6
翌朝、
一日を布団の中で怠惰に過ごすなんて、いつ振りだろう。
休みの日でさえ何かしてないと落ち着かない性格の和は、白く眩しい縁側の方へと寝返りを打って窓の外を眺める。
今朝一度だけ顔を見せた堂舘はそれ以来家のどこかに籠っている様で、
その内ウトウトとし始めて、微かに聞こえる声に目を覚ました。
「……――――」
これ何の歌だったっけ……? 何か、CMの……。
縁側に座って背を向けている堂舘が、たどたどしく掠れた様な声で歌うその歌に、聞き覚えがあった。でもそれが、どこで聞いた歌だったかを思い出せない。
西日の強い夕暮れに飲まれる様に縁側に座る堂舘の背中は、枯れ尾花の様に傾いていて、少し頼りなかった。
「先生……」
「あぁ、起きた? 具合はどうだ?」
「もう平気です。今、何時ですか……?」
「夕方六時、過ぎたな……。
「いえ、そんな……僕、電車で……」
身体を起こすと、一日中寝ていたせいで背中が軋む。
「途中で倒れられても困んだよ。ちょっとは言う事聞けよ」
「……すみま」
「こう言う時は、ありがとうって言うんだ。親にそう習わなかったのか?」
「……ありがとうございます」
機嫌はまだ悪い様だ。
和は自分の思い通りに運べないペースに、軽く唇を噛んで耐える。
堂舘と一緒にいると、いつもの自分でいられない。決して威圧する様な強さは無いのに、その端的に刺し込んで来る言葉に、出鼻を挫かれて立て直せなくなる。
縁側から立ち上がって布団の傍に来た堂舘は、鼻白む様に片眉を上げて徐に布団に入ってきた。
「なっ……何っ?」
「お前が食ってる間、俺は寝るから……ゆっくり食って落ち着いたら起こせよ」
「え?」
「飯は台所にあるから、適当に温めて食べて。徹夜でさっきまで仕事してたんだ。ちょっとだけ仮眠させて……」
言うが早いか、布団の端に潜り込んで来た堂舘は顔を枕に埋める。
和は端にずれる様に布団から追い出されて、何の警戒心も無く自分に近づいて来る堂舘にノンケの怖さを思い知る。
「……普通、入って来ないでしょ……」
そう一人零して、徹夜で仕事していたのに起きるまで待っていたのだろうかと首を傾げた。
この人は、危険だ――――。
無頓着に、無神経に、優しい。そして、非情だ。
こっちがそれに振り回される事なんてお構いなしに、本能で動く。
この人の優しさを特別だと思ったら、最後は自分の心ごと持って行かれて酷い事になる。
和は宇部が用意してくれていたうどんの汁に、ラップをかけて椀の中に入れてある茹でられた麺を入れて温める。
堂舘に借りているパジャマはサイズが少し大きくて、長い袖を汚さない様にまくり上げた。具も入って無い、ただ温めただけのそれを大人しく啜った。
鰹の出汁が効いた少し甘めの汁が、薬のせいで渇いた口内に優しく広がる。
食べ終わってふと気づいて覗いた冷蔵庫の中は、整然と作り置きのタッパーが積まれていて、それ以外は酒が所狭しと並べてあった。
多分、会話の感じからするとこれを作ったのは宇部で、堂舘の生活能力は相当低いのだろう。唯一、材料と呼べるものは生卵くらいだった。
「多分……食べてないんだろうな……」
綺麗に片付いているシンクを見ても、堂舘が食事をした形跡が無いのが伺えて、和は生卵を四つ手に取った。タッパーの中身を窺って椎茸の甘煮を見付けて、ついでに刻まれたネギの入ったタッパーも拝借する。
適当に出汁を取って刻まれたネギと作り置きしてあった椎茸の甘煮も微塵切りにして溶いた卵に混ぜて出汁巻を作り、あまったうどんの汁をもう一度温め、火を止めた。
「麺……」
余分な麺が無かっただろうかと、シンクの周りを見渡して夏の名残の素麺が二束残っているのを見付けて、それを茹でる。
宇部が作っていたうどんの汁に麺つゆを足して、味見をして火を止めた。
沸騰している鍋にコップ一杯の水を注して、また沸き上がって来るのをジッと見て待っていると、後ろに人気を感じて驚いて振り返った。
「……何してんの? 和ちゃん」
「……っくりした……。先生こそ……寝てたんじゃないんですか……?」
「何か軽快な包丁の音が聞こえて、目が覚めた……」
……椎茸を刻んだのが拙かったか。
「先生も……食べてらっしゃらない様でしたので……」
白く沸き上がる鍋に、慌てて火を止めて笊にそれをあけ、流水で滑りだけをざっと流して蛇口を止めた。
