここは母方の祖父母の家だった所だ」

「そう、なんですか……」

「和ちゃんの御両親は? まだ元気なんだろ? 会いに帰ったりしねぇの?」

「元気……だと思いますよ?」

「親孝行しろよ?」

「そうですね」


 笑えた。良かった。


「……そんな顔で笑うな。気持ち悪い」

「気持ち悪いって……。ごちそうさまです」


 話題を変えたくて、少し作り笑顔が過ぎたのだろうか。

 和は食べ終わった食器を持って台所へと立つ。

 大学に入ってから親との関わりは最低限になり、母親の声を聞いたのだって就職が決まった時が最後だ。元気かどうかも知りようもない。


「和……」

「え、はい?」


 唐突に呼び捨てにされて、驚いて振り返ると堂舘が傍に立っていた。

 緩い首空きのTシャツから覗く鎖骨や、薄い生地の上からでも分かる骨格に、一瞬見惚れてしまう。


「口直しに梨、剥いて」

「あ、あぁ……はい」


 堂舘が持って来た食べ終わった食器を受け取って、冷蔵庫に入れてあった貰いものだと言う梨を取り出した。

 ゲイだと知っても何の躊躇もなく抱き付いたり、傍に置いたりするのは、宇部と長年一緒にいるから免疫が出来ていると言う事なのだろうか。


 それにしても、この家に通い出して宇部の店に足を運ぶ時間も無くなって、高輝こうきとも連絡を取らなくなって、和は自分の生活が仕事と堂舘に埋め尽くされていると気付いて、手を止める。


「……いつの間にそんな事に……」


 そう言えば最後にしたのはいつだ。高輝と寝たのって……。

 それ以外の事で頭を占領されていて、これまで高輝以外にも不定期に体の関係を持っていたから、こんなに長く禁欲したことは無い。

 禁欲と言う程、我慢した覚えもないけど……。


「ただいまー……」


 玄関から声が聞こえて、ただいま? と和は一人復唱した。

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