「いらっしゃいませ」


 宇部うべはいつもの様に動じもせずにそう言って出迎えてくれる。


「こ、こんばんは……」

「どうぞ」


 オシボリをいつも座るカウンターの端の席に置かれて、ペコリと頭を下げた。


「先日は……ありがとうございました」

「いいえ、もう平気ですか?」

「あ、はい。もう大丈夫です」

「何になさいますか?」


 グラスを磨きながら、卒の無い宇部は目を半分伏した様に目線を合わせずにそう聞いて来る。


「えっと……じゃあ、何か酔えるヤツがいいです」

「……大丈夫?」

「え?」

「いや、秋芳あきよしさん病み上がり……」

「あ、いやそんな一杯飲んだくらいじゃ酔わないですから……気分的にちょっと強いのが飲みたいだけです」

「かしこまりました」


 平日の割に奥のボックス席には客が入っていて、賑わっている。


「秋芳さんは今日も待ち合わせですか?」

「あ、いえ……今日は宇部さんに聞きたい事があって……」

「俺に?」


 驚いた様に視線を向けられて、どうやって堂舘の事を聞き出そうかと少し緊張していたまどかは困った様に笑い返した。


伊織いおりの事?」

「……はい」


 顔に書いてある、とでも言うようにクスリと笑われてしまい和は余計に聞き辛くなって俯いた。


「本人には聞かないの?」

「先生は……はぐらかしてばかりで教えてくれませんので」

「そう? 秋芳さんの事、気に入ってるみたいに見えたけど」

「……どの辺が気に入られているのか、僕には全く分かりませんが……」


 電話には出ない。会いに行けば家には居ない。

 挙句、ゲイだと知って交換条件と言いながら強硬手段に出て来る。

 一体どの辺りが気に入られてるのやら。

 和は頬杖をついて短く息を吐いた。今日、何度目かも分からない溜息だ。


「伊織の何が知りたいの?」

「先生は、何で小説を書かれたのかと思って……」


 宇部はその質問には答えずに、出来上がったカクテルをコースタ―に乗せて差し出す。


「セックス・オン・ザ・ビーチでございます」

「……」

「今日は待ち合わせじゃないんでしょ? ウォッカベースだし、甘いから飲み易くて良い」

「はい……」


 和は透き通った鼈甲色のコリンズ・グラスに軽く口を付けて、宇部は自分をからかっているのかも知れないと思う。

 甘くて飲みやすいから、ビーチで女性に飲ませるとすぐに酔いが回ってセックスできちゃう、そんなカクテルを出して来るのだ。

 顔色の変わらないその紳士な笑顔の裏側を少し、疑いたくもなる。


「何であの小説を書いたか、だっけ?」

「あ、はい……。先生は作家志望では無かったと言っておられたので……何で、経済学部に居ながら、作家志望でも無いのに何であの作品を書かれたのかと……」


 寧ろ、本当に書いたのは堂舘本人なのか、と言う疑問をそのままぶつける事が出来なかった和は、大人しく宇部の回答を待った。


「俺がね、書いてみたらって言ったんだよ」

「え?」

「詳しい事は俺の口からは言えないけれど、俺はそれが伊織の為になると思ったんだ……」

「じゃ、じゃあ、あの作品は間違いなく先生本人が書いたものなんですね?」

「勿論だ」


 一つ謎が消えた。書いたのが堂舘本人じゃないかも知れないと言う疑念は無くなったが、だとしたら堂舘が「怖い」と言った理由がさらに遠くなってしまった。


「秋芳さんは、そんなに伊織に書いて欲しいんだ?」

「えぇ、まぁ……それが僕の仕事って言うのもありますけど、先生のファンって言うのは本当の事なんで……」

「あいつはきっと、その言葉で救われてると思うよ」

「まさか……」


 和はそう吐き捨てる様に零して、鼈甲色の液体を咽喉へと流し込む。