ずっと黙っている堂舘の視線が、背中に痛い。
「お前、バカなの? 具合悪いのに、人の世話焼くとか……」
「もう、熱も下がってますし……お世話になったお礼……にしてはこんな程度で申し訳ないですけど……」
「そんな事しなくても良いんだよ。弱ってる奴に弱ってない奴が手を貸すのは当たり前だろう? どうしてそう、無理しようとすんだよ」
「別に、無理は……」
「こっち見て言えよ」
この人は苦手だ――――。
「気分を害してすみませんでした……。僕、帰ります」
一礼して、一秒でも早くここから去らなければと和は足早に台所を出る。
「待てって!」
「な、何ですか……?」
和は腕を掴まれて、体を竦めた。
「何でそんなに怯えんだよ? お前、最初にうちに来た時そんな感じじゃ無かっただろ?」
「別に怯えてなんか……」
「ゲイだって知られたのが、そんなに嫌だったのか?」
……目の前に、真黒な緞帳が落ちた。
宇部は言わないと言っていた、なのに、何で……。
どう答えたら良いだろう。
気のせいですよ、何の話ですか、意味が分かりません……。
誤魔化そうとする言葉が、咽喉に詰まってどれも出て来ない。
「こんな所にキスマーク付けてんのは、男と寝てるヤツだけだよ」
和は堂舘に引き寄せられ、項の右下辺りを堂舘に指されて固まった。
身体を拭いて貰っている時に、堂舘が黒子があると言っていた場所は、バックで突かれる時に
「女と寝てる奴はそんな所に痕つかねぇだろ」
「……」
「何で黙ってる? 何とか言えよ」
「……すみませ……」
「謝ってんじゃねぇよ。別に俺は悪いとか、言ってない。何でそんなに泣きそうな顔して堪えてんのかって聞いてんだ!」
「知られたくなかった……からです。本当に、すみません……仕事はちゃんとしますので……」
和は堂舘の顔が見れなかった。
掴まれた腕が痛くて、でも振り解く程の気力も無くて、そのまま俯いていた。
「そんな嗜虐心煽る様な顔してると、悪い男に付け込まれるよ? 和ちゃん」
「な、何ですか……? それ……」
「だって君、今俺が一人でしてるとこ見せてって言ったら、しそうな顔してる」
「……口止め料ってやつですか?」
職場にバラされたら、アウトだ。
「言わないから、安心しろよ。俺はそこまで外道じゃない」
そう言って堂舘が頭に置いた大きな掌に撫でられ、和はまた黙って唇を噛んだ。
強く切り込んできた後に、許す。
和は堂舘が切り込んで来る度に身構えて、これでもかと後退り、突然緩められた反動でその胸に飛び込まされるような、そんな感覚が居心地悪くて堂舘の前で演じることが出来ない自分にもどかしさを感じてしまう。
「あー、でも交換条件ってのも良いな」
「交換条件……?」
「俺はお前の秘密を言わない。その代りに、俺は書かない」
「……参考までに、そこまで執拗に書かない理由を教えて下さい」
「じゃあ、お前は何でゲイなのを隠すわけ?」
「……普通、隠すでしょう? 男は普通女を好きになる。マイノリティである事を態々公言出来る程、僕は強くありません」
「要は恥ずかしいから、って事?」
「恥ずかしい……と言うより、怖いですかね。拒絶される……」
「拒絶ねぇ……。じゃあ、今後俺の前では怯える必要はないな」
「誤魔化さないで下さい。先生が書かない理由を聞いているんです」
「あら、いつも話聞いて無いのに……」
そう言って白々しく肩を竦めた堂舘に、和は真剣な眸で初めて視線を合せた。
「明確な理由が有るなら、教えて下さい。攻略出来る類の物なら、何なりと協力します」
「簡単に言ってくれる……」
「聞いてみないと分からないです」
「お前と一緒だよ。怖いから、書かない。それだけだ」
「怖いって……どう言う……」
「そのままの意味だよ。お前に出来ない事を俺に押し付けるな。以上、公約成立だ」
元々、口が上手い方では無い和は堂舘に上手く丸めこまれたと言う事に気付いて、今後の仕事をどうしたら良いか溜息交じりに項垂れた。
失態だった。
これじゃあ、今後書けと言えば、ゲイを公言しろと言われるだろう。
勿論そんな事が出来るはずもなく、堂舘に書いて貰うと言う事は絶望的になったと言う事だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます