秋芳あきよしさん、で良かったですかね?」

「あ、はい……」

「俺はこいつとは中学からの腐れ縁で、面倒見てる宇部うべと言います」


 堂舘どうだてを指してそう言ったその男は、柔かく笑って見せた。


「先生の担当をしております、秋芳です……。ご迷惑を……」

「いいえ、食べれますか?」


 そう言って盆を差し出して来るその男に、妙な既視感を覚える。

 短い黒髪は風呂上りにそのまま乾かした様にボサボサで、ストライプのシャツに擦り切れた様なジーンズを履いたその男は会った事無いのに、知っている様な気になる。

 堂舘は宇部が差出した盆を横から奪い取って、レンゲに掬った粥を冷まそうとしていた。


「あ、先生、自分で……食べれます……から」

「和ちゃん、こう言う時は甘えた方が良いと思うよ? ほれ、あーんして」

「いや、ちょ、ホントに自分で……」

「可愛げのない担当のお願いは聞けないかもしれないなぁ、俺」

「……何ですか、それ。僕の性格と先生の仕事は全く別の次元の話じゃないですか……」

「俺だって人間だし? 情が湧けばその気になるかも知れないよ?」

「非常に胡散臭いですね」

「酷い。武史たけし、和ちゃんが酷いよ?」

伊織いおり、彼は病人なんだ。玩具にするな」

「伊織……?」


 堂舘をそう呼んだ宇部に、和は問い掛ける様に視線を向けた。


「俺の本名。舘田伊織たてだいおりって言うの。知らなかった?」


 宇部が答えるより早く堂舘はそう言って膝の上に抱えた粥を冷ます様にレンゲでかき混ぜた。


「あ、はい……すみません。プロフ、ちゃんと見たつもりだったんですけど……」

「和ちゃんは堂舘伊与どうだていよのファンだもんね。はい、あーん」

「……」


 和は渋々口の前に運ばれたレンゲを頬張るが、躊躇いがちに口を開けた為に、口から粥が零れてしまう。


「んっ……」

「あーあ、下手くそだなぁ」


 細い指でそれを拭って自分の舌で舐め取る堂舘に、懲りずにまたレンゲに粥を掬って和の口元に差出され、それを宇部に見られているのが更に和の羞恥心を煽る。


「あの、先生……自分で……」

「頑固だなぁ、和ちゃん」

「お互い様だと思います」

「じゃあ、今後、伊織って呼ぶって約束してくれたら自分で食べても良いよ?」

「……先生は、先生ですから……堂舘先生で」

「嫌だね」

「……でも」

「俺に書いて欲しいんでしょ? ほら、言ってみて」

「伊織、いい加減にしないか……彼はまだ……」

「武史、俺はこの上なく優しくしようとしてるだろ? それを拒んでるのは和ちゃんだ」


 遠慮と言う言葉を使わずに、拒んでいると言った堂舘に和は弾かれた様に顔を上げた。

 距離を詰めようとしていない事に、気付かれたのは初めてだった。


「別に……拒んでは……」


 そう言い訳しながら、和は唇が震えてしまう。

 誰かに気を許すのは和にとって脅威と言って良い。

 親ですら自分を受け入れなかったのに、ゲイでもない彼らが自分を甘やかしたとして、気を許したとして、それを失う事にずっと怯える事になるだけだ。


「もう良い。武史、俺仕事あるから後、頼む」


 盆の上に粥を戻してそう言って腰を上げる堂舘に、それ以上何も言えない和は、か細くすみません、と零した。

 人の好意が怖い。味を知ってしまえば、忘れられなくなる。

 その味は、劇薬の様に自分を蝕んで弱くしてしまう事を和は知っている。


「すまないな」


 宇部はそう言って、冷めた粥の椀を差し出して来る。


「いえ……僕が悪いんですから……」

「別に君は悪くない」

「先生の機嫌を損ねたのは、僕です」

「そうかもしれない。でも、君が謝る事でも無い。締切前だと言っていたから、少し気が立っているだけだろう」

「先生は他の出版社で書かれているんですか……?」

「あー、どうだろう? 俺は仕事の事は良く知らなくて」

「そう、ですか……」


 いただきます、と一言断って残りの粥を咀嚼する。

 ゆっくり、ゆっくり、さっき受け取れなかった堂舘の優しさを飲み込む様に和は噛まずに飲める様な粥を口の中で大事に噛みしめる。


「ところで、秋芳さん。こんな所に泊まって、彼氏は大丈夫?」

「へ……?」

「あー、やっぱり気付いてないか。これなら分かる?」


 そう言って宇部は前髪を上げて「いらっしゃいませ」と声色を変える。

 噛み砕いた筈の粥が咽喉に詰まった。

 突然、既視感の理由がクリアになって、同時にヤバいと思った。

 宇部は行きつけのゲイバーのマスターだ。


「……っ! げほっげほっ!」

「大丈夫か? この前店に来た時、彼氏少し怒ってたみたいだったから、ここに泊まる事、連絡しなくて平気?」

「あっ……いや、別に……彼氏ではないので……」

「そうか。なら、良かった」

「あ、あの……先生には……」

「あー……態々言ったりはしないけど……」

「すみません……」

「でも、あいつはそんな事で偏見持ったりしないよ。言っても別に大丈夫だ」

「……仕事上、あまり知られたくはありません」


 和にとって唯一普通でいられるのは、仕事だけだ。

 親孝行できる息子にもなれず、女性を愛する健全な男にもなれず、唯一普通の二十四歳の男性としていられる場所は仕事だけで、和にとってそれは聖域の様な特別な場所だった。


「何か、意外だな。店での秋芳さんは大胆な感じがするのに……意外とシャイと言うか」

「ははっ……忘れて下さい。あれは……ノリと言うか、そう言う類の物なので」


 食べ終わった椀を片付けてくれた宇部は、買って来た解熱剤に白湯まで用意して甲斐甲斐しく世話してくれた。

 ふと、バーでの噂を思い出した。マスターには心に決めた人がいる。

 それはもしかして、堂舘の事だろうか……。

 そんな事を思いながら、鈴虫の音色に耳を傾けた。

 アスファルトと鉄筋に囲まれた生活をしていると、鈴虫の声など聴く機会も無い。

 熱を出すなんていつ振りだろう。貧相な割に身体は強い方だと思っていたけど、思いの外疲れていたのかも知れない。火照る身体は怠く重く布団に沈む。


「先生……ありがとう……ございます」


 届かない声で、和はそう零した。

 構われるだけで嬉しいに決まっている。

 あんなに自分を邪険にしていた堂舘が和と呼んでくれるだけで、嬉しかった。

 でも、欲しがってはいけない物がある事を和は知っている。

 堂舘が書いた小説の中の香織の様に、真実とか、本物なんてものを欲しがってはいけない。

 好きになんて、なるもんじゃない。憧れは、一番遠い所にあるものだ。


江月照こうげつてら松風吹しょうふうをふく……永夜清宵えいやせいしょう……何の所為しょいぞ……だっけ」


 秋月の輝く綺麗な風景は何の為にあるのかなんて、男が女を好きになるのは何故かと問うくらい愚問だ。

 当たり前じゃ無い自分は「在りのまま」なんてセオリーにはハマらない。


 和は開け拡げられた格子戸に仕切られた様なパノラマを、潤んだ眸で眺めながら一人失笑し、眩しい位の蒼白い月明かりを瞼を閉じて遮った。



 ――――明日には、忘れてしまおう。

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