 ウォッカの熱がカッと咽喉を焼いて、心臓の辺りまで熱を持って落ちて行くようだった。


「先生は書くのが怖いって……言ってました。僕にはその意味が分かりません」


 和は底の丸いコリンズ・グラスを両手で包む様に持ってゆっくりと回した。


「……怖いって、伊織が言ったの?」

「え、あ、はい……」


 アイスピックで器用にアイスボールを削り出していた手を止めた宇部は、信じられないと言う顔で和を見る。


「君は……凄いな……」

「はい?」

「俺は伊織と十年以上の腐れ縁だが、伊織からそんな言葉を聞いた事は一度もないよ」

「……え」

「あいつは自分の事には酷く無頓着な男でね、本気で弱音吐いた事は無い」

「そう、なんですか……?」


 グラスの中の氷が溶けだして、カランと硬質な音を立てる。

 そんな特別、敢えてくれなくても良いのに……そう思った和だったが、すぐにそれは堂舘の気遣いから出た言葉じゃないかと思い直す。


「先生には、僕がゲイだってバレてしまったんです。僕が何で書かないのかって聞いたら、お前は何でゲイだって言わないのかって質問に質問で返されて、拒絶されるのが怖いって言ったら、俺も一緒だって言ってました。気を遣ってくれたんじゃないですかね……」


 堂舘が本命である自分以外にそんな弱音を零していたと知ったら、いくら宇部が大人で出来た男だとしても面白くないだろう。


「和……?」


 不意に呼ばれて振り返った先には高輝こうきが立っていた。


「高輝……」

「何、俺に内緒でこの人に会いに来たってわけ?」

「ち、ちがっ……」

「またそんな意味深な酒飲みながら、二人で語り合って……何なの?」

「こ、高輝こそ……何でここに……」

「寝酒飲みに来ちゃ悪いかよ?」

「いや……そんな事はない……けど……」


 と言うか、彼氏でも無いのだからそんな事言われる筋合いも無いのだけれど、ここは大人しくしておいた方が早く事が済みそうだと和は口を噤んだ。


「俺に嘘までついて、そんなにそいつは上手いのかよ?」

「だから、違うって!」

「何が違うんだよ!」


 声を荒げた高輝に、店にいた客の視線が集まって和は宇部に申し訳なくなって席を立つ。


「もう帰るよ」

「じゃあ、ヤらせろよ」

「嫌だ。マスター、ごちそうさまでした」


 カウンターに千円札を置いて高輝の横を通り過ぎようとした時、襟足を掴まれて咽喉が詰まった。


「っ! ぐっ!」

「お前、俺の事舐めてんの?」

「お客様、他のお客様のご迷惑に……」


 慌ててカウンターから出て来た宇部は、そう言って高輝の腕を掴むが和はそのまま高輝の方へと引き寄せられて顔が触れる程近くで上を向かされた。


「悪いのは和だろ? 何なの? その態度」

「別に僕はっ……苦しい! 手、離せって!」

「お客様!」

「お前もバーテンの癖に客の男寝取ってんじゃねぇよ!」


 掴みかかった宇部を振り払った高輝を、和は思わず平手で叩いた。

 その衝撃に捕まれていた襟足が外れて、咳き込む。


「げほっげほっ……」

「何しやがんだ……」


 高輝は完全に目がキレてしまっている。


「僕は高輝の恋人じゃない。そんな事言われる筋合い、これっぽっちも無い! 周りに迷惑かける様な付き合いなら、金輪際会わない!」


 咳き込み過ぎて涙目になりながら格好つかないにも程があるが、これ以上宇部に迷惑かけるわけには行かない。


「高輝、外に出よう。話はそれからにして……」

「はっ、何を話すって?」

「秋芳さん!」


 宇部は心配してくれたんだろうがそれがまた高輝の癪に障った様で、和は右腕を痛いくらい掴まれて店の入口まで引き摺られる様に連れ出された。

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