3-15.
◆
この時俺がどんな行動を取ったかと言えば簡単だ。逃げた。
この時ばかりは何をしようが荒川を宥めることはできそうになかったため、俺の手元に残されていた手札は二枚。戦うか、逃げるか。
でも荒川は俺を亡き者にするまでその手を止めるつもりはなかっただろう。すると戦うを選んだ場合、俺は同じく荒川の息の根を止めるか、少なくとも動けなくなる状態までダメージを与えなければならなそうだったのだけれど、俺は基本的に平和主義で流血沙汰は厭うタチだ。それに、仮に俺に荒川を抑え込むほどの戦闘力があったとしても、クラスメイトの女子を痛めつけることができるほど俺は喧嘩好きでもなければ彼女のことを憎んでいるわけでもない。
と、なれば取るべき手段は逃げるの一択。俺は迷わず逃げた。
鬼教官(妹)による筋トレ指導のおかげで、いざとなったときの俺の瞬発力も捨てたもんじゃない。俺は荒川の後方上空に浮かんでいた未確認飛行物体に気を取られたフリをしつつ隙を見て反対方向に猛ダッシュ。前の行動に意味があったかはわからないけどそんなことはコンマ三秒後には忘れて河川敷から土手へと上がる激坂を駆け上がった。
さすがに自転車を片手に立っていたのだから、その初速の差は大きい。荒川が俺に追いつくにはまだ時間的余裕があるだろう――なんて常識的な考えはやはり、彼女には通用しなかった。
俺は自分の後ろの状況を確認するべくちらりと振り返り――その瞬間に横へ身を投げた。危ないところだった。またも一歩遅れていたら俺は自転車に轢き殺されているところだった。既に車上の人と化していた荒川は足場の悪い坂など物ともせず、俺に追いつくなり自転車ごとタックルを決めようとしてきたらしい。俺はすぐに体勢を立て直し、同じく追撃態勢に入った荒川と対峙する。
これでは明らかに分が悪い。自転車に乗った荒川はもはや機動性という点では無敵だ。徒歩で登るのもままならないような坂の上で自在に自転車を操り、この差をこの短時間で詰めてくるような加速性及び俊敏性を誇るような奴からどうやって逃げればいいんだ?
どうにかして奴の動きを止めなければならない。しかし考えている時間はなかった。俺は捨て身の思いで身を屈めると、華麗なるスタートダッシュを決めるかのように見せかけ――
「あっ、パンツ丸見え!」
言い放った。これが荒川をたじろがせるのに効果的なセリフだったのかはわからないけど――少なくとも彼女は、気にはしたようだった。怒りの形相が見る見る恥辱に赤らんでいき――なんて茶番のような展開にはなるわけもないけれど、荒川が目線だけは数ミリ単位で下に動かしたのを俺は見逃さなかった。
そして、彼女のその微妙な気のズレが引き金となったのかはたまた自然の神が俺に味方してくれる気になったのかもしくはその両方なのか、直後に荒川は斜面の泥に車輪を滑らせ、その場でズッコケた。
実際にはよく見えなかったんだがまあ見えていたとしてもそんなもんあんな格好で自転車に乗っている方が悪い。俺はこの機を逃さず残りの坂を一気に登り切り、道路に出たところで通りかかったタクシーに滑り込むようにして乗り込んだ。
「早く出せ! いいから早く!」
運転手に怒鳴り付け、ハンドルを握る白髪白髭の男性は迷惑そうな顔をしながらも車を急発進させる。唸るエンジン。響く轟音。俺はいつ荒川がまた追いついてくるか気が気じゃなかった。あの並外れた身体能力の持ち主のことだ。転んだことなんて気にも留めずにすぐにまた走り出し、あの時――そう、都内の喫茶店に連れて行かれた時と同じように自転車とは思えない驚異的なスピードで追いかけてくるんじゃないかと内心ヒヤヒヤでたまらなかったんだ。
でもさすがに、こちらも今回は内燃機関が全力を出している。ガソリンと空気の混合気の爆発によって得られるエネルギーを惜しげもなく使って進んでいるんだ。運よく信号にも引っかからずにその場から離れることに成功し、俺は運転手にとりあえず家の方向に向かうように指示する。無理矢理爆走させたおかげか川が見えなくなるまで荒川が後方の視界に入ってくることもなく、大通りの車の流れに乗ってスピードが安定してからも後ろに見えるのは同じくゆったりとした流れを作る車の姿だけだった。
