3-15.
◆
死んだ、と思うくらいの振動だった。銃弾に貫かれたのかと思ってしまうほどの衝撃だった。
突然俺は目が飛び出そうになるくらいの衝撃を後頭部に覚え、前のめりに吹っ飛んだ。一瞬気を失って、地面に四つん這いに倒れている状況がわからなく錯乱したほどだった。ジンジンと体全体に響くような痛みを催す頭を押さえ、何とか立ち上がろうとする。足がフラついて上手く動かなかった。それでも四苦八苦して何とか足元を固めて中腰にまでは復活する。
目の前にいた人物の姿を見て、俺はもう、何が起こったのか、なんて疑問符は浮かべなかった。その姿、その格好、その形相を見ればもう、誰が何をしてきたのかなんて、わかりすぎるほどにわかってしまう。
そうだ。こいつはそんな奴だったよ。まさかここまで来るとは思わなかったけど、そんな予想もできないようなことを平気でするような女子だってことは、嫌ってくらい思い知らされてたじゃねえか。
これは俺の失態だ。何も警戒せずに呑気に構えていた俺が悪い。
やっと意識がハッキリしてきた俺は完全に立ち上がえり、前を見据える。
相手は本気だ。ここまで本気を見せられたのなら、俺だって本気でやってやらなきゃなんねえ。
頭の中でプチプチと何かが切れていく。もう迷いはなかった。冷静な思考なんてクソ喰らえだ。怒り狂う猛獣のように強烈な視線を飛ばしてくる目の前の相手を見て、俺は思った。
俺は、荒川輪子をブッ潰す。
顔面からブン殴ってやろうと思った。立てないくらいに痛めつけてやろうと思った。ここで勘違いしてもらいたくないのは、俺は何も荒川に暴力を振りたかったわけじゃあない。できることならもちろん、そんなことは避けたかった。
でも、この時は生存本能がそれを許さなかった。荒川はもう我を失っている。なら、こっちもそれくらいの気概でいないとやられる。殺らなきゃ殺られる。そんなどうしようもない状況だったんだ。
自転車に乗ったまま今にも飛びかからんとしている荒川は、まさに獲物を前にした獣そのものだった。こちら隙を見せれば容赦なく突進してくるだろう。でも、何もその時をじっと待っていることなんてない。主導権を握られたら終わりだ。向こうは自転車という凶器を持っているけれど、腕力ならこちらの方が上なのは間違いない。つまり自転車から降ろしてしまえばもう勝ったも同然なんだ。
それなら――
俺は先手を打つべく駆け出そうとし――同時に荒川も動き出す。俺の思った通り、荒川は自転車ごと宙に舞おうとし――
パッキーン……。
何かが割れたような快音が夜の街を震わせた。荒川は突然支えを失ったようにバランスを崩し、そのまま地面へと吸い込まれる。投げ出される車体。転げ落ちる身体。荒川は勢いのままに身体を地面に打ち付け、そのままうつ伏せに動かなくなった。
支え主を失った自転車は重力のままに倒れて地面に転がっている。どちらも動かず、誰も喋らなかった。俺も固まっていた。目の前で起きたことが信じられなかった。
何もしてないのに荒川がコケる? そんなことがあり得るのだろうか?
でも実際に、無類のテクニックを誇っていた荒川は自転車から落ちた。落下した。とてつもなく不自然なタイミング、不自然な姿勢で自転車から離れた。
彼女の身に何が起きたのかはわからない。多少の戸惑いを覚え、冷静な思考を取り戻しつつも俺はこれを好機と見て自分のすぐ傍に転がってきた荒川の顔を無理矢理こちらに向かせ――思わず手を引っ込めた。
身動きひとつする気配のなかった荒川の顔は、恐怖に歪んでいた。恐れおののき、世界で最も残酷な処刑シーンを生で見てしまったかのように顔を引きつらせ、喘いでいた。人の目はこんなにも開くのかというくらい目を見開き、涙を流し、正気の人間とは思えない形相で見つめてくる――否、どうやら彼女は、俺に対して恐怖しているわけではなさそうだった。
呻き声にも似た悲鳴のなりかけみたいな声を発しつつ、荒川は瀕死しているかのようにフラフラと起き上がると、俺をそっちのけ、四つん這いのままあられもない格好ででどこかへ向かおうとし――すぐそこにあった自分の自転車の前で止まった。
「嘘、嫌、嫌、やだ、そんな、やだ、嫌だよ、そんな、何で、そんなぁ……」
嗚咽を漏らしながら自転車のことを、まるで死んでしまった仲間を見るかのように恐る恐ると覗き、
「やだ、やだ、やだ、やだ、やだ! いやだよおおぉ、いやああぁあぁああ」
自転車に抱き付くように覆いかぶさって、大声で泣き叫んだ。その姿はまるで本当に死者に対する姿勢のようだったが、荒川に関しては、本当にそうだったのだろう。
