3-14.


 「あのなあ、俺が自転車部に入ったからと言って、俺の考えが変わるとは何も限らねえんだぞ?」


 「何で? どういうこと?」


 常人なら一発で反抗心をゼロにされてしまいそうな視線を突き立ててくる荒川に、俺は言った――言ってしまった。


 「お前が誰よりも何よりも自転車を愛しているのと同じくらい、俺は昔から自転車が嫌いなんだ。だから、お前が誰に何と言われようと自転車が好きなのと一緒で、俺は誰に何をされようが自転車が好きになるなんてこたあねえ。何でかって言やあ、めんどくせえからだよ。俺はとにかく移動することが嫌いなんだ。面倒なんだよ。それをわざわざそんな重い鉄の塊引っ提げてまで、好んでどっか行こうとする奴の気が知れねえ。なんでわざわざそんな鉄クズみたいな――」


 荒川と出会ったことで、例えそれが一年で大陸の位置がズレる距離ほどだろうと、俺の自転車に対する意識は確かに変わっていた。だから、この時は本気で自転車を罵倒しようとしわけではなかった。ただ、ムキになって昔のクセが出てしまったというか、思わず強い言い回しを選んでしまったというか、とにかく俺が発した単語に一カ月と少し前と同じ意味合いは決して含まれていない。


 でも、それはあくまで発した本人だからわかる発言者の心情というもので、もちろん聞き手にとっちゃあそんな発言者の意図は何でしょうみたいな国語の試験レベルのニュアンスの違いは論外もまた論外――特にこの、荒川輪子という女のような感情論者の鑑とでも言うべき人間には、さぞどうでもいいことだったに違いない。


 彼女が言葉の表面的な意味だけを取り――いや、むしろ表面だけでもうそれはアウトだったのだろう――、それに誘発されて彼女の心が核融合反応を起こすまでの時間は、ごくわずかしかなかった。


 気が付いた時にはもう遅かった。否、むしろ気が付けただけ幸運だったと言うべきだろう。頭よりも先に動いた身体がのけぞった直後には、元々俺の頭が位置していた空間を高速物体が通過していた。続けて同じような高速物体が逆方向から腰の高さに到来し、俺は考える余裕もなく間一髪でそれを避ける。


 状況を把握できたのはその後だった。あと一歩身体の反応が遅かったら、荒川の蹴りによって俺の頭が吹き飛ばされるか身体が真っ二つにされるかのどちらかになっていたかもしれない。空手の達人顔負けの鋭い蹴りだった。しかも片手で自転車を支えながらの速攻。この女、やはりただ者じゃない。


 「信じてたのに……」


 荒川の表情が歪んでいく。


 「江戸君はもうそんなこと言わないって、信じてたのに」


 憎悪に満ちた目。いつぞや見覚えのある顔だった。そう、あの時と同じ――俺が不慮の事故で荒川の自転車を倒してしまった時と同じ、鬼のような憤怒の顔。


 「何で? どうしてまたそんなこと言うの? もう言わないって約束してくれたじゃん。それなのに、ヒドい。ヒドいヒドいヒドいヒドい! 酷い。もう許さない」


 あの時はまだ、わずかながら俺にも機転を利かすだけの余裕があった。咄嗟に語りかけることで、何とか難を逃れることができた。


 でも今は、そんなことを思い出す余裕すらなかった。



 荒川は今度こそ本気だ。


 憎しみに心を染め、怒りに身を任せ、恨みに思考を支配され。


 本当に俺を殺す気だ。



 もう誰にも止められない。

彼女は、狂ってしまった。

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