どうやら逃げ切れたらしい。俺は何を考えるよりもまず、疲労と緊張の両方ではち切れんばかりに鳴っている心の臓を落ち着けることに専念した。後部座席に深く腰掛け、車が揺れるのに身を任せる。車が絶え間なく行き交う騒音が、この時ばかりは癒しの波長を伴って耳に届くようだった。例えるならそれは、休日の雨音のように。一定のリズムで鼓膜を震わすその音は、単調だがどこにも不快感がなく、聞いているうちに自然と無心となって心のわだかまりを取り除いてくれるんだ。
俺は安堵のあまり気を緩めてしまったようで、先程の重労働の疲れが一気に出てきたようだった。いつの間にかウトウトしていたらしい。信号で止まったところで運転手がかったるそうに行き先を尋ねてきたので我に返る。
「ええっと……」
眠い目をこすりながら今いる位置を確認する。周りにあるのはビル、ビル、ビル……うんわからない。都内のどこかだということはわかるけど、地理に詳しくない俺に現在位置を特定することは多少の難があった。
今どこですか、と運転手に聞こうとした。聞こうとしたというのはその表現通り聞こうとしただけであって、実際には聞けなかった。
何故聞けなかったのかと言えば、聞こうとした途端に邪魔が入ったからであり、その邪魔とは俺と運転手両方の心臓を胸の中から弾け飛ばさんばかりに驚愕せしめるに足るほどに衝撃的な出来事だった。
空から急に何か降ってきて、フロントガラスを粉々に砕いたんだ。
豪快な衝撃音が耳を貫き、相応の激しい揺れに車体は見舞われる。飛び散ってきた窓ガラスの破片から身を守るようにして腕を前に出し、その隙間から何が起こったのかと外の様子を伺おうとして――俺はもはや驚きを通り越し、呆れて笑いが出そうになったくらいだ。
マジかよ……。
言うまでもなく空から降ってきた自転車に乗っていたのは荒川だ。そんな簡単にこの女子から逃げられると思った俺がバカだった。荒川はやはり諦めることなく追いかけてきていた。どんな走り方をしてここまで来たのかは知らないけど、とにかく荒川は追いついてきた。車に追いついてきた。エンジンの力で走る自動車に、自転車で追いついてきた。
俺は運転手のことは諦めて外へ飛び出した。信号待ちの車の列の中を縫って歩道へ上がる。荒川はすぐにも追いかけてくるはずだった。どうしようとしたわけでもない。ただ、話すにしろ殴り合うにしろ車道の真ん中で留まっているのは気が引けたから、とりあえず広い歩道に上がれと脳が生理的に要求していたのだと思う。
ガードレールを飛び越えながら流れるような動作で俺は後ろを振り返る。この時点で先ほどと同じように自転車で飛びかかってきた荒川が真後ろにいてもおかしくはなかったのだけれど――ここでハプニングが発生する。驚くべきことに、それは荒川の視点から見たハプニングだった。
すぐにでも対峙することになると思われた荒川だが、俺が振り返った時点ではまだタクシーの場所から動いていなかった。地面に降りてはいるが、何やら様子がおかしい。一度自転車に乗ったらてこでも降りようとしない荒川が、ペダルから足を離して地面についていたんだ。しかも、俺のことを追おうともせずにしきりに自転車のこと――特に後輪の辺りを気にしているように見える。何だ何だ。何が起こったっていうんだ?
その荒川の仕草を見ていた俺の頭に、天啓の如くひとつのひらめきが訪れる。自転車に詳しくない俺でもそれくらいのことは知っている――もしかしてあれは……パンクしたのか?
どうやらそのようで、それしか考えられなかった。先ほどタクシーのフロントガラスを突き破った時の衝撃か、もしくは砕け散ったガラスの破片のせいだろう。荒川が乗っているような自転車にパンクがどれほどの影響を与えるかについての知識はあいにく俺は持ち合わせていなかったけど、少なくとも見た感じでは走行不能になるらしい。
――しめた!
俺はすかさず、信号が青になって走り出そうとしていた車列の先頭のタクシーを停めて飛び乗った。先ほどのタクシーの料金については忘れていたことにして、荒川が慌てたように見えたのを尻目にまた運転手に猛加速を命じる。フロントガラスを突き破られた先ほどの運転手には悪いけど、事後処理はテキトーにやっておいてくれ。俺はもう何も知らない。知ったこっちゃない。
さらばだ荒川。もう二度と会うことはないだろう。そこで怪我した運転手と仲良くやってくれ。アディオース。
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