3-13.
◆
「ふたりとも、今日はありがとね。自転車部のことは、ごめん、何しろ急な話だったからすぐには決められないんだけど、ちょっとだけ考えさせてもらえるかな。でも、荒川さんと話してたらすっごい楽しそうに思えてきた。前向きに考えられそうな気がする。そうだね、それじゃあ、月曜までには決めることにする。今度学校で会った時に返事するってことでいいかな」
すっかり遊び疲れたといった具合の宮は別れ際にそう言い、荒川がそれを二つ返事で了承してこの日は解散となった。
全員一緒に別れれば良かったものを何故か俺が荒川と一緒に宮を見送るような形になっていたことについての質問は俺にだって答えがわからないから受け付けない。
暖色の光に包まれた世界の中で、隣の荒川が地面に落とす長い影が不吉の予感だとは、俺はこの時露ほども思っていなかった。
「さっ、」
宮の姿が見えなくなったところで荒川は弾んだ様子で振り返り、
「さっすが江戸君! これで宮ちゃんが決心してさえくれれば、自転車部結成できるね!」
「え?」
俺は不可解に思った。宮が入ってくれると仮定しても、まだ部員は荒川、五十嵐アリスを加えて三人しかいない。最低人数にはもうひとり必要だ。
俺は荒川が勘違いしているのだと思ってそのことを指摘したのだけれど――、
「えっ? もう四人集まったじゃん? あたしにアリスちゃん、宮ちゃんに――」
きょとんと無邪気に目を丸くした荒川はここで、実は荒川の自転車好きは演技でしたと告白されるのと同等レベルに俺が思ってもいなかったことを口にするのだった。
「江戸君。これで四人。違う?」
「いや、待ってくれ」
俺は一拍置き、呼吸を整えてから、
「何で俺まで入ることになってんだ? そんなこと俺は一言も言ってねえぞ?」
「ええっ!? そうだったの? あたしてっきり、江戸君も参加してくれるんだと思ってたんだけど。それに、ほら、江戸君が入ってくれれば、これでもう四人だよ? 部活作れるじゃん。部室ももらえて一件落着だよ」
「いや、参加するも何も、俺は自転車を持ってないし自転車が好きですらない。はっきり言えば嫌いなくらいだ。それなのにどうしてそこに俺が自転車部に入らないといけない道理が生まれる?」
齟齬というものは時に恐ろしい。最初に生じた僅かなズレに気が付かず放置してしまったせいでそれはバタフライ効果よろしくいつの間にか取り返しのつかないほど肥大化してしまうことも稀ではなく、この時ももう既に俺を自転車部に入れる気満々でいたらしい荒川は「ダメ」とか言って俺の主張を蹴散らし、
「江戸君も入らないとダメだから。じゃないとあたしが許さない」
「いや、まず何で俺の部活動の選択にお前の許可が介入してくるのか説明してほしいんだけど……」
「自転車に興味がないってだけならまだいいの。でも、自転車のことを嫌いとか言う人のこと、あたしは見過ごせない。自転車のことをバカにすることがないだけマシだけど、それでも嫌いだなんて言う人、あり得ない。あたしが根性叩き直してやるわ」
まずい。さっきまであんなに機嫌良さそうだったのに、荒川の目がだんだん自転車の敵を見る目に変わってきた。自転車のこととなるとどうしてこうもこの女は気の変わりようが激しいんだ。俺はこの目に睨まれた後良いことがあった試しがない。
何とかして荒川の機嫌を取り戻さないと、今度ばかりはマズいことになる気がする。
「待て、すまん。悪かった。前言撤回させてくれ。自転車が嫌いだなんて言った俺が間違ってた。まあそれでも好きってことはないけど、そうだな、興味がないだけだ。俺は自転車に興味がないんだ。だから自転車部には入らないんだよ。それでもダメか?」
「ダメ。どんなに言い訳しようと、江戸君が自転車嫌いなの、あたしもう知ってるから。言われなくても態度でわかるし。それに、仮にも江戸君はあたしのこと色々助けてくれた人でしょ? そんな人が自転車嫌いだなんて、嫌だもん。自転車嫌いな人に助けられたなんて一生の恥だし。だから、自転車部に入れて、その考えを叩き直してあげる。だから、入って。拒否権はないよ」
クソ。どうすればいいんだ。これぞ感情論と言わんばかりの論理展開を繰り広げる荒川の顔はしかし、ド真剣そのものだ。俺はこの顔をする時の荒川を知っている――そう、自転車と離れたくないからという理由だけで自転車を教室に持ち込み、また、校内自転車移動を始めて教師陣と真っ向から対立し、強引にねじ伏せてしまった時と同じだ。
誰にも止められないレベルのワガママで、しかし本人は誰よりも真剣なんだ。有名私立校の教師が束になっても敵わなかった女子を相手に、俺は恥ずかしながら論戦を仕掛けようなんて勇気も度胸も、本来はなかったはずだ。
でも、それでも、これだけは譲れなかった。俺は自転車部を作り次第、荒川という隣の女子生徒から一切解放されて自由な高校生活に舞い戻るつもりだったんだ。自転車部か、自由か。ここで下手なことを言って荒川を逆上させてしまっては、これまでの努力が一切合財水の泡に帰することになるかもしれない――という考えは、俺の頭に舞い込んでくるのが一歩遅かった。もう少し俺の頭が柔らかければ、他の妙案があったかもしれないけど――俺は何よりも、自転車部に入りたくないという本心を優先させてしまった。
相手が真剣なら、こちらも真剣な気持ちをぶつけないと勝ち目はない。
そして俺は――マズった。
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