彼女にとって自転車とは、もはや大切な家族のような存在に留まることのない、本当に大切な家族だったんだ。両親や兄弟と同じように、愛すべき家族だったんだ。だから、それが壊れてしまった時の悲しみは、常人が家族を失った時のそれと同等、もしくはそれ以上だったに違いない。何故なら、荒川輪子は自転車のことを愛しても愛しても愛し切れないくらい、愛していたんだから。
「リンコ。わかる? それが江戸さんの受けた痛みだよ。リンコがその自転車で江戸さんに暴力した時に、江戸さんが受けた痛み。それがそのまま、その自転車にも返ってきたんだよ」
どこからともなく現れた自転車に乗った謎の美少女は語った。
「自転車ってそんな使い方するものだっけ? リンコが好きだった自転車は、人に暴力振るうためのものだったの? 違うよね。だってその証拠に、その自転車壊れちゃったじゃん。当たり前だよね。自転車はそんな風に使うものじゃないんだから」
さっき鳴り響いた甲高い音は、何がどうなったのかはわからないけど荒川の自転車が壊れた音だったらしい。皿か何かが割れたような音に聞こえたけど、とにかく荒川の自転車には致命的なダメージが加わってしまったらしい。もう乗ることすらできなくなってしまうような――大きな痛み。
「そっ、そんなっ、あたし、違う、違う、そんなことがしたかったんじゃ……」
「何も違わないでしょ。リンコは怒りに身を任せて自転車を武器にした。それで江戸さんに暴力した。もう変えようのない事実だよ。つまり、リンコにとって自転車はそういうものだったってこと。でも自転車はそれに応えてくれなかった。だから壊れちゃった。江戸さんの痛みを受けて、壊れちゃった。それが自転車からの答えだよ。もう乗れないよ。乗るなってことだよ。リンコは自転車から拒否されちゃった。自転車乗り失格だね」
「嫌、嫌、何で、やだ、もう乗れないなんて、やだ、やだ、ツー、何でそんなこと言うの、やめてよ! 嫌だよ!」
「やめてって言われてもなー。だってその自転車、リンコが自分で壊したんじゃん。勝手に壊れたんじゃないよ。勝手に死んじゃったって思ってるみたいだけど、違うよね。リンコが壊したんだよ。殺したんだよ。自分の自転車を自分で壊す人なんて、自転車乗りにはいらないよね」
怒りや憎しみ同様、荒川の悲しみもそれは大きなものだった。海峡の向こう側まで届きそうな大声で泣きだした彼女を、俺はただ黙って見守っていた。ツーは自分で言ったことすら早速忘れてしまったような何食わぬ顔でクルクル回っている。荒川をブチのめそうとかって気持ちは、もう俺は残さず捨てていた。
まあ荒川が戦意喪失したみたいだから応戦する必要もなくなったわけで、俺はこの時、次のようなことを考え、また、この質問をぜひ世の人に投げかけたく思っていた。
荒川輪子を見て、あなたはどう思うだろう?
自転車を何よりも愛し、それのために笑い、それのために怒り、憎しみ、それのために悲しみ、それのために生きる者の姿を。
普通なら、気が違っていると感じることだろう。自転車なんて世間一般的にはただの乗り物、手軽な移動手段でしかなく、それは例えば机や椅子と同じで、あるから使うだけ、便利だから使うだけの物だ。机や椅子に家族と同じような愛情を感じる人間はよほどの変わり者であるのと同じように、自転車もまたそうだ。自転車好きというタイプの人間は少なくとも机好きや椅子好きよりはこの世に存在しているみたいだけど、それでも荒川輪子のように、それを血のつながった両親や兄弟のように思っている人間はそうそういないだろう。
つまり荒川輪子は変わり者なわけで、そんな世間とは違う趣味趣向を持つ人間を周囲の人間が忌むのはごく平凡な光景と言える。
俺だってそうだった。荒川の自転車好きは理解できなかったし、そもそも自転車が好きという思考が理解できない。だから俺はできるだけ彼女を避けようとし、できる限り早く彼女から逃れようとしていた。
早く解放されたかった――んだけどなぁ。
壊れてしまった自転車に対して本心からの悲しみを見せる荒川を見てたら、何だろう、俺は今まで感じたこともない、奇妙な感覚を覚えてしまった。この得体の知れない感覚に名前を付けるとしたら――それはきっと、『感動』だと思う。
芸術家でなくとも、音楽とか絵画だとか、身近な芸術作品に触れて心動かされる経験は誰にだってあるだろ? 俺も、そんな気持ちになっちまった。何ていうか、そこにあった荒川輪子という人間の『愛』の形に感動してしまった――らしい。
彼女の愛はもはや偏愛だとか狂愛だとかで言い表されるような歪んだ形の愛を越え――俺はそこに、純粋な『愛』を見出してしまったのだった。
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